第2話
瑞希は四限目の講義を終えた後、図書館で調べ事をしていた。帰るために外に出たのは、午後五時を過ぎた頃だ。
正門に向かう足取りは重い。彼女は三限目にあったゼミの発表で調べ不足を指摘され、少しばかり気分が沈んでいた。次気をつければいいとわかってはいる。しかしすぐに気持ちを切り替えるのは難しいようだ。
雨は依然として降り続け、雨粒が瑞希の傘を叩く。他の学生も傘をさしている。中には傘がないといって焦り、走っている男もいた。
瑞希は正門を抜けると右に曲がった。そのまま歩き続け、コンビニを左に曲がる。雨ということで近所の人はいない。近くを歩く学生もおらず、瑞希は一人だった。
ふと顔をあげると、進行方向に一人の少女が立っていた。先程はいなかったような気がする。
少女は手にカゴを持っている。カゴにはハンカチがかけられているので中身はわからない。
透明のビニール傘も持っているが、なぜかさしていない。
(傘、ささないのかな……?)
瑞希は首を傾げ、どうしたものかと悩む。すると自分に気がついたらしく、少女はにこやかな笑みを浮かべ、とことこと近寄ってきた。
「こんにちは。アメはいりませんか?」
「え?」
「おいしいよ」
可愛らしいソプラノの声。美しい金色の髪の毛は雨に濡れているにも関わらず、綺麗なウェーブが保たれている。
黄色いレインコートを羽織り、足には赤い長靴が履かれている。
「アメ、え、え?」
「アメ、いりませんか?」
「こんなアメの中、何をしてるの?」
「アメを売ってるの」
「アメ……?」
見知らぬ少女にいきなり妙なことを言われ、瑞希はぽかんとした。本人は当たり前のように笑っていたが、やがて少し心配そうに瑞希を見上げる。
「お姉ちゃん、ちょっと元気ない。何かあったの?」
「そ、そんなことないよ?」
「ううん。お姉ちゃん、何か悲しいことあったでしょ? 大丈夫?」
少女は心底心配だというように瑞希を見つめている。
(こんな小さな子にまでバレちゃうのか)
「うん。今日ゼミ――授業で発表があったんだけど、それで……」
瑞希は無理して笑ってみせる。思い出すのは少し辛かった。
「だったらアメだよ。一粒なめればあなたも幸せ。いりませんか? 元気が出るよ」
少女はカゴのハンカチを外し、瑞希の前に差し出した。中には透明のフィルムに包まれた色とりどりのアメ玉。気のせいかもしれないが、キラキラと輝いて見えた。
「きれい……」
「でしょ?」
「って、傘さしなよ。濡れちゃうよ」
嬉しそうににっこりする少女を、瑞希は傘にいれようとする。しかし少女はなぜか避ける。
瑞希は何度も挑戦するが、少女は一向に入ろうとしない。
嫌がっているわけではないようで、楽しそうだ。まるで妹のように、瑞希の近くで動き回る。
「入ったほうがいいよ。遠慮しないで」
「大丈夫。濡れても問題ないよ。雨だもん」
「だけど風邪ひいちゃうよ」
「大丈夫大丈夫。お姉ちゃんも雨に濡れる? 楽しいよ」
「遠慮しとく。そもそも傘があるのになんで――」
瑞希は少女の手に握られたビニール傘に視線を向ける。
「この傘はね、仕事以外で使っちゃいけないんだよ」
「仕事?」
「うん! アメはいりませんか?」
少女は再びカゴを瑞希に見せる。期待に満ちた瞳を見ていると、なぜか断れなくなる。
「うん。一つもらおうかな」
「ありがとう! 好きなの選んで」
「どれがいいかな……あ、いくら?」
「タダ!」
「え、売ってるんだよね?」
瑞希は財布を探そうとした手を止める。
「でもタダなの」
「そうなんだ。じゃあ……これ」
不思議に思いつつも瑞希は一つのアメ玉を選んだ。透き通った黄緑色をしたそれを手に取り、フィルムをはがす。
「いただきます」
綺麗な色だな、と目を奪われそうになる。普段あまりアメはなめないが、今まで見たものの中で一番おいしそうに思える。
「マスカット、結構好きなんだ」
それを口に入れる。舌で転がし、味を感じる。その瞬間、瑞希は顔をしかめた。
マスカットとは思えない味がした。
少女を見れば、彼女は歌うように口ずさみ始めた。
「まんまる黄緑キャベツ味」
「……キャベツ?」
瑞希は呆然とする。最近はキャベツ味のアメがあるのかな。聞いたことはないけど、そういうものなのかな。少女は不安げに瑞希を見上げ、問いかける。
「……嫌だった?」
「べ、別に嫌ってわけじゃ――」
「レタスがよかった?」
「そうじゃないよ。大丈夫」
問題はそこではない、とは言えなかった。
「本当?」
「うん」
「よかったぁ。お姉ちゃん、元気でた?」
少女に聞かれ、瑞希の顔に自然と笑みが浮かんだ。
「うん。出た気がする」
「これはね、幸せになれる魔法のアメなんだよ」
「そうなんだ」
不思議と気持ちも落ち着き、あながち嘘でもないかもしれないと瑞希は考えた。キャベツ味という意外な味なのだが、優しい味がするのだ。
「ね、一つ聞いていい? どうしてこんな雨の中、アメを売っているの?」
しかも傘をさすことを拒む理由は何なのだろうか。
「お仕事だから」
「晴れの日のほうがいいんじゃないかな?」
雨に濡れる少女に瑞希は質問する。
すると少女は俯き、小さな声で、
「雨の日じゃないとお仕事できないんだ」
「どうして?」
「……雨だから」
目の前の少女は空を見上げ、ぽつりと答えた。そのまま黙りこみ、雨に濡れ続ける。
会話がなくなり、瑞希はどうしようかと困ってしまった。
帰宅途中ではあるが、傘もささずにその場に居続ける少女を一人残す気にもなれなかったのだ。
「ねえ、もう一つ聞いていい? どうしてキャベツなの? 私、初めて聞いた。キャベツ味のアメなんて」
瑞希がなるべく明るい調子で質問すると、少女は顔を瑞希に向けた。にっこりと微笑む姿を見て、瑞希はほっとする。
少女はカゴから宝石のように輝くアメを一つ指で摘み、幸せそうに見つめ始めた。
「アメは皆を幸せにしてくれるんだよ。でも幸せって、皆違うよね」
「そうだね。好きなものも嫌いなものも違うからね」
「だから思ったの。色々な味のアメがあれば、その分幸せは増えるって。だから少しでも多くの味を作って、皆に幸せになってもらいたいの」
「そう……」
楽しそうに夢を語る少女を見ていると、なぜだか応援したい気持ちになる。
瑞希は自然と頬を緩ませ、優しい視線を彼女に向けた。
「きっとできるよ。頑張って」
「ありがと! ねえねえ、お姉ちゃん、お名前教えて」
少女はきらきらとした瞳で瑞希を見上げる。
「桜井瑞希。えっと……あなたは?」
「雨だよ。空から降る方の雨!」
「雨……?」
「うん、雨だよ」
(この子の名前、雨って言うんだ……)
雨に濡れながらアメを売る少女は名前を雨というらしい。それはなんだか不思議な感じがした。
「そうだ。瑞希お姉ちゃん、他にもアメいらない?」
「他にはどんな味があるの?」
「いっぱいあるよ。ナス、トマト……」
「普通のはないの?」
「普通かぁ。お兄ちゃんが普通って言ってたやつだとイチゴ、りんご、それから……」
「お兄ちゃん?」
「何年か前にね、仲良くなったお兄ちゃんがいるの」
「どんなお兄ちゃんなの?」
「初めて私のアメ食べてくれた人! その時、すごく驚いてたなぁ」
「驚いた?」
少女は懐かしそうに語る。
「その時お兄ちゃんもキャベツ味のアメなめたんだけど、すっごく驚いてたの。キャベツだと思わなかったって」
「それは私も思った。食べる前に教えたほうがいいんじゃない?」
「それ、お兄ちゃんも言われた」
(数年前から、ずっとこんな感じなのかな……)
「そのお兄ちゃんっていう人、私も会ってみたいかも」
「うん、いつか会おうよ」
「じゃあ、雨ちゃんが会うときにね」
瑞希がそう言った瞬間、少女は表情を曇らせた。何か変なことを言っただろうか、と瑞希は心配になる。
雨粒が瑞希の傘を、少女自身を濡らし続ける。少女は何かを考えているようで、無言だ。
雨に濡れた少女の身体は冷えきっているのではと思い、瑞希は今更だと思いつつ傘を少女に差し向けようとした。
しかし彼女は首を横に振り、一歩後ろに下がった。そして不安そうな瞳で瑞希に聞いてきた。
「そろそろいいかな、私、会いに行っても平気かな?」
「会う……それってお兄ちゃんに?」
瑞希の言葉に少女は小さく頷いた。
「私はお兄ちゃんのこと知らないけど……会いたいなら、会いに行っていいんじゃないかな」
「会いたいなら……うん、もう大丈夫だよね。ありがと、お姉ちゃん」
少女はカゴから飴玉を複数掴むと、瑞希に差し出した。お礼のつもりらしい。
瑞希も快く受け取り、濡れないうちにカバンに入れた。
「ありがと。あとで食べるね」
「私、他の場所にも行かなきゃいけないんだ。また会おうね」
「じゃあね」
少女が手を振るので、自らも振り返す。少女はテンポよく走りだす。その後姿が小さくなるのを見送り、瑞希は呟いた。
「不思議な子だったなぁ」
側にいるだけで気持ちが明るく、優しくなるようだった。
「何味をくれたんだろう」
瑞希はカバンの中のアメ玉を確認する。気のせいかもしれないが、きらきらとして見える。
「赤、黄緑、オレンジ、白……あれ?」
アメを確認していた瑞希は、カバンの中にあった一冊の本に注目した。それは大学の図書館で借りた、今日が返却予定日のものだった。
一日ぐらい遅れても大丈夫、という考えなど瑞希にはない。瑞希は慌てて来た道を戻り始める。
(あれ?)
大学の正門に続く道で、瑞希は気になる姿を発見した。それは傘をささない和彦。
瑞希は躊躇したものの、やはり気になって声をかけてしまった。
「近藤くん、またさしてないんだね」
雨に濡れる和彦の身体は冷えていそうだ。風邪を引くかもしれない。
そんなことお構いなしなのだろう、和彦は瑞希に気がついた瞬間嫌そうに顔を歪めた。
「関係ないだろ」
和彦は瑞希がたどって来た道とは逆の方向に歩き出す。瑞希は後ろ姿を追うこともできず、ただ小さくなるのを見つめていた。
「……本、返さなきゃ」
そして一人図書館に向かうのだった。