第7話
瑞希は彼女が近寄ってくる様を呆然と眺めていた。雨は楽しそうに歩いていており、こちらを向いた彼女と視線がぶつかる。雨は嬉しそうに瑞希に向かって手を振り、弾んだように駆け寄ってくる。
「お姉ちゃんこんにちは。また会ったね!」
走ったせいで多少呼吸が乱れてはいるものの、雨は前回同様の可愛らしい笑みを浮かべていた。
「そうだね……」
何も知らなければ瑞希も心からの笑顔を返せただろう。しかし一言返すだけで精一杯だった。頭の整理が追いつかない。このタイミングで現れるとは思わなかったから。
いや、普通に考えれば十分にありえる話だ。和彦も言っていたではないか、彼女が現れるのは決まって雨の日だと。それにも関わらず彼女がこの場に現れる可能性を瑞希は全く考えてはいなかった。
それは目の前の出来事で頭がいっぱいだったからか、それとも無意識のうちに彼女に来ないで欲しいと願っていたからか……。理由は彼女にもわからない。とにかく信じられないという思いで頭の中はいっぱいだった。
「アメいる? 幸せになれる魔法のアメ!」
瑞希の戸惑いなど気づかないかのように、雨は手に持ったカゴを瑞希に差し出してくる。中には今日も色とりどりのアメがたくさん入っている。
「今日のおすすめは、うーんとね」
雨はカゴの中身を夢中になって探し、その瞳は宝物を見ている時のように輝いている。
「あ、あの……」
「桜井、どうした?」
和彦と対峙していたはずの竜二が近づいてくる。ふと彼らがいた辺りを見れば、和彦は相変わらず自分たちに背を向けている。そのためこちらには気づかない。彼が探していた人物――雨の存在にも気づいていないようだ。
「ん? お前は……」
「あれ、初めてのお兄ちゃんだ。こんにちは。私、雨っていうの」
「これが噂の……?」
竜二が視線を向けてくるので、瑞希は困惑したように頷いた。その後竜二は雨に視線を戻し、その姿をじっと見つめ始めた。雨は彼の視線を嫌がるわけでもなく怖がるわけでもなく、きょとんと首を傾げる。
「どうしたの? あ、お兄ちゃんもアメほしいの?」
雨はカゴを差し出すと、「好きなの選んで」と付け加えた。
「お兄ちゃん、お名前は?」
「阿部竜二だ。お前が雨、か?」
「うん。雨だよ。空から降る方の雨。よろしくね竜二お兄ちゃん。……竜二、お兄ちゃん?」
にこにこと話していた雨の様子が少しずつおかしくなり、何かを考えるような素振りを見せ始めた。
「うーん? 竜二お兄ちゃん……うーん?」
「なんか変なところでもあったか?」
「なんか聞いたことあるような……」
瑞希はその間、ずっと悩んでいた。この状況をどうすればいいのだろうか。少し離れた場所に佇む彼を呼ぶべきなのか、呼ばないべきなのか。会いたがっているのだから今すぐ呼んであげた方がいいのかもしれない。そうすれば確実に彼は喜ぶだろう。そう思うのになぜかためらってしまう。
そんな時、服の裾を引っ張られる感覚がした。気がつけば雨が心配そうに自分を見上げていた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
雨はカゴに手を入れ、透明のフィルムに包まれた黄緑色のアメを差し出した。瑞希がお礼を言って受け取ろうとする、その瞬間だった。
「雨!?」
後ろから和彦の驚きの声が聞こえたのだ。振り返れば彼は早足で近づいてくる。途中で水たまりを踏み思い切り水が跳ねるが勢いは止まらない。最初から傘をささずにいたせいでびしょ濡れだから、今更何とも思わないのかもしれない。
「和彦お兄ちゃん……」
雨は戸惑ったように彼を見つめた後、
「久しぶりだね」
と小さく微笑んだ。
「覚えててくれたのか。急に姿見せなくなったから心配だった」
和彦は頬を綻ばせる。今まで見たことのない表情に、瑞希は動揺してしまう。先程までの素っ気なく冷たい雰囲気のあった様子からは想像もつかないくらいだ。
「……うん、覚えてたよ。ずっと」
「元気そうで安心した。また会えてよかったよ」
「うん。お兄ちゃんに会うの久しぶりだけど、変わったね!」
雨は和彦をまじまじと見つめた後、嬉しそうに言った。
「何がだ?」
「あの時は全身真っ黒とか、上が白くて下が黒ばっかりだったのに。今日は違う! 上が青で、下が紺!」
「全身真っ黒……? ああ、あの頃は学校帰りだったからな」
「今は違うの?」
「もう卒業したからな。学ランなんてもう着ない」
「そうなんだ。じゃあもう学校行ってないの?」
「高校は行ってないな」
和彦と雨の会話が続く。瑞希はどうしようかと思ったが、竜二が何もせず彼らを見守っているのに気が付き、自らも様子を見ることにする。
「そうだ。春にね、桜がすっごくキレイな場所に行ったの! 雨に降られてたけど、それでも元気そうだったよ」
「そっか」
「お兄ちゃんも桜見た?」
「まあ。大学にもあるからな」
「やっぱりそれもキレイだった?」
「えっと……」
和彦は考えるかのように目を逸らした。無言で何かを思案する表情は、記憶をたどっているようにも見える。
瑞希は大学にある桜を思い出した。今年はいつもより桜の花が綺麗だと教授が嬉しそうに話していたこと。桜を見ながらご飯を食べようと友人に誘われ、外のベンチで昼食をとったこと。桜があまりにも素敵だったので思わず携帯電話の写真フォルダに収めたこと。
数カ月前の出来事が色々と思い出される。綺麗な桜だったな、と懐かしい気分になる。
少しして和彦はぽつりと言葉を漏らした。誰に視線を向けるでもなく、どこか申し訳無さそうな表情を見せている。
「……わりい、よく覚えてないんだ」
「そう。……ちゃんと見たほうがいいよ」
雨はどこか残念そうに言葉を漏らす。
「あ、ああ」
「私、今度は桜のアメ作ってみようかな?」
「ああ。いいと思う」
「うん、やってみるよ」
雨は返事をすると、何かを待つように、じーっと彼を見つめ始めた。和彦が「どうした」と首を傾げると、雨は「お兄ちゃんは何かある?」と質問した。
それに対し彼は「何かって?」と怪訝な顔をする。そうすると雨が一瞬表情を曇らせたような気がした。
「この前ね、かわいいネコがいたの」
しかしすぐ楽しそうに話を続けたので、気のせいだったのかもしれないと瑞希は思い直す。
「すっごくかわいいネコでね、たくさんいたんだよ」
「へえ、よかったな」
「お兄ちゃんは最近かわいいネコ見た?」
「どうだったかな。悪い、ちょっと思い出せない」
二人の会話を見守ると決めた瑞希。彼女の目に映るのは、楽しそうに会話する和彦と雨の姿だ。彼女に対する和彦の態度は、長い付き合いがあるという竜二に対するそれよりも柔らかく、優しい印象を受ける。
「そっかぁ。……それからね、一昨日のことなんだけど。あじさいがキレイに咲いてる場所見つけたの」
雨はそこで一息つくと、期待するように問いかける。
「お兄ちゃんもあじさい見た?」
「……どうだったかな。悪い、記憶に無い」
「見てないの? 残念……」
雨はどこか悲しそうにする。その表情は先ほど瑞希が見たような気がして、でも気のせいだと思ったものそっくりだった。
(雨ちゃん、どうしたんだろう)
「そうだ。久しぶりにアメいる?」
しかしすぐ表情は元に戻り、にっこりと笑みを浮かべた。
「ああ。もらうよ」
和彦が頷いたのを見届け、雨はカゴに手を入れた。
「あれ? あんまりないや。今から作るね」
「は? 作る?」
竜二が素っ頓狂な声を出し、目を丸くした。瑞希も不思議に思い、怪訝な顔をする。今、この場で雨という少女はアメを作るつもりなのだろうか。そんなの不可能だ。
雨はビニール傘を開くと、それをさした。傘をさすという、ごく普通の行為だ。そしてそのままくるくると回し始める。無邪気に、遊ぶように、くるくるくるくる。
「くるくるくるくる。雨からアメへ」
彼女は歌うように口ずさむ。
「雨からアメへ。くるくるくるくる」
雨が歌うリズムに合わせ、傘に当たった雨粒が淡く光りだす。その光はピンク、黄緑、黄色、青――色とりどりの丸い何かに変化し、流れるようにカゴの中へ落ちていく。
「……きれい」
瑞希は自然と感想を口にしていた。可愛らしい容姿の少女が歌いながら淡い光を生み出している――まるで幻想の世界にいるような感覚を覚える光景は、十分に絵になりそうな光景だった。
「完成!」
瑞希は目の前の光景に意識を奪われていたが、明るくはっきりとした雨の声に引き戻された。夢を見ていた気分だ。
「何が起きたんだ……?」
目を見開いた竜二が信じられないといった口調で呟けば、雨は当たり前のように答えた。
「アメができたんだよ」
「相変わらず不思議な作り方するよな、お前」
和彦が目を細め、懐かしそうに口を開く。
「はいどうぞ」
雨はカラフルなアメ玉のたっぷり入ったカゴを和彦に見せる。彼女はそのまま一つのアメ玉を手に取ると、やさしく和彦に手渡した。
「それはね、りんご味」
「珍しくまともだな」
「珍しくってどういう意味? 普段だっておいしいの作ってるのに」
「はいはい」
口をとがらせる雨に、軽く流す和彦。よくある友人同士のやりとりに見える。二人の詳しい関係までは分からないが、仲がいいのだということは確信できた。
和彦の楽しげな表情を見るのは初めてだ。楽しいのはいいことであるはずなのに、それを見ていた瑞希は少しずつ辛い気持ちになってしまう。
「どんな食べ物だって、きっとおいしいアメになるんだから」
「それはいいことだと思うけど、合わないやつもあるんじゃないか?」
「そんなことないよ。野菜はアメになるんだから、他の食べ物だって」
そうやって会話を続ける和彦と雨。楽しげな空間ができている今なら、自分も和彦と普通に話せるのだろうか。そんな小さな期待を抱いてしまうくらい、二人の間に流れる空気は優しかった。
一瞬和彦と目があい、瑞希はどきりとする。しかし、
(……目、そらされた)
どうしようかと戸惑う暇さえもらえず、すぐに視線を外されてしまった。興味もなさげに、どうでもよさそうに。
「それでね」
「へえ、そっか」
そんな彼が雨に対しては優しい眼差しを向けている。彼の態度が明らかに異なるという事実が、瑞希の胸に重く突き刺さっていた。