第8話
「そうだ。お兄ちゃんたちもどうぞ」
雨は竜二と瑞希を振り向いた。満面の笑みを浮かべ、適当に選んだらしいアメ玉を手に取り、瑞希たちに渡そうとしてくる。
「手、だして」
雨に促されるままに竜二は手をだす。その手のひらにキラキラ光るアメ玉がちょこんとのる。
「それはね、ゴーヤ味」
「ありがと。……ゴーヤ?」
「うん、ゴーヤ」
竜二が確認するように聞くと、雨はさも当たり前のように頷いた。彼は戸惑ったようにゴーヤ味を様々な角度から見つめながら
「いつもこうやってアメを作ってるのか?」
「そうだよ」
「ゴーヤってのは珍しいな。なんでこんな味を」
「皆好きなことって違うでしょ? だから色々な味を作れば、多くの人に喜んでもらえると思って」
雨は「他の味もいる?」とでも聞きたそうに竜二を見ている。竜二はその視線に曖昧に笑うと、アメをポケットにしまった。
「お姉ちゃんもアメどうぞ」
次に彼女は瑞希にアメを差し出した。竜二と同じように手を出せばいいはずなのに、瑞希は手を彼女に向けることができなかった。
「……ううん、いらない」
なんだかもやもやしてしまい、ためらってしまう。
「遠慮しなくていいよ」
「今はアメの気分じゃないの」
「……そうなの?」
「うん。ごめんね」
「お姉ちゃん、アメ嫌いなの?」
瑞希が受け取りを断る度、雨の表情が暗くなる。そのことに罪悪感を覚えてしまうのだが、それでもアメを受け取る気にはなれない。
「ううん、そういうわけじゃないよ」
「じゃあなんで?」
雨が瑞希の服の裾をつかむ。自分の顔をじっと見て、心配そうに声を出す。
「……お姉ちゃん、元気ないね」
「そんなことないよ」
「やっぱりアメ食べなよ。元気でるよ」
「……どうだろ」
アメを食べれば元気がでる、とは思えなかった。確かにおいしいし、この前も元気がでた気はする。しかし今回は効果がないだろう、と瑞希は直感していた。自分が今こうなっている原因はすぐ近くにあるのだから。
「遠慮しなくていいよ。お姉ちゃんが元気ないの、心配だもん」
雨は本当に心配そうに瑞希を見つめ、小さな手で瑞希の手をとった。その手にカゴから取り出したアメ玉を一粒、のせようとしてくる。
「大丈夫だって」
瑞希は遠慮してさっと手を引いた。
「あっ……」
雨の手から瑞希の手に行こうとしていたアメ玉は行き場をなくし、その場に落ちる。コロコロ転がり、溶けて消えていく。雨の目は消えゆくアメを悲しげに捉えていた。
「……そんなにいらなかった?」
ぽつりと、消えそうな声で呟かれる雨の声。
「ご、ごめ――」
「何してんだよ」
とっさに謝ろうとした瑞希を、和彦が咎めるような目つきで睨みつけてくる。
「わざとか?」
「え、何――」
「アメくれようとした瞬間狙って、手引っ込めただろ」
「そんなこと……」
和彦は瑞希の言葉を待たず、雨に向き直る。
「お前は何も悪く無いから、気にするな」
そして信じられないほどの優しい表情で、慰めるように言う。自分には決して向けられることのない表情だ。
ほんと、雨ちゃんのことばかり……。
瑞希の口からため息が溢れる。雨が降っているせいで肌寒い。暖かいところが恋しくなる。
「……お姉ちゃん、本当に大丈夫なの? もしかして苦手な味だった? だったらこれはどうかな」
アメを拒否された雨は悲しそうな顔をしたものの、瑞希を責めるようなことは一切しない。自分を見上げてくる瞳は自分に対する心配の色で満たされている。
アメの気分でないのは確かだが、ここまで気を遣われるといらないとは言い切れなかった。
「ありがとう。あとで食べるね」
瑞希はアメの色さえ確認することなく、そのままポケットにしまい込んだ。その場にいるのが気まずくて、少しだけ距離を置く。
「……大丈夫か?」
竜二がそっと瑞希の隣にやってきた。瑞希は返事をする気になれず、小さくうなずいただけだ。
竜二の視線は瑞希と和彦たちを何度も行き来している。どちらの様子も気になるといった様子だ。
「お姉ちゃん、大丈夫かな」
雨の心配そうな声がかすかに聞こえた。
「気にするな」
和彦の声からはどうでもいいといった調子が感じられる。
「でも」
「ほんと久しぶりだよな。どこで何やってたんだ?」
「あのね、色々な場所に行ってアメを売ってたの。変な顔してもらってくれない人も多かったけどね」
「傘もささずに雨に濡れてりゃ、妙だと思うやつも多いだろうもんな。俺も最初はそうだったし」
「でも雨の日しかお仕事できないもん」
「そうだったな。晴れの日はどうしても無理か?」
「うん、無理」
雨は即答すると、嬉しそうな声で付け加えた。
「晴れの日も素敵なものいっぱいあるけど、私は雨の日が一番好き」
「そっか」
「うん! もっと皆、雨を好きになってくれたら嬉しいな」
笑顔で語る雨と、それを聞く和彦。二人の会話は続く。
雨と会話を続ける和彦の声は明るい。普段見かける何事も面倒くさそうにする雰囲気も、周囲との関わりを拒絶する空気も感じられない。その響きは友人に対するそれと同じか、それ以上だ。
「それでね、この前アメもらってくれた人、すごく喜んでくれたの」
「へえ、そうか。よかったな」
「お兄ちゃん、何か話したいことないの?」
「特にないな。今は雨の話が聞きたい」
雨が和彦を見上げれば、彼は考える素振りを見せた後やさしく答える。
「……そっか。あ、さっきのネコさんの話なんだけど」
「なんだ?」
雨が何かを言い、それに対し和彦が応える。その様子は楽しそうだし、何も知らない者が見れば微笑ましく見える光景だろう。もしかしたら二人を兄妹だと思う人もいるかもしれない。瑞希の目にはそのくらいほほえましい光景に映った。
「……近藤君、楽しそう。大学にいる時とは大違い」
瑞希の口からぽつりと感想が漏れる。羨ましいという感情がその口ぶりに滲んでいる。
「そうだな。俺も久し振りだよ、あんな和彦見るの」
隣にいた竜二が同意するように口を開く。
「ほんと、懐かしいよ」
「前はああいう風に笑ってたの?」
「ああ。高校の途中……二年ぐらいまでは笑ってた」
竜二は心底懐かしそうに、そしてどこか寂しそうに話す。
瑞希はもう一度和彦の様子を窺った。楽しそうに、嬉しそうに雨と話している。自分の記憶の中にその笑顔はない。竜二といる時でさえ、あんな顔は見せなかったはずだ。
「雨ちゃん以外、どうでもいいのかな」
――あいつに会えれば、それでいい。
少し前に彼の放った言葉が思い出される。迷いやためらいを一切感じさせない、強い声だった。それを思い出してしまえば、今自分が疑問に思ったこと――和彦は雨以外どうでもいいのか――が真であることは明らかだった。
「さくら――」
「私、やっぱりわかんない」
竜二の言葉を遮り、瑞希は続ける。意識してではなく無意識に。
「近藤くんのこと、よくわからない」
「あのさ――」
「わかんないよ。なんで雨ちゃんのことばかり」
「なあ――」
「雨ちゃんのこと、本当に好きなんだなって見ててわかる。どうしてそこまで……」
「おい、大丈夫か?」
少し強めに声をかけられ、ようやく瑞希は竜二が自分に話しかけていたことに気がついた。取り乱すなんて自分らしくないな、と瑞希は心のなかで溜息をつく。