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001

 男は、今にも倒れそうだった。

 所々がほつれている外套を羽織っているのが、特徴的だ。その外套は頭もすっぽりと覆っており、男の顔は外からではよく分からない。整えれば映えるであろう金髪が、隙間からちらりと確認できる程度である。ぜえぜえと肩で荒い息をしており、鞘に仕舞ってある剣を杖代わりに全体重を預け、なんとか足を前に出しているという状態だった。

 男が今歩いている道は、若葉の色濃い広大な草原にある。平時であれば心をときめかせてくれるであろうその景色は、今の男には、なんの感慨ももたらさなかった。人通りが少なく、今倒れれば間違いなく誰にも助けてもらえない、と思うだけだ。

 残された気力を振り絞って歩いている男の視線の先には、小規模ながら町があった。あそこに辿り着けたなら。男が諦めずに進むのは、その希望が見えていたからだ。もうすぐ、町に辿り着ける。男は、気力だけでそんなところまで歩いてみせた。

 しかし、男の体力も限界に達していた。無理が祟ったのだ。そこそこ大きい男の体がぐらりと揺れたかと思うと、ドサッと音を立て、崩れるように地に倒れ伏してしまった。

「……くそっ、盗賊団、め……」

 男は、忌々しげに搾り出すような声を出す。口にせずにはいられなかった、という様子だ。男が顔を持ち上げ、なんとか前を見ると、目指していた町並みが見えた。這って行くには流石に遠いが、それでも見えはした。

 立て。立ち上がって、歩け。男はそう念じるが、力が出ない。体が言うことを聞かなかった。いくら腕に、足に、全身に力を込めようとしても、ダメだった。込められるものが、もうないのだ。

 ここまで、なのか。男は、絶望に包まれそうになった。町を目の前にして、しかし距離があって住民に助けてもらえる見込みは薄く、最早叫び声も出せない。

「あと、ちょっと、だってのに……!」

 男は顔を上げるだけの力さえとうになくしており、かすれるような声は地面に溶け込んでしまっていた。口を開いた当人ですら、ちゃんと口に出せたのか分からなくなったほどだ。

 いよいよ、男の意識は朦朧としてきた。おしまいなのか。こんなところでくたばる人生だというのか。ふざけやがって。神の悪戯とやらも大概にしやがれ。強気なことを考えてみるが、どうにも抗えそうにはない。

 意識が遠のきかけていたその時、男は声が聞こえた気がした。お迎えか、と一瞬思ったが、内容からして違う。

 ――生きよ。

 しかし、その声と、次いで誰かの慌てたような足音が耳に入ったか入らないか。それくらいで、男は意識を手放した。





 男は、夢を見ていた。

 自分がどこにいるかも分からず、ただ声だけが聞こえるという夢だった。自らの状態、周囲の状況、風景、場所、なにひとつ分からない。声の主も、だ。どこからともなく、といった感じで、それは聞こえてきた。何と言っているかは分からないが、その声は低く、重みがあった。腹に響いてくるようなものだ。ただひたすら声だけが聞こえてくるので、不気味ですらあった。

 しばらくすると、それは女性の、優しいものに変わった。母親の声だ、と、男はすぐ分かった。その声は、起きなさい、ご飯ですよ、と――

 はっと気づいたとき、男は寝台の上に寝かされていた。体は飛び起きるかのように思い切り起き上がろうとするが、力が入らずにちっとも動けない、という状態だ。実際には、目が見開かれただけである。

「おや、気がつきましたか」

 目が慣れておらず、視界がぼやけているうちから、声が頭上から降ってきた。降ってきたということは、今視界の中に映っているなにかがそうなのか。男は、目を凝らした。

「びっくりしましたよ。町の外に出てみたら、人が倒れているんですから。何事かと思って駆け寄ってみたら、腹が減ったときた」

 爽やかな感じのする声は、おかしなことでもあったかのように続ける。男の視界がはっきりしてきた。どうも男のことを覗き込んでいたらしい声の主は、青年だ。長く伸ばした黒髪で、顔は穏やかな雰囲気を纏っていた。彼の話によるなら、男はこの青年に助けられた、ということなのだろう。しかし、いつの間に腹が減ったなどと口にしていたのだろう。そんなことを言った記憶はないのだが、男が空腹なのは事実である。なにせ、それが原因で倒れたのだ。

「あんたが、助けてくれたのか」

 男が問うと、青年はにこりと笑って「偶然居合わせただけですよ」と答えた。謙虚な奴だな、と男は思った。

 目が覚めたときに、体を起こせなかったことには気づいている。仕方なく、男は目だけで、キョロキョロと周囲を見回した。寝ていたときに見えていた木目のある天井から予想できたとおり、少なくともこの部屋は木造のようだ。寝台のすぐ脇側の壁には小窓がついており、そこから日の光が差し込んできているのだと分かる。そのお陰で、室内はぼんやりと明るかった。壁の反対側には、器の乗った円卓と隣に椅子、それに右の壁際に箪笥。寝台の丁度反対側に、この部屋の出入り口となる扉が見える。

「さて、これを口にできないと助かったとは言えないのでは? 目立った外傷は見られず、あんなところで倒れてしまうほどの状態で空腹を訴えるのであれば、もう何日かなにも食べていないとしか思えません」

 寝台の脇に立っていた青年は、そう言いながら卓上の器を手に取った。よく分かるな、と思いつつ、男の視線は自然と器の中に吸い寄せられる。

「この宿の主人に頼んで、粥を作ってもらいました。うんと薄めてありますから、いきなりお腹に入れても問題はないでしょう。さ、どうぞ」

 そう言うと、青年は器の中に入っていた匙を手にし、中身をすくってこちらへ差し出してきた。

 それを見ると、男は感動に震えそうになった。3日間、あれほど切に求めた食事が、今、目の前にあるのだ。お礼を言う余裕もなく、心情的にはよだれを垂らしそうなほどだった。

 男は、差し出されたそれを口にした。そして、高級料理でも食べているかのように大事に噛み締める。甘い。こんなに優しい甘さを持ったものがあったのか。

「……うまい」

 それは、何ヶ月もなにも口にしていなかったのではないかというほど、懐かしい感覚だった。しみじみと、男は呟いた。

「それはよかった」

 そんな様子の男を見て、青年も嬉しそうに微笑んでいた。

 一口目を飲み込んだとき、男は力が漲ってくるのを感じた。これなら、少しは動けそうだ。男が力を入れると、やはり、すんなりとはいかないが、体は動いた。慌てて止めようとした青年は、しかし手に持っている器と匙の存在に気づき、一旦卓に戻そうとしたところで、しっかりと起き上がった男を見て、仰天した。

「も、もう起き上がれるんですか!?」

 しかし男は意に介さず、「あとは自分で食う」と、青年の手元から器と匙をひったくり、無心で平らげた。

「あんたのおかげで命拾いしたぜ。ありがとよ」

「い、いえいえ。私が助けることになったのはたまたまですし」

 やっと落ち着いたところで男が礼を述べると、青年は多少戸惑いつつも穏やかな笑みを返した。やっぱり謙虚だな、と男は思った。

「って言われてもよぉ。俺にとってはあんたが命の恩人なのは変わんねぇよ」

 男は、そう言いながらポリポリと頭を掻いた。

「はぁ、そうですか」

「つーわけで、あんたには何か礼をしたい」

 これは、男の本心だった。この青年がたまたま通りがかってくれなければ、男は今頃土と仲良くしていたことだろう。そうならなかったのは、間違いなく青年のお陰である。命の恩人に何もしないでは、男の自尊心に関わるのだ。何でもするつもりだった。

「だから、あんたの……ええい、いつまでもあんたじゃまどろっこしい。自己紹介といこうか」

 続きを言いかけ、命の恩人をあんた呼ばわりし続けるのは不味いと思った男は、礼儀としてまず自分から名乗ることにした。

「俺はトルト。ディノス家の後援を受け、加護継承試練のために旅をしている」

「トルト、ですか。私はウィスドム・オウルと申します。ウィス、とお呼び下さい」

 聞かれた青年――ウィスは、そうして丁寧にお辞儀をした。その所作は、ウィスの細めな体躯も相まって、美しいものとなっていた。

 名乗り終えたウィスは、男――トルトの方を見ながら、不思議そうに首をかしげた。

「しかし、ディノス家ですか……」

 ぽつりと呟いたウィスは、しばらくそうしていたが、不意に、あぁっ! と叫んだ。

「大都市ディヴィンのディノス家ですね!?」

 そしてトルトの肩をつかんでぐらぐらと揺らしてきた。突然の行動に訳が分からず、トルトは揺らされながら頭の上に疑問符を浮かべるばかりだ。

「た、確かにそうだけどあんたなぁ……」

 やっと解放された、と思って放った抗議の声は、どうやらウィスには届いていないようだ。ウィスは、トルトから離れてくるくると小躍りしそうなほど、自分の世界に入り込んでしまっていた。

「なんだってんだ……」

 都市であるディヴィンはともかく、ディノス家なんて格の低い家をなぜ知っているのか。トルトには分かるはずもなく、首をひねった。

 ウィスは、しばらくの間自分の世界にこもりっぱなしであった。これは僥倖、と叫んだかと思うと、しばらく顎に手をやり、黙り込んでしまう。待っていればなにか反応してくれるだろう、と思っていたトルトだったが、さすがに焦れてきた。

「ウィスー? 返事しろー」

 仕方なく、少しだけ大きめの声で呼びかける。それでウィスはハッと顔を上げ、トルトの存在を思い出したようだ。

「あー……失礼。お見苦しいところをお見せしました」

 ウィスは、ばつが悪そうな表情で自らの頭をさする。が、すぐに顔色を変えた。

「しかし、不思議ですね」

 彼は、眉間に皺を寄せていた。いかにも腑に落ちない、と言いたげな顔だ。

「トルト、でしたね? あなた、空腹で倒れたのではなかったのですか?」

「そうだぜ」

「その割には、やたら元気そうですよね。粥一口ごときで起き上がるし、もうしっかりと声も出せている。どういうことでしょう」

「……言われてみれば」

 動けなくなるほどにまで体力を使い果たしていたはずなのに、たったの一口、それも充分に薄められたお粥、それだけでここまで回復するのは、普通ではないだろう。とはいえ、トルトにとっては力尽きて倒れたことも事実であれば、その後先ほどの粥だけで気力が漲ったこともまた事実である。実際にそうなっているので、彼からしてみれば、そこに疑問が生まれる余地はなかった。強いて言うなら、妙な運の賜物といったところか。

「まぁいいじゃねぇか、こうして元気になれたんだし。大体、俺にもなにがなんだかさっぱりだぜ? 考えるだけ無駄ってこった」

 そう言って、トルトはニカッと笑ってみせた。ウィスはなにか言いかけたが、結局、ただ呆れたようにため息をついた。

「そんなことより。あんた、なんだってディノス家のことを知ってるんだ?」

 トルトは先ほどからの疑問を口にした。ディヴィンは、変わった神様を奉じているということで有名だが、その神殿に務めている神官の中でも、ディノス家の知名度はかなり低い。隣町の住民すら知らないくらいだ。

 オウルなどという家名は聞いたことがないので、ウィスはディヴィンの住民ではないはずだ。それがなぜ、現地の者しか知らぬような地味な家名を知っているのか?

 ウィスはそれを聞くと、右手で髪を払って、ニヤリ、としてみせた。

「決まっています。私が学者だからですよ」

 言いながら、ウィスは自分を示すように右手を胸元に持っていき、体を反らせていた。それ以外ないだろう、とでも言いたげな、自信満々な顔だ。

「……はぁ?」

 しかし、トルトはどういうつながりでそうなるのか理解できず、思わず口をひらいたまま一瞬かたまってしまった。

「いや、学者って言っても、いろいろあんだろうに」

「……くっ。その反応は予想外です」

 すぐさま我に返ったトルトの返しに、ウィスは戸惑う様子を見せた。謙虚なのかと思ったら妙なとこで自信家だな、という評価を、トルトは脳内でこっそり出した。

「そうですね。私はある時、ディヴィンの竜伝説というやつを耳にしまして。面白そうだったので、あれこれ調べてみたのですよ」

 なぜか観念したようなウィスの説明に、トルトはあぁ、と納得した。竜伝説とは、ディヴィンに伝わる昔の話で、かの都市は以前は竜を使役して強大な力を得ていた、というものだ。

 その当時はそれこそ首都に迫るほどの規模となったというが、今では見る影もない。そもそもどこの都市にもよくある「昔はすごかったんだぞ」と自慢する為の作り話、というやつだろう。誰も知らぬ時代のことなら偽り放題、ほとんどの人間が本気で信じているわけではなかった。

「つっても、それ眉唾もんの噂だろ?」

「分かりませんよ? あれこれ調べてみたら、一見ディヴィンとは関係なさそうな地にも竜伝説に関する記述が確認できました。信憑性がありそうではないですか」

 ウィスは目を輝かせながら、これこれこういうものがあって、などと説明してくれた。

「そういうもんかねぇ」

 しかし、それを聞いてもトルトには実感が湧かない。ディヴィンという都市は、特に目立ったところもなく、だから「変わった神様を奉じている」などとわざわざ言われるわけで、それも大したものではないのだ。彼の知るディヴィンの姿は、どれも竜とは結び付きそうもなかった。

「まぁ、私の話はいいでしょう」

 トルトの反応が薄かったのを見てか、ウィスは話題を変えてくれた。

「トルト、あなたはなぜあのようなところで行き倒れていたのですか? 空腹で倒れた、とは推察できますが、なぜそうなったのかが分かりません。加護継承試練を受けているということですが、それにしてはやけに荷物が少ないですし、なにかあったのでは?」

 それを聞かれると、トルトは頬をポリポリと掻いた。個人的に、恥ずかしさで少し言いづらい。だからといって、言わずに済ませられるようなものでもないだろう。

「あー……ちっとドジ踏んだだけなんだがな」

 さっさと諦めて、トルトは切り出した。あまりもったいぶりすぎても、無駄に怪しまれてしまうかもしれない。そんな面倒そうな展開は避けたい。

「3日前だった。道を外れて適当な木陰で野宿してたんだが、盗賊団に襲われたんだ」

 それを聞いて、ウィスの表情は引き締まった。

「それで?」

「これでも俺の自慢は剣だ。それに備えもしてあったから、特に苦戦もせず追い返してやったんだがな」

 備えというのは、敵意を感知して教えてくれるという便利な魔術道具のことだ。こういう道具を作り出す魔術師は、魔族に魂を売り渡しているなどという噂もあり、神官にとっては本来相容れない立場の相手である。しかし、一般に神官が頼りにされているように、魔術師の恩恵もまた計り知れないものであり、その代表例が「魔術道具」というわけだ。神官側も、そういった便利なものだけは利用していた。その代わりに、魔術師も神官しか作り出せない薬を利用していたりする。

「追い返せたのなら、よかったではないですか」

「そうだな。ただ追い返せたなら確かによかった。だけどよ」

 そこまで言ってから、トルトはためらいそうになった。いや、言え、言ってしまえ。その方がいい。

「……深追いしすぎて、戻ってみたら荷物を盗られてた。おかげで剣、貨幣以外の旅道具を全部失ってね」

 もちろん食料も、とトルトは付け加えた。思ったとおり、ウィスは吹き出していた。

「……ふっくく、そりゃ仕方ないですね」

「うっせ、笑い事じゃないわ」

「失礼。それで、このコウ町に着く直前に力尽き、あそこで倒れていたと」

「まぁそういうことだ。あの盗賊団め……今度会ったらぶっ飛ばしてやる」

 それに、とトルトは心の中で付け加えた。あの盗賊ども、5日前に泊まっていた村を襲った奴らと――。トルトは、忘れもしないあの日のことを、思い返していた。

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