005
翌朝、身を起こしたトルトは、周囲の様子を見て目を丸くした。
岩。山のどこを見ても、岩しかないのではと思うほど、ダンゲロ山は岩のかたまりであった。昨日到着した際はすでに日が暮れていてよく見えなかったが、こんなにも岩肌が露出している山だったのか。これまで青々とした草原を歩いてきただけに、その光景は別世界に迷い込んだかのようであった。
とはいえ、全く緑がないわけでもない。小さな高山植物が、ぽつり、ぽつりと、しかし個々で見ると力強さを感じさせるようにしっかりと、生えていた。
「いやー、やっぱ想像以上に過酷そうだなぁこりゃ」
トルトは山を見上げた。山頂。立派なものだ。なんだかまぶしいと、目を細めた。今からあそこまで、けわしい道のりを登っていくわけだ。そう思うと、トルトは熱くなった。
「……トルト、そろそろ出発の準備をしてください」
そうやって山頂に思いを馳せていたら、ウィスにしかられてしまった。苦笑し、悪ぃ悪ぃ、と軽い調子で謝ってから、テキパキと荷物をまとめているウィスにならった。
一口に山登りと言っても、彼らの主目的は別にある。人探しと、試練だ。まずは、明るくなったところで、改めて麓で痕跡探しだ。が、これはやはり空振りに終わった。
「爺さん、ほんとにこっちに来たのかね」
トルトは不安になったが、ウィスは落ち着いた様子だった。
「恐らく、ワッリという方がここを通っていたとしても、我々がここに来るまでに、数日の誤差があります。そのあいだに、足跡のような消えやすい痕跡はなくなっていてもおかしくありません」
加えて、ここまで来てすれ違っていないのだから、この先にいるのは間違いない、というのが、ウィスの考えのようだ。言われてみると、そうだ。理に適っている。トルトは納得し、いくらか安心できた。
「ウダウダ考えてねぇで、登ってみた方が早いかもな」
「案外、のんびり山登りの最中に合流できるかもしれません」
ふたりは捜索を切り上げ、ひとまずはと山を登り始めた。
加護継承試練の場に選ばれるだけあって、山道はゴテゴテとした岩で覆われており、体の平衡を保つのが難しい。ただ登るだけでも一苦労だ。
「こんなものは道じゃない!」
うんざりした様子で、ウィスが叫んだ。そんなことを言ってはいるが、突き出た岩に足を取られてすっ転ぶ、という失態もおかさず、むしろ起伏がおとなしいところを的確に選んで足を運び、危なげなく進んでいる。
「おいおい、ちゃんと歩けてるじゃねぇか」
一方トルトは、無造作に歩いているというのが近い。それでも、進む速度はウィスと同等である。己の体力にまかせた力押しだ。これくらいならまだまだ息はきれないな、と判断した上での力技である。
「あのですね、私、学者なんですよ? こういう道は嫌いに決まっているでしょう。歩けるかどうかとは別の問題だ!」
顔をしかめつつ、ウィスが言った。そういえば、剣士としての腕がすごかったので、ウィスが学者であることをすっかり忘れていたな、とトルトは思い出した。
「なるほど、腐っても学者ってわけか」
「腐っても!? なにを根拠に私が腐っていると!」
素直に感心したつもりだったが、ウィスはお気に召さなかったようだ。悪路だというのに、ブンブンと腕を振り回さんという勢いで怒っていた。
不意に、開けた場所に出た。山の中腹くらい、というところだろうか。目の前はなだらかではあるが崖になっており、先へ進むにはよじ登っていくしかなさそうだ。振り返ってみると、(主にウィスが)ぶつくさ文句を言いながら登ってきた道と、その向こうには緑がどこまでも広がっていた。
日はちょうど、真上に達したところだ。場所としても、時間としても、休憩するには都合がよさそうだ。
「ウィス、ここらでちょっと休憩に――」
ウィスの方へ振り向きながら言おうとしたトルトは、途中で言葉をつぐんだ。ウィスが、なにかを凝視している。気になって、トルトも目を凝らした。
焚き火のあとだ。燃やされた木こそなかったが、岩の一部が焼け焦げて、黒ずんでいる。古いものではなさそうだ。
「……じいさんのかね」
「さぁ。とはいえ、誰かが数日以内にここまで来たことは確かでしょう」
ウィスはそう言っていたが、トルトはワッリの可能性が高いと睨んでいた。近くのコウ町の住民は、ここには寄り付かないという。であれば、ここを目的とする人はめずらしく、目立つはずだ。町の人の話を聞く限り、最近でここを目指してきたのはワッリとトルトだけだ。ならば、この焚き火を行った者は必然的にワッリだろう。ウィスも、言葉とは裏腹に、同じように考えているようだ。希望は、見えてきた。
そのときだった。トルトは、不意になにかを感じた。見られている。咄嗟に荷物を落とし、周囲を見渡すが、ウィスを除いてなにもいない。ウィスも気づいたらしく、あたりを警戒している。
このような開けた場所で、なにも見えない? おかしい。隠れるような場所などない。ならばどこにいる。
上。はっと気づいて、トルトは顔を上に向けた。だが、それを視界にとらえきるには一歩遅かった。
「グルァッ!」
バッと、崖の上からそれが跳びかかってきた。咄嗟に横っ飛びをする。間一髪。だがそれで、ウィスとは引き離された。
トルトがそれを睨みつけると、奇襲に失敗したことを悟ったのか、うなり声をあげつつ振り返っているところだった。
幹のように太い、四つの足。身のこなしの軽そうな、それでいて力強い、人間よりひとまわり大きいほどの体躯。岩に溶け込むかのような、黄褐色の体毛。獲物を貫く、立派な牙。そしてなにより、恐ろしげに光る目。
「……テリグか!」
凶悪な猛獣として知られている、テリグだ。本来草原に暮らす獣だと思っていたが、体毛の色から察するに、山で暮らすような亜種か。ダンゲロ山が危険とされるのは、こいつの存在が大きいのだろう。
あの体の大きさだと、ウィスの位置でも先の突進で巻き込まれるのでは? と思い、チラと目線を動かすと、果たしてウィスも離れた位置で起き上がろうとしているところだった。けがはなさそうである。つまりは、彼もしっかり避けたのだろう。
それだけ一瞬で確認し、トルトはすぐに目をテリグへ向けた。
「グオォッ!」
テリグは一吠えすると、すぐさまトルトへと突っ込んできた。慌てて前転でテリグの懐へ飛び込み、すれ違う。振り向くと、テリグは後ろ足を突き出そうとしていた。たまらず跳び退る。トルトは顔をしかめた。ここまで、剣を抜く暇すらない。やつが振り返るまでの隙に一撃お見舞いしてやりたかったが、剣を抜きながら走り寄るのでは遅いだろう。
テリグは、振り向きざまに前足を振っていた。斬りかかろうと跳びこんでいれば、あれをマトモに喰らっていたはずだ。やっと剣を抜きながらも、トルトは冷静であった。
テリグはじりじりと近づきながら、こちらの様子をうかがっていた。ただ大口開けて噛み付いてくるようであれば、横に跳んでかわし、無防備な首元に剣をつきつけてやれるのだが、向こうもそれが分からないわけではないらしい。こいつ、獣のくせに頭を使う。トルトは舌打ちした。面倒なやつだ。
テリグは、噛み付いてくるかわりに、また足を使ってきた。低く構えたかと思うと、にゅっと前足が伸ばされる。トルトは踏み潰されないように、左へ転がる。起き上がりながらさっと剣を横に薙いだが、思ったより離れていたらしく、毛が数本舞っただけだ。
その後も、お互いに一歩も譲らぬ攻防が続いた。ウィスはなにやってんだ、と思わないでもない。彼はトルトとテリグが戦い始めてから、まだ一度も介入していないのだ。だが、今ウィスの姿を探そうと視線をテリグから外せば、その瞬間に食い殺されるという確信がある。一瞬の隙もゆるされない戦いだった。
ふと思いつき、テリグの攻撃を全て後ろへ跳ぶことで避け、テリグから距離を取った。すると、テリグは吠え声をあげながら突進してきた。慌てず、トルトは最初と同じように懐へ飛び込んですれ違う。余分に転がり、テリグの後ろ足の餌食にならないようにした。
振り返ってみると、まだテリグは背中を晒していた。しめた。
「もらったぁっ!」
トルトはだんっと跳びあがり、テリグめがけて全力で剣を振り下ろした。テリグの目の前は崖であり、逃げ場はない。トルトの狙いは、これだった。攻防を続けている内にトルトが切り立った崖を背にしている形になったので、追い込む場所として利用したのだ。
しかし、トルトの剣はテリグの体を切り裂きはしなかった。テリグは、ばっと崖に向かって跳ぶと、当たり前のようにそこを蹴って方向を変えたのだ。
「なっ!?」
トルトは咄嗟に地面を大きく転がる。トルトの着地地点を、テリグの足が踏みつけていた。転がらずにそのままでいたら、やられているところだ。トルトは肝を冷やした。
にしても、あんな三角跳びみたいなことまでやってのけるのか。トルトは、テリグの身軽さに感心した。
このままだとらちがあかない。次はどうする、と思っていたら、いつの間にかウィスがテリグの背後に接近していた。
「そらっ!」
そのまま、テリグの斜め後ろからさっと剣を振るう。赤いしずくが飛び散った。グゥ、とうめき声があがる。テリグの片方の後ろ足が、ウィスによって斬られたのだ。
「さぁ、こっちを向きなさいこの猛獣!」
ウィスの声に反応してか、テリグはウィスの方を向いた。怒りに燃えているらしく、トルトにしかけていたものより激しい攻撃だ。ウィスはそれを、回避に集中することで、なんとかいなしている。
ウィスの狙いは、気をそらすことだろう。それは分かる。が、テリグの暴れっぷりはすさまじく、横から手を出そうものなら巻き込まれるのがオチだろう。ではどうすれば。
ふと、トルトは背後の崖を見た。岩の壁ともいえるそれは、よく見れば足をかけるだけでもある程度登れそうであり、ぱっと見た限りの強度も、ふんばる分には問題なさそうだ。
危険をかえりみず、トルトは崖に向かって走った。そのまま崖を、無理矢理駆け上がる。もう無理か、というところまできてから、トルトは身をねじりながら、思い切り崖を蹴った。
眼下には、テリグ。上からであれば、さえぎるものはなにもない。ウィスは、まだふんばっていた。テリグは、こちらに気づいている様子はない。
「おぉぉぉぉぉっ!」
雄叫びをあげながら、トルトは剣を逆手持ちにして構えた。左手を添え、ぐっと上に振りかぶる。
「これでも、喰らいやがれぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
テリグの体に激突する直前に、渾身の力を込め、思い切り剣を振り下ろした。ズブリ、と、剣は深く、テリグの頭に突き刺さっていく。
「ゴアァッ! ……アァ……」
テリグの体から、力が抜けていくのを感じた。巨体を支えていた足が折れ、ぐらり、と揺らぐ。
「おわわわっ!」
テリグの体は、ズシィン、と音をたて、横倒しになった。その勢いで、頭部にまたがっていたトルトは空中に投げ出され、ごろごろと地を転がった。
「ってて……ふぅー」
うちつけたところをさすりながら、テリグを倒したことを確信したことで緊張の糸がほぐれ、トルトは大きく息を吐いた。よろよろと立ち上がり、テリグの方まで歩み寄ると、頭に刺さったままになっていた剣を、血がふきださないように、慎重に引き抜く。
「やれやれ。うしろからあなたに斬ってもらうだけのつもりでしたが、随分思い切ったことをしますね」
あきれた様子で、ウィスが歩いてきた。激しい猛攻を向けられ続けていたせいか、肩で荒く息をしている。
「あんなの、普通に近寄れって方が無理だろ。ま、ウィスがひきつけてくれたおかげで助かったぜ」
トルトも、さすがに疲労があった。無事剣を引き抜き、さっと剣にこびりついた血を払うと、また、はぁーっと大きく息を吐いた。
「ほっほ、見事な戦ぶり。これほど鮮やかにテリグを狩るものを見たのは初めてじゃ」
突然、上から声が降ってきた。老人の声だ。まさか、と思い、崖の上を見上げた。
白髪を生やした、しかし屈強そうな老人が、ニコニコとこちらを見下ろしていた。
老人は、軽く膝を曲げたかと思うと、無造作に跳び下りた。
「はぁっ!? な、くそっ!」
あの高さでは、着地で骨が折れる。驚いたトルトは、慌てながらも老人の下まで駆け込んだ。受け止めようと思ったのだ。
しかし、そんなトルトを見下ろして老人はニコリと微笑み、ボソボソとなにか唱えた。すると、老人の体を光が包みこみ、老人の落下の速度は、ゆったりとしたものになった。
「……そ、それは……」
トルトは、息を飲んだ。間違いない。今この老人を包みこんだ光は、人の理解を越えた、全知の領域においてのみ実現しうる、神の奇跡。神に仕えしもの、すなわち、神の代理人である神官だけが使うことをゆるされる、神の力の具現。
「……加護」
ウィスが、ぽつりとつぶやいた。トルトもウィスも、突然の神々しい輝きに、あっけに取られていた。
「ふむ。どちらが試練を受けているものかな?」
光を伴い優雅に降り立った老人は、ふたりを変わる変わる見てから、質問した。
「あー、俺、俺だ。トルト。ディノス家の後援を受けている」
トルトが慌てて答えると、やはり、と老人はうなずいた。
「では、そちらの男性は?」
老人は、今度はウィスの方に視線を向ける。ウィスは多少慌てた様子ではあったが、姿勢を整え、丁寧に、深々とお辞儀をした。トルトが今までにみたウィスの挨拶の中では、最上級の礼である。
「しがない学者で、ウィスドム・オウルと申すものでございます」
「ほう、学者」
「俺の恩人なんだ。コウ町から一緒に旅をしてくれてる」
トルトが付け加えると、老人はなるほど、とだけ言った。
「ところで、どなたさまでございましょうか」
礼儀正しさを崩さず、ウィスが老人に尋ねた。
「おぉ、申し遅れた。わしは元神官で、現在は加護継承試練の認定官をやっておる、ワッリという」
老人――ワッリの名乗りを聞き、トルトは目を丸くした。
「ワッリ!? お、おいウィス、ワッリっていやぁ嬢ちゃんが探してくれって言ってたじいさんの名前だよな!」
トルトは、驚きで若干興奮気味になっていた。
「そうですね。やれやれ、まさか認定官殿であるとは」
一方ウィスは、まさかなどと言いつつも涼しい顔をしている。
「嬢ちゃん? トルトとやら、エルに会ったのか?」
ワッリの顔は心配そうである。
「あぁ、会ったぜ。元気そう――」
自然にそう言いかけたが、トルトは思いとどまった。出発直前の、エルトゥネの顔を思い出したからだ。あの表情を見て、元気だとは言いがたい。
「まぁ、その」
「お元気でしたよ」
言いよどんでいたら、ウィスが躊躇なく言った。が、言ったあとに、訝しげな目線をチラとトルトに向けた。
「それより、立ち話を続けるのもなんです。ひとまず野営をしようかと思うのですが」
ウィスが続けてそう言うと、ワッリは首を振った。
「こんなところで立ち止まる必要はあるまい。山頂にわしの小屋がある。日が暮れる前にたどり着けるだろうから、ひとまずそこまで登るとしよう」
言うと、ワッリは踵を返し、崖を登り始めた。年寄りとは思えない身のこなしで、軽々と登っていく。
「……む? どうした、ふたりとも。早くせんか」
崖の上まで登りきったワッリは、振り返って気軽そうに言った。
この崖、登るの? 今から? 激しい戦闘の直後なのに? トルトとウィスは、同じことを考え、顔を見合わせた。お互いに認識が間違いないことを悟ると、崖の上を見上げながら、そろって口をひらいて呆然としていた。
ふたりともしばらくは動けなかったが、ワッリにしきりに催促されたので、観念して崖をよじ登った。トルトは気合で、ウィスは最短の道を的確に選んで、それぞれ登りきったものの、テリグとの戦いで激しく動き回った直後だったせいで、息も絶え絶えだった。
「はぁー……無事登れたのは、奇跡じゃないですかね」
ウィスは、倒れこみながら、大げさに言った。
「お前さんらなら大丈夫じゃろうと思うたのだがな。ま、落ちるようであったらわしが加護をかけとるわ」
ワッリは豪快に笑った。
「ふざっけんな、このクソジジイ……」
ワッリに聞こえないように、忌々しげにトルトはつぶやいた。が、ワッリは耳ざとく聞きつけたようだ。
「なんか言ったかの」
ギロリ、とワッリはトルトを睨みつけた。
「……いや、なんも」
トルトは答えながら、よろよろとしつつ起き上がった。本当は休みたいところだが、この屈強な老人は待ってはくれないだろう。
起き上がってから、トルトは目を細めた。崖の下より、こちらの方が道がなだらかだ。ならされている、と言ってもいい。歩きやすそうだ。
「なぁ、じいさん。これ、あんたが?」
トルトは感動の目をワッリに向けた。
「まさか。元々こういう地形じゃ」
が、ワッリはあっさりと一蹴し、ウィスもどうにか立ち上がったのを見届けると、さっさと歩き始めた。
「なんだよ。すんげぇ加護で道まで作ったのかと思っちまった」
期待が裏切られたとうなだれつつ、トルトはあとをついていく。
「あの、ちょっと、まって。私、学者なので、まだ疲れが……あぁっ!」
ウィスは立ちはしたものの、まだ肩で息をするほど疲労が残っていた。先を行くワッリとトルトを呼び止めようとしたものの、ふたりとも止まる気配を見せない。慌てて追おうとしたウィスは、ドシャッ、と、盛大な音を立て、派手に転んでしまうのであった。