プロローグ
大学三年の六月。チャイムが鳴り、講義が終わる。学生たちはまばらに立ち上がり、教室を去り始める。
教室にいる学生の一人――桜井瑞希は教科書とノートを閉じた。ごく一般的なキャンパスノートに、落書き一つ無い教科書。シンプルな布製の筆箱。それらをカバンにしまっていく。
周りの学生は友人同士会話をする者もいるが、瑞希は一人静かにしていた。
(次の講義、憂鬱だな)
そんなことを思いながら席を立ち上がり、ちらりと隣の席に座る男に視線を向けてみた。
瑞希と同じ黒髪の彼は彼女に気がつくこともない。無表情で教室をでていった。
瑞希はそんな彼の後ろ姿を眺める。
(……近藤君って、何を考えてるんだろ)
なんとなく間を置いてから廊下にでて、次の講義がある教室へと向かった。
その日の四限目が終わり、時間は四時を少しすぎていた。外は雨が降っていた。
外を歩く人達は皆傘をさしていた。今日は朝から雨が降っていたから、皆傘を持っていたのだろう。
瑞希は淡いピンク色の傘をさし、他の学生と同じように校門に向かう。いつも通り校門をでて左に曲がろうとしたところで、瑞希は一人の人間が気になった。
彼は傘をさしていなかった。それだけなら傘を持たない不運な人間ということで少し心配になる程度だっただろう。しかし彼は困った様子一つ見せず、その場に立ち続けていたのだ。
そして彼は瑞希が英語の講義で隣になる男子学生――近藤和彦だった。
声をかけようか瑞希はしばらく悩んでいた。他の学生の中には彼を見る者もいたが、声はかけていない。
雨の音と学生の賑やかな話し声だけが聞こえる。
和彦は一人、その場にいた。何を思っているのかは分からない。
雨は降り続け、彼の身体を濡らし続けていく。
瑞希はしばらくためらっていたが、やがてゆっくり彼に近づいた。途中で水たまりを踏んでしまい、ぴちゃりと水がはねた。
瑞希は小さく深呼吸をすると、そっと言葉を口に出した。
「……近藤、くん?」
その呼びかけに和彦は何も答えない。無視しているというよりも気がついていないように見え、ただぼーっとしていた。
「……どうしたの?」
先ほどと同じようにためらいがちに声をかけてみる。しかし結果は同じで、彼は何の反応も示さない。
二人の間には何の会話もなく、代わりに雨が音をたてている。
「今日は一日中降り続けるでしょう」と今朝の天気予報が告げていた。明日には止むという予報はなかったが、いつやむのか想像がつかないような空模様だ。
もう一度声をかけてみようかと悩んでいた瑞希。声をかけることに躊躇してしまうのは、雨に濡れている彼と親しいわけではないからだ。
仲が悪いというのでもなく、彼は瑞希のことなど全く気にしていないのだ。それにも関わらず声をかけたいと思う理由が、瑞希にはよく分からなかった。
ただ、なんとなく気になるだけなのだ。
(……もう一回だけ)
心を決め、彼の名を呼ぼうとする。
「こ――」
しかし彼女の言葉は最後まで続かなかった。和彦が突然こちらを向き、自分に気がついたのだ。いざこちらに気が付かれると、なんだか気まずい感じがした。
「……何か用か?」
「あ、その……姿が見えたから。傘は?」
「ない」
和彦は面倒くさそうに答えると、再び彼女から視線を外した。校門前の道路には目ぼしいものは特にないが、彼は何をしているのだろうか。
瑞希はカバンをあさり、折り畳み傘を取り出した。普段から入れっぱなしにしている淡い黄緑色のそれを和彦に差し出す。
「そうだ、これ使って」
「いらない」
「でもそのままじゃ風邪ひいちゃうよ」
「いらない」
「遠慮とか大丈夫だよ。次の講義にでも返してくれれば――」
「そうじゃなくて」
傘を貸そうとする瑞希に対し、和彦はなぜか苛立った様子を見せる。
「……傘は必要ない」
「え?」
「ほっといてくれ」
和彦は突き放すように言うと、彼女に背を向けて離れ始めた。彼女は追おうとしたが、その足は止まってしまう。
彼女は和彦が去っていくのを、ただ見ていることしかできなかった。