good morning
この作品は、僕の処女作です。
まだ未完成で、至らぬところばかりだとは思いますが読んでいただければ嬉しいです。
───僕は過去に「囚われている」。過去というものはどんなに逃げようとしても常に背後から僕の首に手をまわして捕らえようとしてくる。僕はどんな時でも過去から逃げている。捕らわれないようにと必死に逃げている。だがこんな風に逃げている事これこそが「囚われている」ということではないのか。そう、過去というものからはどのようにしても逃げられない。
常に僕は過去に「囚われている」のだ。────
Prologue
Before dream.
ピピピ、ピピピという目覚まし時計の音が、太陽の淡い光に照らされているこの穏やかな空間を壊す。
──まったくこの瞬間は何度体験しても不快だ。夢という安息の地から無理矢理現実に引き戻される心地の悪さはきっと万国共通だろう。
そうして僕──上崎紘は現実の世界へと戻ってくる。
毎朝六時半に設定された目覚まし時計の刺刺しい音で、まるで心臓を一瞬で締め上げられたかのような衝撃を受けて目覚めた僕は、まず洗面所で自らの気持ちをまっさらな状態にする。
いつものように歯を磨き、顔を洗い、髪の毛をとかし、最後に寝間着から制服へと着替える。
鏡を見ると、そこにはいつもと同じ黒髪で地味な僕の姿が映る。
そして白い大理石の敷き詰められた清潔感があふれながらもどこか閉塞感を感じるリビングで僕は朝食を作る。
朝食のメニューは様々だが、基本的にはトーストに少し手を加えたものとコーヒーだ。
このコーヒーというものに僕は深くこだわりを持っている。コーヒーは元々嫌いでは無かったが今ほど好んでいるというわけではなかった。だがコーヒーとはなかなかどうして奥が深い。
昔は缶コーヒーで満足する僕であったが今ではそんな香りもコクも楽しめないものでは全く満足できない。今僕が作っているコーヒーはジャマイカの豆とコロンビアの豆をブレンドして焙煎からすべてを行って作る僕オリジナルのそれだ。
今日の朝食はこのコーヒーに、トーストの上に目玉焼きとベーコンを乗せたものにした。
リビングの白いテーブルで朝食をたべる。外はぽかぽかとしたいい天気で、リビングに入る柔らかな日差しが僕の心を落ち着かせる。
僕は毎朝のこの瞬間、この空気がなにより好きだ。一人きりで心から安らげる。いつまでもこのままでいたい。
しかしそういう訳にもいかない。白い壁に掛けられた時計を見ると針は七時半を指していた。
七時半といえばいつもならもう家を出ている時間だ。今日は少しゆっくりしすぎてしまったようだ。正直もっとコーヒーを堪能していたかったが、僕は残りのトースターとコーヒーを素早く胃に流し込み急いで家を出た。
僕の住む町─浅上町はハッキリ言って田舎だ。
これといって目立つ場所があるわけでもなく観光客もいない寂れた町だ。しいていうなら、市が町の発展のためにと建設した隣町へと架かる大きな橋があるくらいだ。
そもそも人が来ないのに交通整備をするなんて行為は笑えるくらいに可笑しく、勿論町の発展には繋がらなかった。この町で盛えている場所なんて無いが、それでも僕たち町民の憩いの場はある。
それが麻婆商店街と呼ばれる商店街で、僕は今ここを歩いて学校へ向かっている。
麻婆なんて変な名前だとは思う。だがここは確かに麻婆という名前なのだから仕方がない。どうやら何年も昔、この町に住んでいた神父がいたらしい。町民からとても人気だったその神父の大好物が麻婆豆腐だったようだ。詳細は分からないがどうやらそうだったらしいのだ。
実際にその神父を知っていたという中国人が経営している中華料理店がこの商店街にはあり、そこの麻婆豆腐はまるで劇薬のように刺激が強く、今までその麻婆豆腐を完食した人物を僕は見たことがない。僕自身もせいぜい三口が限界だった。店主によると先ほどの神父しかこの麻婆豆腐を完食したものはいないという。
この話について僕はまったく信じていないが、とにかくこの商店街にはほかにも八百屋、スーパーなど主婦を含め学生など浅上町の町民皆の憩いの場となっている。僕はそんな見慣れた風景をいつものように通り過ぎて学校へと向かっていった。
僕は自らが通う高校──市立浅上高等学校の校門を通り、下駄箱へと向かう。その道のりで生徒たちが部活動の朝練習をする音とセミの鳴き声が聞こえてきた。
下駄箱で靴から上履きへ履き替えて僕は自分のクラスである二年一組の教室へ足を進める。僕はほかのクラスメイトと比べると学校へ来る時刻がだいぶ早いほうで──無論朝練を行う部活に所属している生徒には負けるのだが──教室に入るといつも数人の決まったメンバーしかいない。
今日もいつもと同じく、教室には予想通りのメンバーが揃っていた。携帯の画面と向き合っている者、自席で机に突っ伏して寝ている者、今日の授業の予習をしている者と見知った数人がいつも通りの行動をしている。
「おーっす、おはよう紘。今日もはえーな。」
僕が自席へ向かおうとすると、また一つの見知った顔が僕の席に素早く座りニッとした笑顔を向けてくる。
「…はぁ。おはよう尊。なんでもいいから早く僕の席からどいてくれ、邪魔だ。ほら見ろこの顔を、汗だくだろう。」
このニッとした笑顔を向けてくるやつは僕の数少ない友達、いや友達は多いがその中でも何でも話せる数少ない友達だ。所謂親友と呼べないこともないかもしれない存在でその名前を木村尊という。
僕と尊は小さい頃からの顔なじみで──尤もこんな田舎の学校では生徒ほとんどが顔なじみだが──多分互いに一番よく話す友人だと思う。
尊は茶色のベリーショートな髪形に、鋭い目つき、スラっとしているのに筋肉質な外見。等と不良のように感じられるかもしれない外見ではある。だがこのように僕より早く学校へ登校する等、真面目な面が多く実際良いやつだ。
彼は黒髪で地味に思われる僕とは違い、顔も整っていて不良そうな外見と真面目な内面、そのギャップと、さらには時折見せるニッとした笑顔で女子生徒にとても人気だ。それなのに本人は女性にあまり興味がないらしい。
僕の不機嫌そうな顔を見た尊はおぉ、悪い悪いなんて言いながら僕の席から立ち上がり、隣の席に座って僕に話しかけてきた。
「それにしても今日は本当に暑いなー。世間はもう夏だ」
「あぁ、そうだな。それなのにお前みたいなやつが変な悪戯をするから余計にだ」
「あーもう、だから悪いって。それよりさ、お前こんな噂聞いたことないか?」
尊は目と口をニヤつかせ、流暢に語り始める。どうせいつものくだらない話だろう。尊は変な噂話、都市伝説が大好きだからな。
「俺も紘もさ、夢ってみるだろ?寝ているときにみるあの夢だよ。いやー、夢ってやつはどうやら夢を見る本人の深層心理が表されているらしい。」
一体何を言っているんだ、こいつは。そんな今さらのことがどうしたというのか。
「……らしいな。自分のしたい事や欲求、他には自分の精神状態によって見る夢が違うとか。」
「そうそう、そうなんだよ。その夢なんだけどさ、夢の世界ってあくまでも夢だろ?夢でみた事は現実になんてなーんにも影響しない。例えば夢の世界で大金持ちになったって、テストで百点をとったって。死んだとしても何一つ影響なんてない……でも、現実に影響する夢ってあるよな?」
尊が段々と真剣な面持ちになる。尊はたいした事を言っていないのに、なぜか空気が重苦しくなった気がする。
「現実に影響がある夢?尊の言いたい事が僕にはあまり理解できないんだが、その…正夢、でいいのか?」
夢が現実に影響なんて与えないと思う。ただ、正夢なら現実と少しは関係があるのではないかと僕は思い、口にした。
だが正夢というものは夢で起きた事が現実でも起きることであり、いわば未来予知に近いもの。それかただの偶然だとしか考えられなく「現実に影響がある」といわれるとおかしい気がする。現実で起きる事象を先に夢でも体験するという事は、現実で起きる事象が自らにそういう夢をみさせているのであって、それはつまり「現実に影響がある」のではなく「現実が影響を与えている」の方が正しいと思うからだ。
だが尊の言い分は僕のそれとはまったく違っていた。
「そう、正夢だ。正夢だけは現実に影響を与える。紘、お前正夢がどうやって起きるか知っているか?」
「尊はさっきから一体何が言いたいんだ。正夢は夢で起きた事が偶然現実でも起きる、ただそれだけのことだろう?言いたい事をハッキリ言ってくれ。」
僕は尊にこの会話で何を言いたいのか問いただす。先ほどから尊は話を逸らしてばかりで、結論を言ってくれない。
「まぁそう怒るなって。要するに俺が言いたい事はだな。現実で起きる様々な事象は正夢が原因だ。っていう事なんだよ」
「…はぁ、ここまで聞いてやったが言いたいのは結局そんなことか。くだらない。尊のいつものオカルト話には付き合っていられないな」
結局尊が何を言いたいのかよく分からなく、僕は呆れるしかなかった。
尊はそんな僕の言葉を聞きムッとして、不満を漏らす。
「待てって、確かに言いたい事はそういう事だ。でもな、まだ話は終わってないんだよ。たまにきちんとした理由もなく起きる事故とかあるだろ?例えば、工事現場で起きる事故だ。工事現場の職員の頭上に鉄骨が落ちてくるような事故とかよく聞くよな?でも鉄骨を支える部品にも異常がなかったり、監視カメラを見ても原因がよくわからなかったり、そもそも事故が起きる要因がない事故ってのがあるらしい。こういうのってさ、おかしいと思わないか?」
──確かに。確かにそういう事故はある。そういう事故はテレビでも取り上げられているが、結局真相は有耶無耶のまま責任者一人に一般人の責め立てる声がぶつけられていることがよくある気がする。
「でも、だから何なんだよ。それがまさかさっきの正夢だっていう訳じゃないだろうな?」
「そのまさかなんだよ。また話は変わるが、夢の中には化物がいるらしい。まぁ化物っていってもそれぞれだ。死神だったり、獣だったり、あるいは自分と同じ姿をした人間だったり。この化物ってのはさっき紘が言っていたように夢を見るやつの深層心理に影響されるらしい。それでその化物と夢で出会うとさ、自分を襲ってくるんだってよ。まるで自分だけを標的にしてずっと待っていたみたいに。もし、その化物にやられちまった場合にはその本人──」
僕が尊の話に思わず聞き込んでいると、尊は不意に目を見開きながら僕の顔に自らの顔を吐息がかかる距離まで近づき
──現実でも、死ぬんだってよ──
心臓が激しく鼓動を刻む。動悸がする。僕の心を強く揺さぶるそんな一言を、尊は言った。
どうせ尊のいつものオカルト話だと思うのに、思うはずなのに。
──僕は、その一言に取り憑かれていた。
***
放課後を報せるチャイムが鳴り響く。クラスメイトの各々は部活に行ったり、真っ先に帰ったり、教室で雑談をしていたりと様々だ。
その中で僕は一人自席に座って物思いにふけっていた。
──尊の言ってた事、本当なのかな。いや、そんなはずない。あんなオカルト話、普段からしてるじゃないか。信じる必要なんてないし、信じられる要因もない。
僕は尊のオカルト話に取り憑かれてしまい、考えることなど無いはずなのに結局放課後までそれについて考えてしまっていた。普段なら特に信じる事もせず軽くあしらうだけで終わるのだが、今日は違った。尊の話し方がたまたま饒舌で引き込まれてしまったのだろうか。
そんな終わりのない思案を延々と続けていると、その悩みの種を生み出した張本人に後ろから声をかけられる。
「おーい、紘。帰ろうぜ。今日はお前の家に寄ってく約束だろー」
「あ、ああ。そういえばそんな話をしていたな。そうだな、帰ろう」
僕は尊の誘いに応じる。僕自身忘れていたのだが、どうやら昼休みに尊と昼食をとっていた際、僕の家に遊びに来る話になっていたようだ。その時の僕は思案に耽っていて尊との会話も適当に相槌をうっていただけだった。
だが、今の僕にとってその誘いは好都合だった。
こんな答えのない問にひたすら挑み続けるという、無謀な行為を続ける愚か者に僕はなれない。──もうこんな考えはやめよう。そんな風に考えて僕は尊と帰路に就いた。
「でさ、そいつが俺の事好きなんて言ってきてさ。ぜってー嘘だな。って思ってまわりに面白がってる奴がいねーか見て回ったんだぜ」
「……尊。それ、相手本気だぞ」
「は!?そんな訳ないだろー、だって俺だぜ?」
「はぁ…。呆れたね。そういう事にしておいてやるよ」
尊はふて腐れて顔を膨らませる。僕と尊はいま、僕の家に向かい歩いていた。
「そういやさ、お前の家行くの久々だよなー。もう2、3カ月くらいか?」
「そうだな。前に来たのが始業式の日だから……3ヶ月と少しってところだな」
「だよなー。紘の家は豪華だからなー、久々だし楽しみになってきたぜ」
尊がふてくされた表情から一転、楽しそうな子供の表情になる。表情がころころと変わる奴だな。
僕の家は、浅上町の中では確かに豪華な部類に入るかもしれない。町の上部、つまり丘の上に僕の家はある。そこは住宅街で、他所から越してきた者や、こんな田舎で豪華な家をたてて大金持ちの気分を味わう成金たちが住んでいる。
僕の場合は、親が都会からこっちに越してきてこの浅上町で僕を産んだという訳だ。
他愛ない会話をしているうちに、僕の家までついた。
白い壁に2階建て、丘の上にある家。これが僕の家だ。
「着いたぞ」
「おおお!やっぱり紘の家はでけーな!さっそく入ろうぜ、お邪魔しまーす!」
「おい、まだ鍵開けてないぞー」
尊は目を輝かして僕の家に駆ける。やっぱり表情のころころ変わる奴だ。だがこんな風にいかにも楽しみにしていたかの様な反応をされると恥ずかしい。尊の素直に自分の気持ちを表現する、こういうところがまた女生徒に人気な要因なんだろうなと僕は思う。
僕は左右の門柱をくぐり、土に敷かれた石畳の上を歩き玄関に行く。そして西洋風のダークブラウンのドアに埋め込まれた鍵穴に鍵を挿す。
「ほら、開いたぞ。入れ」
そういい僕は後ろに立つ尊の方を向きながらドアを手前に引き開ける。
「お邪魔しまーす。うわぁ、やっぱすげーなぁ……」
「そんなことないだろ。ほら、僕の部屋に行こう」
家に上がる僕達を出迎えるものは誰もいない。そんな静寂の中、二階にある僕の部屋に尊を連れて歩く。ミシミシと床が軋む音が鳴り響き、その音は二階で鳴り止んだ。
部屋のドアを開けて入る。そして真っ先に目に入って来たものはぐちゃぐちゃに放っておかれたベッドだった。そういえば朝の目覚めが悪かったからか散らかったベッドを整えていなかった。
尊も部屋に入り、あたりを見回す。
──僕の部屋なんて見ても面白くないだろうに。
そう思い、ベッドを整えながら僕は尊に話しかける。
「まぁ、そこら辺にでも座れよ。なにする?生憎だが、家には本とピアノくらいしかないぞ」
僕の言葉を聞いた尊は、窓際に置いてある学習机を見つけその方向に足を進める。そうして尊は机の前に置かれた回転イスに座り、ベッドを整えている僕の方を向く。
「そうだなー。この家って、高校生が暮らすにはあまりにも娯楽が少なすぎるよな。もっと娯楽を取り入れろよ!お前はそれでも欲にまみれた男子高校生か!?もっとこう、CDでも漫画でもゲームでも何か取り入れるのが普通だぞ!」
尊が僕の私生活に口を挟み、一人で盛り上がる。
確かに僕はピアノと読書くらいしか趣味が無い。だがそれは僕の好きでやっている事だから別にいいのだ。僕はベッドを整え終わり、CDラジカセの横にある棚に近づき手を伸ばす。
「僕の事なんだから別にいいだろ。それにCDだってちゃんとあるぞ。ほら、ショパン」
手にショパンのCDを挟み、尊に見せる。──どうだ、これでいいだろう。僕はそんな風に誇らしげな顔で尊を見ていたが尊の顔は曇るだけだった。
──どうしたんだ?ショパンじゃ物足りなかったか?ならベートーヴェン。いや、ここは僕の一番のおススメ、ゲーテなら!
ショパンを棚に戻し、次のCDを掴もうとした時に尊は言う。
「ぷ、ぷぷ……あっはっはっは!!いやー、紘はおもしれーなー。うん、男子高校生としてはおかしい気もするけど、紘なら許せるな。いやー、おもしろいおもしろい」
尊は突然吹きだして笑いながら言う。なんだか馬鹿にされた気分がして、僕は少し眉をひそめながら反論する。
「な、何だよ、そんなに僕はおかしいか!まったく、失礼な奴だな」
「いや、ぷくく……ぷはっ!紘はそのままでいいと思うぜ。それでこそ紘だよな」
尊は目から笑いの涙を流し僕に言う。尊は僕の事をよくからかうが、僕はいつもなぜか怒る気になれない。
こいつは昔からそうだ。僕が何か隠し事をしていても見抜くし、今みたいに僕が言いたい事を理解した上で話してくる。そんな全てを見通す様な頭のキレを持っている。
彼の言葉に上手く治められた気がして僕はまた少し、眉をひそめた。
結局、僕達は紘がこっそり持って来ていたという、テレビゲームで遊ぶことにした。学校にテレビゲームを本体ごと持ってくるなんてバカな行為だと思ったが、やはり尊が行うことは何故か人を惹きつける。僕はそんな尊を笑いながら一緒にテレビゲームを楽しんだ。
「んんーっ!」
尊が伸びをする。ずっとテレビゲームに夢中だったんだ、仕方がない。
「ふぅ、もうこんな時間か……」
尊は視線を机に立てられた目覚めし時計にずらし言った。いま時計の針は二十時を指している。
「ああ、そろそろお開きだな」
僕が尊に帰宅するよう軽く促すと、尊は更に視線を僕の方にずらしいつもの悪戯をするときの顔になった。
「いいや、今日は泊っていく」
「は?何をいってるんだ。無理に決まっているだろう。いいから早く片付けて帰る準備をしろ、僕も手伝うから」
「頼む!一生のお願いだ!今日はお前の家に泊まらせてくれ!」
僕は尊の申し出をあしらうが、尊はそれでは食い下がらない。顔の前に手を合わせ下を向き、頼みこんでくる。だが無理なものは無理だ。僕はこの家というプライベートゾーンをあまり浸食されたくない。家にあげるというだけでも滅多にない事なんだ。
「無理だ」
「で、でも……」
「無理だ」
尊は僕の顔を見てシュンとする。可愛い顔をしても無駄だ。
尊はそんな僕の意図を知ってか知らずか、それ以上は何も言わなかった。
「じゃあ…帰るわ。無理な事頼んで悪かったな」
「あぁ、悪いがそうしてくれ。また今度家にあげてやるから」
「ホントか!?ありがとうな、紘!」
尊の落ち込む様子を見ていたたまれなかったが、気分の上りようも凄いな、こいつ。
僕達は二人でゲームを片づけ、玄関まで下りて行った。玄関で尊が靴を履く様を、僕はテレビゲームの入った鞄を持ちながら眺める。尊は靴を履き終わると、こちらに向き直り言った。
「じゃあ、ありがとな。楽しかったぜ。また来るわ」
「ああ、僕も楽しかったよ。また明日」
そう言い僕は尊に鞄を手渡す。
鞄を受け取った尊は僕に背を向けて歩き出す。が、玄関をでてすぐに再びこちらを向きなおした。
「その、さ。紘。気をつけろよ、色々と」
???
僕の頭にはてなマークが浮かぶ。
「どうしたんだよ尊、おまえ今日なんだか様子がおかしいぞ?なにかあるのか?」
「い、いや。何でもない。ただ……ちょっと気になっただけだから!じゃあ俺帰るな。じゃあな!おやすみ!」
そう言い尊は玄関を走って行き、丘を下って行ってしまった。
──どうしたんだ?あいつ……。今日の尊は考えてみると確かに少しおかしかった気がする。いや、おかしいのはいつものことだが、今日はまた違うおかしさがあった。なんというか、僕を心配しているような。そんな気遣いがところどころ感じられた気がする。
そんな事を考えながら僕はリビングへ行き夕食を作る。今日は昨日のうちに作り置いたから揚げとみそ汁。朝食はコーヒーとサンドイッチと、いかにも洋の雰囲気だったが僕は和食も好きだ。麻婆商店街で総菜を買うことだって多々あるし、自分で作ることだって多い。
茶碗にごはんをよそって、今日の夕食は完成だ。僕は夕食をリビングの白いテーブルまで運ぶ。夕食は質素に思えるかもしれないが、僕は周りと比べると小食な方なのでなんら問題は無い。
「よし。それじゃあ、いただきます」
手を合わせる。そうして僕は夕食を食べ始める。カチャカチャと食器の音のみがこの真っ白な空間に鳴り響く。それ以外の音は何一つたたずに、沈黙の時は流れて行った。
「ごちそうさま」
再び手を合わせる。僕は夕食を食べ終えると軽くひと息つき、そして後片付けを始める。
再びカチャカチャという音が鳴り響く。だが先ほどと違うのは皿の音に加え、蛇口から零れる水の音も聞こえるという事だ。今、僕は食器を洗っている。ただ食器を洗うそんな中、僕の心は孤独感に居場所を奪われていた。
今日のように誰かと遊んだ後に一人になると途端に寂しくなる。いつもならこんな孤独はたいしたことないのに。人に関わりすぎると余計に自らの孤独感、劣等感が感じられるのではないかと僕は思いながら食器を洗う手を次の食器に伸ばす。が、その手は何もない宙を掴むだけだった。一人が夕食で使用する食器は少なく、僕がこんな考え事をしている間に食器達は既に自らにつく汚れを落としきっていた。
一通りの家事をこなし、風呂にも入った僕は寝室で物思いに耽りながら眠りに落ちようとしていた。
今日の記憶が蘇えり、僕の頭を駆け巡る。
──今日は、久しぶりに尊と遊んだな。楽しかった。でも、尊はやっぱり僕なんかとは違って眩しく見える。
──尊はいつでも大人みたいで、カッコ良くて、それ比べて僕は。
──僕は、尊に勝てるようなところが全くないじゃないか。
──尊と一緒にいるのは楽しい。楽しいけど、激しい劣等感に苛まれる
──なんで尊はあんな笑顔を見せられるのだろう。
──なんで尊はあんなに少年のようなのだろう。
──なんで尊は全てを見通すように思えるのだろう。
──なんで尊は。なんで。なんで尊は。尊だけ。尊だけ。僕にはなくて、尊だけ。なんでなんでなんでなんでなんでなんで尊尊尊尊たけるたけるたけるたけたけたたけたけたけたけたけたけたけたたたたたたたたたたたたたたたた あいつだけあいつあいつあいつあいつあいつあいつあいつあいつたけるるるるるる
嫉妬が心の中に渦巻く。
嫉妬が心の中に種を産む。
嫉妬が心の中に芽を出す。
嫉妬が心の中に花を咲かす。
その花は酷く痛々しく、そして見る者全ての目を奪うほどに酷く──美しかった。
──そうして僕の意識は不意に途切れ、嫉妬の渦に絡まれた。
意識が堕ちていく。深い深い、眠りの中へ。自分以外誰もいない世界へ。他人との劣等感など感じない世界へ。
どこまでもどこまでも堕ちていく。
目を覚ますとそこは見慣れた教室だった。
Another Dream
1st
「そんな……。嘘だろ……」
静まり返った空間に、金属音が響き渡る。
少年の手には、先ほど持っていたはずの包丁が無くなっており、代わりに赤い液体が彼の手を浸食する。
「ち、違う。俺はそんなつもりじゃ……」
少年は自らの手を強く握る。その手からは元々付いていた液体とは別に、赤くて熱い液体が溢れていた。手から液体が零れおちる。
だが、少年は手から発せられる痛みを感じることは無かった。
彼は、目の前の惨状に心臓の鼓動を強く促進されていた。
少年の前にある惨状。それは、普通に暮らす人々ならまず見ないであろう光景。
その光景は、一色に染め上げられていた。見開かれた瞳に映るものは一面の朱。
少年が自らの痛みに気づかなかったのは、痛覚を感じない異常者だからではない。
鼻を突く臭い。身体に感じる自分以外の体温。未だ手に残る恐ろしい感触。そして、目の前に広がる光景。その全てに彼は恐怖と嫌悪感を抱き、心奪われていたからだ。
少年の前に広がる朱。
その中には2つの、生命を持っていたはずの肉塊があった。
The 1st Dream
Encounter
僕は深い眠りの中で、ある夢を見ていた。
それは温かい昔の夢。家族と仲良く出かける夢。
だが、その幸せな夢は一瞬で悲しい記憶に塗り替えられる。
僕が家で留守番しているときの話だ。
僕は両親が帰ってくるまで家で待っていた。なかなか帰ってこないので不安になったが、それでもひたすら待ち続けていた。1時間が2時間になり、3時間になり。とうとう僕は朝まで待っていたが、待ち人は来たらず。僕はテーブルに突っ伏しながら眠っていた。
目を覚ますと、そこにはやはり両親は居なく僕は孤独感を感じる。
僕は、父さんと母さんを信じていた。誰よりも優しく誰よりも強い心の二人を。きっと帰ってくるだろうと。
だが、幼い僕のそんな期待は呆気なく踏みにじられた。
僕が両親を待ち続けると決めたその日の夕方。
玄関のチャイムがリビングにいる僕を呼ぶ。きっと父さんと母さんだ! そう思った僕は全速で玄関までいきドアを開ける。
そこには、父さんとは似ても似つかない、警察手帳を持った中年の男性がいた。
その刑事によると、父さんと母さんは死んだらしい。
──そんなバカな。父さんと母さんが死んだだって?しかも殺された?そんなはずがない。
だって父さんは言ったじゃないか。すぐ帰ってくるって。母さんも笑顔で、帰ってきたら一緒にデザートを食べようって言ってくれたじゃないか。それなのに、なんで。父さんも母さんも嘘なんてつかないんだ。きっと、この刑事が嘘をついているんだ。なんて人だ。刑事なのに人を騙す様な事、許されるのか。
僕は刑事を強く、強く睨んだ。
だが刑事の男は悲しげに僕を見つめて、ほほ笑むばかりだった。
***
突然目が覚める。
僕は、どうやらまたあの夢を見ていたようだ。
──全く、何度目だ。僕はもうあのときの事はどうとも思っていない。それに、今は大事な友達もいるじゃないか。なにも寂しいはずがない。
目を覚ました僕は、ベッドの横にある時計を見て現在の時刻を確認する──だが、時計があるはずの場所にはそんな物は無く、ただ机と椅子がならべられているだけだった。
「…………はああ!?」
僕はあたりを見回す。ここは僕の寝室ではない。
──一体どういう事だ? 僕は確かに自分のベッドで寝たよな? でもここはどこだ?もしかして拉致か? でも、いったい何で……。そもそもここはどこだ、机と椅子ばかり並べられて、まるで教室みたいじゃ──
頭の中で思考をしながら、僕は気付く。
僕が今いるここは、市立浅上高校の二年一組。僕の通う高校の、僕の教室だった。
いったいなぜ教室で目覚めたのかを考え、僕の考えは一つの推論を生み出す。
──もしかして僕は、朝起きて学校に来てすぐに眠ったのではないか。それで単なる寝不足が原因で朝からの記憶が抜け落ちている、ただそれだけじゃないか? なんだ、それなら安心だ。
そう思い僕は再びあたりを見回す。
それは僕が普段見ている光景と同一の物であった。机、椅子、僕の席、黒板、教室から廊下に向いて伸びている2年1組の文字。やはり僕の通ういつもの教室だ。だが普段ならこの教室にあるはずのもの、クラスメイトが1人もいないことに僕は気づく。
普段は僕より早く教室にいる人物が少なくとも3人は居るはずだ。もしかすると、たまたま今日はみんな揃って登校が遅れたのかと思い教室の窓から校門を覗く。
だが僕は校門を覗くより先に、大きな違和感に今更ながら気づく。
この学校を覆い隠す空。その空には太陽が昇っていなかったのだ。不気味な月が空に浮かび、一等星の星達がまばらに散りばめられている。
この空は、現在の時刻が夜、それも真夜中である事を示していた。
再び僕の頭に疑問が浮かぶ。なんで夜のこの時間に僕は教室にいるのか。そして僕は今どうするべきなのか。そして出した結論は、ここにいる理由を考えるより先に一旦家に帰る。というものであった。
視線を窓から教室の出口へと向ける。とその時に窓に映る自分を見て僕は再び気付く。
──この服、制服じゃないか。ますます意味が分からなくなってきたな。
そんな今となってはそこまで気にするものでもない事を考え僕は今度こそ教室を出る。
空に輝く星の光が射し込む廊下を僕は校門に向かって歩いていく。
僕はあまり急がずに普段通りの歩調で歩いていた。早く家に帰らなければ、という気持ちもあるし焦りもあるが、僕はあまり慌てず冷静だった。なんでこんなところにいるのか、その理由は分からないがまずは家に帰る。という目標ができたからか自然と後ろめたい考えも湧かなかった。
浅上高校はA棟とB棟、そして実習棟の3つの棟に分かれている。僕の教室である二年一組はB棟にある。校門まではA棟、B棟、実習棟の順番で離れていて僕はまずB棟の二階からA棟へ行こうとしていた。
僕はB棟の二階と一階をつなぐ階段を下りようとする。
踊り場の窓からのぞく月はこの階段と踊り場だけを照らし、普段僕や生徒が見られない光景をつくりあげていた。月の光に照らされた階段をひとつ、またひとつと下りていく。
そして踊り場に自らの影を落とす。先ほどまで踊り場を照らしていた光は僕に注がれ、まるで僕だけが一人、皆の立つ事ができないステージに立ったような気がして不思議と高揚感を覚える。
そんな理由もわからない高揚感は耳に入るいくつかの衝突音に引き裂かれる。
階段の下、一階の方から僕の耳になにかの衝突音が聞こえる。どごん、と何かがぶつかる音のなかにバタンバタンと何かが倒れる音、さらに金属のキンという鋭い音も混じっているのが感じ取れる。
「なんだ、この音は……?」
僕は音に反応し、一階へ階段を1段飛ばしで下りる。
階段を下りると再び先ほどの音が聞こえてくる。さきほどより近い気がする。
──いや、近いなんてもんじゃない。それどころか、すぐそこじゃないのか?
そう、音は階段を下りた目の前、「用務室」の中から聞こえている。
用務室は階段を下りたB棟一階にある階段の隣に位置している。ここには文化祭や全校集会等の学校行事で使用される用具が置いてあり他にも蛍光灯やチョークも保管されている。先ほどの音はおそらく、パイプ椅子や机、蛍光灯が倒れた音だろうと僕は予想した。
だが問題は何の音かではない。何による音かである。
僕はその何かを確かめずにはいられなかった。もしかしたら僕を連れ去った張本人かもしれない。もしかしたら僕以外にも連れ去られた人間かもしれない。もしかしたら先ほどの音はそもそも誰かが落としたものではなく、そこにはなにもないかもしれない。
──危険だ。リスクを考えろ、こんなどうでもいいことに首をつっこむ意味がない。
僕の頭が警告のサイレンを鳴らす。僕はリスクをきちんと考えられる人間だ。確かにこんな行為はリスクしかないかもしれない。でも、このときの僕には用務室へと運ばれる足を何故か止めることはできなかった。
きっとこのときの僕は、冷静なふりをしているだけだったのだ。僕は自分の事を冷静だと思いながらもその実、この不思議な体験に胸が躍っていたのだ。
足が進む。用務室のドアに近づき、手を触れようとした瞬間。もう一度衝突音が鳴り響く。
だが僕はその音に怯む事は無かった。ドアノブに手をかけ、引く。
僕の瞳に真っ先に映った物、それは黒く蠢く何かであった。
ドアを開けたそこは、物が散乱していた。机にパイプ椅子、それに蛍光灯。やはり先ほどの音はこれらによって引き起こされたのだろう。他にも昔の資料だろうか、本棚からいくつかのアルバムも引き出されていた。
そしてその散らかった部屋の中心部、そこだけは散らばっている物が少なくまだ綺麗だった。
だがそこには周りとは明らかに違う異物が存在していた。
それは特別大きい訳でもない。それは何か恐ろしい外見をしている訳ではない。
それなのに、僕はその何かに恐怖し、威圧され、心の居場所を奪われていた。
それは生物と呼ぶにはあまりにも禍々しく、無機物と呼ぶにはあまりにも生々しかった。
「う、うわああああああ!?」
僕は先ほどまでの好奇心など忘れて、その禍々しい存在に恐れ戦いていた。
僕はあのリスクを考えない行為を後悔した。あのときの自分を恨んだ。こんな何か分からない、この世の物とは思えない物に遭遇してしまうなんて。
何かは蠢く黒の中に光る赤い瞳をこちらに向ける。
この何かが先ほどまでの轟音を引き起こした犯人だろう。だがその身体はとても矮小に見えた。とてもじゃないが先ほどまでのあの音を、この身体ひとつで引き起こすことはできないように見える。
それでもこの禍々しさには不可能を可能とする何か、常識が通用しない何かが存在するのだろうと僕は本能で理解する。
じりじりと僕の足が後ずさりする。その度に何かの赤い瞳は僕を意味深に睨む。
──逃げなければ。こいつは危険だ。何故危険かなんてわからない。でも、こいつからは逃げなければならない。
僕のこの身体がそう告げているんだ。
だが僕の体は思うより先に動き出していた。僕は既に全力で駆けだしていたのだ。
用務室から駆けだし、右側、A棟に向かって走る。A棟とB棟は中庭を挟んで、一本の渡り廊下で繋がれている。そして、その渡り廊下に僕は差し掛かる。
背後からはどんな音で表せばいいのか分からない大きな叫びが聞こえ、僕の身とこの大気を震わす。
僕はその叫びに思わず震えあがり、道に転んでしまう。
先ほどの恐怖に加え、今の叫び声で僕の心臓はこれまでにないほど強く怯えていた。身体を地面の石畳に這わせながら、僕は自分の血液が激しく全身に流れるのを感じ取る。
背後からは再び何かの叫び声が聞こえ、僕に近づいてきているのがわかる。
僕は、その迫ってくる何かの肉迫に単純な死の未来を予測する。
死にたくない、その一心で僕は起き上がり恐怖に震える自らの足に鞭を打つ。
B棟からA棟へ、渡り廊下を使い僕は走る。
先ほどの用務室からこのA棟まで、実際は大した時間ではないのに僕にはとても長く感じられた。肩で息をし、足も震えて思うように動かない。ほんの少しの時間なのに僕はとてつもなく疲労していた。
だがそれでも背後から近づく死の気配から逃れようと僕はひたすらに走る。
僕はA棟の廊下を走りながらなんでこんな事になったのか再び考えるが、この状況では何も考えられない。
──何も考えられないなら、その考える力を足に注げ!
肩が空を切る。身体が風を感じる。視界に入るのは教室、教室、教室。そして、とうとう校門へと出る扉が視界に入る。A棟から校門までの距離なんて大した物ではないのだが、やはり今の僕にとっては果てし無く長い道のりだった。
A棟の出口のドアまで近づく。ドアはガラス張りで、ガラスの先には校門が見えた。
そして僕はガラス張りのドアを開けて校門まで逃げだす──はずだった。
「は?」
僕はつい口をぽかんと開けてしまう。ドアを開けて逃げ出すつもりだったのに、そのドアは開かなかったのだ。僕は最初訳が分からなく無心状態になっていたが、ふと我に返りもう一度ドアを開けてみる。やはり開かない。もしや鍵がかかっているのかと思い僕はドアの鍵を確認するが、鍵は開いているようであった。ではなぜ開かないのか。
そんな風に僕がドアの前でうろたえていると、そこに再び死の気配がやってくる。
「■■■■■■■■■」
何かが、その矮小な身体からまるで工事現場の激しく重い騒音のような咆哮をする。その咆哮は窓ガラスを震わせ、大気を震わせ、僕の衰弱しきった心にとどめを刺そうとした。
「くそっ! 開けよ、何で開かないんだ! なあ、おい!!開いてくれよお!!」
僕はドアを必死にこじ開けようとする。だが、ドアは開く事無くがたんがたんと僕に絶望を与えるだけであった。
僕が絶望している間にも、何かはじりじりと近寄ってくる。僕は何かが近づいてくる度に自分の命の砂時計が零れ、死への時を刻み始めた事を実感する。
背後にはどうしても開かないドア。前方には死の気配を放っている何か。
──僕はもう諦めるしかないんだ。僕の命はここで尽きるのだろう。なぜここにいるのか。僕を殺す相手が何なのかという事さえ分からないまま死ぬのだ。
そんな風に思うと、なんだか気が抜けてきた。これまで頑張って来た事を無意味に感じて、僕はドアによりかかり腰を落とす。もうどうにでもなれと、僕の口からは乾いた笑いが零れる。だがそれは、すぐに自らの絶望にかき消される。
「死にたくない。死にたくない。くそ、死ぬしかないのか。僕は死にたくない。くそ、くそ。くそおおおおおお!」
僕の頬に一筋の涙が垂れる。
何かは僕の絶望に満ちた顔を見て、声を聞き、それでもなお僕に近づく。
じりじり、じりじりとそれは近寄ってきて僕は絶望の中震えるしか無かった。
そしてとうとう何かは僕に飛び掛かる。
死ぬ。僕が絶望に溺れ、そう確信した時だった。
「泣いてんじゃねぇよ、坊主」
その一言が僕を絶望の深海から引きあげてくれた。
***
「おう、おはよう」
暗闇の中で集まる5人の男女。その内のリーダーと思われる1人の男性が他の4人に挨拶をする。声をかけられた4人の男女はそれぞれが、おう、おはようございます、おはようだな、グッモーニン! と個性的な答えを返す。
5人が集まる暗闇は町の一角にそびえるある喫茶店、その前の路地である。
月の光は路地まで届いてはいるが、田舎であるこの町の街灯がほぼ見当たらないこの一角では月の光程度では大した明りにはなっていなかった。
「あの……今日はどこに行くんですか?」
女性の1人は、リーダーと思われる男を見つめながら丁寧な言葉使いで尋ねた。他の3人もその質問に対する返答を求めるために、同じく男性を見つめる。
「ああ、今日行く場所はボンボンたちが住む丘の上にある1軒の家だ」
そう言い男は町の上部、丘の上にそびえる豪邸たちを指差す。
「あそこは確か、余所から移住してきた者や裕福な家庭が住む住宅街だな。そこに今回の対象がいるのか?」
男の返答を聞いた内の1人、凛々しい顔をした女性は指差した方向を見つめ再び問いかける。
「そういう事。今日の目標はあそこに住む坊ちゃんだ。何があったのかは知らねぇが、俺たちのやるべき事は1つ。皆分かったな? よし、それじゃあ今から向かうぞ」
男は4人にそう告げると体を丘の上へと向けて歩き出す。4人は男の背中を見た後お互いの顔を見つめ合わせ、苦笑しながらその背中に付いていく。
5人は薄暗い夜の街を歩いていく。頭上に不気味な月の光を感じながら。もうそろそろ丘に差し掛かるといったところで、金髪の女性が愚痴を漏らす。
「全くもう、遠いわね! こんなに遠いとは思わなかったわよ! 早くマイホームに帰ってティーを飲んでブレイクタイムと行きたいところだわ」
「おいおい、こんなので遠いなんて言ったらお前お終いだぞ? これから先大丈夫なのかよ――あっ、お前小さいもんなー。確かにそんな短い脚だったら辛いよな、ごめんな」
愚痴を聞き、歩みを止めたリーダーと思われる男性は、その愚痴を発した女性の方へと振り返る。そして謝罪の言葉と共に馬鹿にしているともとれる言葉を笑顔で投げかける。
すると女は目を大きく広げ、顔を真っ赤にしながら反論をする。
「なによ! 私の足が小さいなんてそんな事あるはずがないじゃないの! あー分かったわよ、歩けばいいんでしょ歩けば。別に疲れてるわけでも脚が短いわけでもないんだからね!?」
「……なぁ、どうでもいいんだが早く行かないか?疲れたならおんぶしてやるから」
リーダーとは違うもう1人の大きな体をした男が、呆れた顔をしながら金髪の女に手を差し出す。だが女は疲れてないと先ほどより真っ赤な顔をしてスタスタと先陣を切って前へと早歩きで進みだす。
そうして、再び5人がしばらくの間歩き続けると視界に住宅街が入ってきた。
「あっ、見えてきましたね。今日の目標の家はどこでしたっけ?」
住宅街の坂を上りながら茶髪の女は尋ねる。
リーダーと思われる男は手を顎に当て、うーん。と唸りながら辺りを捜索していく。すると男はある一軒の家の前で足を止め表札をじっと見つめた。
「うーんと……かみ、ざ、き……よし! ここだ。ここが今日の目標、上崎紘の家だ!」
***
――誰かの夢の中に入るのは何度目だろうか。俺は高校生の時に能力に目覚めて以来、ずっと誰かを助けてきた。今俺は成人していて、数えきれないほどとまではいかないがそれでも胸を張れるくらいには周りの奴らを助けてきたと思う。こんな事がいつまで続くのかは分からない。でも、それは誰かの為になっていることだし続けてやるかなんて思う。それに俺の夢の為にもなる。だがまあ、とりあえず今は目の前の奴を救ってやるしかないかな。
そんな事を考えながら俺は上崎とかいう奴の家に入る。俺の後ろには4人の心強い仲間たちだっている。
静かな廊下を俺たちは歩き、階段を昇る。家には5人の足跡と話し声が響く。
「あのー、今回もヒュプノスは出るんですよね? 私、少し怖いです」
階段を昇り切ったところで舞以が不安そうに呟く。こいつはまだまだだが将来は有望だ。気弱そうに見えるが実際は強い芯を持っている。
「安心しろ。ヒュプノスなんて俺がぶっ飛ばしてやるよ」
俺の言葉を聞いた舞以はほっと安堵の息を漏らす。
そして俺は階段を昇った先にある目標が寝ていると思われる部屋のドアを開ける。
中にはやはり今回の目標が寝ていた。
「あー、やっぱ魘されてんなぁ。でも魘されてるってことはまだ大丈夫って証だな」
俺が目標の横に立つと、舞以達も俺の方に来た。俺達は今からこいつの夢の中に入る。そしてこいつが魘される原因、ヒュプノスを倒すんだ。
「お前ら準備はいいな?」
皆が真剣な顔立ちになって俺の言葉に頷く。ここにいる全員準備は出来たみたいだな。
「よし、いくぞ」
目を閉じる。そして目標の夢に入り込もうと意識を集中させる。舞以達も同じことをしているはずだ。
どこまでもどこまでも落ちていく感覚。この感覚、もう何度目だろうな。最初は気持ち悪かったけど、気づいたら慣れてた。
目を開く。そしてまず目に入ったのは教室。おそらくここが目標の奴と深くかかわっているのだろう。
後ろを振り向くと、既に仲間たち全員が集合していた。俺は仲間たちに今回の方針を伝える。
「先ずは探索だな。目標がどこにいるのかはしらねぇ。とりあえずの目的は目標の安全確保だ。今日ヒュプノスを倒さなくてもゆっくりと削っていけばいいさ。だから、ヒュプノスが来たら逃げろ。いいな? そして目標を見つけたら安全な場所に移動しろ。あとで誰かが拾いに行く」
俺の指示に皆は頷いてくれる。ビビってた奴も、愚痴を漏らしてた奴も、今では皆同じ眼をしている。
「それじゃあ作戦開始だ。皆、ばらけろ!」
俺の言葉を皮切りに、俺たちはそれぞれ違う方向へと駆け出す。この階層を調べる奴、違う棟へ行く奴。その中で俺は窓から校庭に飛び降りた。
地面の方を見るとまあまあな距離があった。どうやら此処は三階だったようだ。地面がみるみると目前に迫り、俺は体制を整えながら着地しようとする。脚をとにかく柔軟なバネの様に、自分が地面に接触する瞬間に俺は足を曲げて着地した。
辺りに少しの風と少しの衝撃が散る。だが俺の脚には何の損傷も無く、すぐにその場を駆けた。
飛び降りた先から、目前にある校庭の中心まで俺は走り、辺りを見渡す。
俺が見た感じどうやら、この学校は2つの棟に分かれているようだ。俺が今飛び降りてきた棟の向かい側には、今俺がいる校庭を挟んでもう1つの棟がある。
そして俺は校庭と俺が下りてきた棟、向かい側にある棟とをここから見える範囲で見渡す。
俺が飛び降りてきた棟を見るとエイミーと晶が見える。エイミーは2階、晶は3階だ。目線を少し上にずらすと屋上には綾音がいるのが見えた。
この棟では3人も探索しているし、もう人員としては十分だろう。
校庭はどうだ。じっくりと校庭を見渡し誰かの気配が無いか感じ取る。だが気配は何も感じられず、俺の視界に入るのは校舎と木々のみ。
「ちっ。ここはハズレか?」
それならエイミー達のいる棟ではなく、もう片方の棟を探すべきだろう。
そう思い俺が顔をもう1つのへ向けると、そこには凄い速さで駆ける人影が写る。
「おー、舞以か。あいつ、俺が目標を探す少しの間にもうあの棟に着いたってか。やっぱあいつの夢喰はこういうとき役立つねぇ!」
視界に移った舞以は、1人で1つの棟全てを探索するかの様な勢いで駆けていて、その速さは恐らく自動車のそれをも超えるだろう。
「でもあの棟を舞以1人だけでってのはちょっと荷が重いんじゃねぇのかぁ? それなら俺が舞以の探しきれないところをカバーするとすっか!」
舞以の居る棟へと移動するにはどうすればいいのか。思案しながら俺は目線を再び左右いたるところに向ける。そうして目に留まったのは渡り廊下。渡り廊下を通って行くのは中々に妙案じゃないか。
渡り廊下ならエイミー達の居る棟と、舞以の居る棟。更にはこの校庭と3つのエリアを自由に行き来できるだろう──まぁ舞以の居る棟に向かう予定ではあるが──もしエイミー達の居る棟で何かが起きてもすぐにそちらに向かう事だってできる。
そう思い俺は渡り廊下へと走り出す。
俺の足が地面を踏みしめ、蹴りだすのを感じる。舞以ほどの速さではないが、俺だってあの5人では速い方だ。俺はすぐに渡り廊下にたどり着き、舞以の居る棟へと曲がる。
先ほど見た舞以は三階に居た。おそらく、屋上と三階は既に見回りを終えているのだろう。なら俺は、まずこの一階を探索しよう。
そう思い、一階の廊下へ一歩を進めた時──
「くそおおおおおおおおおおおお!」
――誰かの俺を求める声がした。
***
「泣いてんじゃねぇよ、坊主」
僕の前に一陣の風が吹く。轟と吹き荒れるその風は、何かをまるで綿毛であるかの様に吹き飛ばす。その風によって僕の頬に流れていた涙は一瞬にして消し飛び、僕の顔は恐怖に引きつった顔から驚愕の表情に変えられる。
僕の瞳に映るもの、それは嵐の中心にいる人物、それは何かを一瞬で吹き飛ばし僕を助けた人物、それは──とても心強い大きな背中だった。
「――――ッ!? あ、ああ、あなた……は…………?」
僕は男に尋ねるが、先ほどまでの震え、そして今の驚きによって上手く声が出せずその声は震えていた。
僕の声を聞いた男はこちらを向き、破顔する。
「大丈夫か? 悪いが今は自己紹介なんてする暇はねぇ。まずはこいつを片付けるとすっか!」
すると男は僕が返事をする間も作らずに駆け出していく。男が向かう先には壁に叩きつけられた黒い影。だがその何かはすぐに起き上がり再びあの咆哮で大気を震わす。
「■■■■■■■■■■」
その咆哮を聞き僕は又もや顔を引きつらせる。だが視線を男の方へずらすと、そこには恐怖など微塵も感じさせない決意に満ちた表情が浮かんでいた。
「うらあああぁぁっ!」
男は何かに自らの得物を振り下ろす。その光景を見て僕は先ほど何かを吹き飛ばした正体。その原因に気づく。
男の手に握られた得物――それは、一本のナイフ。
全力で振るわれたその一閃は何かの小さい体に致命傷を与えることは出来なかった。だが振るわれた一薙ぎはそれの左腕に突き刺さり、躰を壁に縫い付けることに成功した。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
何かは先ほどとは違い少し声音が高く感じられる音を叫ぶ。それは相手を威嚇するような大気を震わす咆哮ではなくただの叫びだった。その叫びは痛みによるものか、それとも怒り、自らを鼓舞するためのものなのか。
男はそんな何かの叫び等気にも留めずに、未だ何かを縫い付けているナイフを持つ右腕、その反対側の左手を握り後ろに振りかぶる。
「これでも、喰らえ!」
男の左手が何かの頭と思しき部位に振り下ろされる。だが握られた拳が相手に触れる数瞬前、叫び声を上げていた何かの左腕は千切れその体は地面に落とされた。そして何かは目前の脚を潜り抜け数メートル先で再び男を見据える。
「──ッ!?」
男は縫い付けられていたはずの相手が目前から消えたことに目を見開き、何かが自らの腕を切り落とした事に気づいて後ろの目標に視線を向ける。
「なるほどな、自分の体なんて自由に切り落とせるってか。一体どんなつくりしてんだ、それ」
男は壁に腕を縫い付けているナイフを強く、腕の中をほじくる様に押し付ける。するとその黒い影に包まれた腕は辺りにその影をまき散らす様に霧散した。それを確認した男はナイフを壁から抜き、構える。
そこで僕は男の表情に目を疑った。男に浮かんでいる表情は先ほどの表情とは変わり、口の端を吊り上げて笑みを浮かべていたのだ。
だが僕が困惑している間にも戦いは進んでいく。
「ただの雑魚かと思ったけど、思ったよりは粘るじゃねぇか。こりゃ、ちょっとは手応えがあるかもな」
男は姿勢を低くし、駆け出すための体制を作る。そしてその男の視線の先に居る何かは片腕を失いながらもその不穏な眼を男に向けていた。
睨み合う二つの影。影の間を静寂が包むが、それは男によって一瞬にして塗り上げられる。
「だがまぁ……俺の勝利は揺らがねぇよ!」
二つの影がほぼ同時に動き出す。片方はナイフを持った大きい影。もう片方は片腕を自ら失った、小さいが不思議な恐怖を感じさせる影。
二つの影がぶつかる。僕はその瞬間、思わず目を瞑ってしまった。だが少しして目を開けると、そこに映った光景はひどく一方的な戦いであった。
川の流れが濁流に飲み込まれるように、誰かの小さな声が大きなサイレンの音にかき消されるように。
小さな影の小さな力が大きな影の大きな力に飲まれる、そんな当たり前の光景。
そう、男はただ何かを蹂躙するだけであった。
小さな影は全身を使い男に渾身の一撃を与えようとする。それはそれぞれが一度でも当たったら骨にヒビが入ってしまう程に力強いものであった。
相手を蹂躙するのであろうそんな猛攻を、男は難なく避ける。上から縦に振り下ろされる拳を体の軸をずらすことによりほんの数㎝のところで避け、足下に薙がれた腕による攻撃も数歩後ろに下がることで避ける。
「ふー、あぶねぇあぶねぇ。けどま、余裕だな」
男は再び笑みを浮かべて何かとの距離を詰める。近づく度に振るわれる一振り、それらを全て難なく避けながら。
まずは一閃。手に持ったナイフで斬りつける。だがその傷は浅い。そして又もや振るわれる小さな影の重い拳。それをも難なく避け、男はまるで踊っているかの様に何かの周りを動き回る。
何かは男の動きに翻弄されながらもひたすらに目標めがけて全力を込めた一撃を何度も振るう。だがその度に軽く避けられ、小さな傷を少しずつ刻まれていく。
「――ぁ、はぁ……」
僕はそんな光景を見て思った。ただただ美しいと。攻撃を軽く避けて、その度に自らの得物を振るう。そんな踊りに僕は目を奪われ思わず口から称賛の溜息を漏らしていた。
男と何かが繰り広げる舞踏会。男が相手をリードする王子なら、何かはただ王子に身を委ね為すが侭にされる姫。この二人には決定的な上下関係がある。そんな風に思わせるほど、この男の戦いは圧倒的であった。
しばらく踊り続けた後に、王女をリードし自らの思い通りに動かす王子は姫に舞踏会の終わりを告げる。
「お前さ、そもそも攻撃が単調なんだよな。大振りでしかも俺が避けるたびに単調さが増していく。もちっと冷静になれよ、そんなんじゃいつまでたっても当たんねぇよ」
男は呆れたような声を上げながら数歩後退し、踊るのを止める。そして目つきを鋭くしこれまでリードしていた相手を睨む。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■」
それをチャンスと見たのか何かはこれまでの中でもとびきりに大きな叫びを上げ、腕を振りかぶり大きく力を溜める。
僕は先ほどまでその叫びに恐怖を覚えていたが、今この叫びには先ほどとは違うそれを感じ取った。それは、恐怖を与える咆哮ではなく、恐怖による怯えた声だった。
そんな怯え声を聞き、なんだか僕は何かを哀れに思った。
そして何かが振るうのは死力の一撃。自分と相手との圧倒的な実力差に怯えた結果、追い詰められた結果に振るう自らの全てを込めた最強の一撃。
全身全霊の力が男を襲う。だが男はそれを避けようとせずに棒立ちでただその拳を見据える。
男の影と何かの影が重なるのであろう次の瞬間、男はゆったりとした動作で、ナイフを持つ右腕を左に振りかぶりそして――振るわれた最強の一撃を殺した。
──実際はほんの一瞬だったのかもしれない。ただ、その行為が、その動作があまりにも目を奪う魅力を孕んでおり僕にはとてつもなくスローな動作に感じられた。
男は何かの腕を切り落とし一歩、足を前へ歩む。そして何かに傷跡を残していく。
一閃。二閃、三閃、四閃、五閃、六閃七閃八閃――
「だから言っただろ。攻撃が単調だって──」
男が言い終わると同時に、何かは霧散し僕の視界から姿を消した。
Another Dream
2nd
少年は暗闇の中を酷い後悔に苛まれながら走っていた。
音も明りもない世界で感じられるのは肌寒い冷気と自らの足音、そして先ほど拾い上げた包丁の重さのみ。
少年に握られている包丁と、肌に張り付く中学校の白シャツは朱色に染まっていた。まるでペンキを缶ごとぶちまけられた様な、誰が見ても思わず凝視してしまう姿。
彼をそんな姿にしたのは無論ペンキではない。それは、鮮血。手に持つ包丁で腹を刺し、噴水のように溢れ出たそれが彼の朱に染めた要因である。
――くそっ! くそ、くそ、くそくそくそ! ちくしょおぉぉぉぉ………ッ
少年は暗闇の中へ足を進める度に、自らの内側から湧き出る不安に耐え切れなくなっていた。そしてそんな不安から逃げるために家への道を駆け抜ける。
自宅まではそう遠くなく、十分かそこらで到着した。
ドアノブに手から血が付着することも考えられずに玄関へ入ると、そこでようやく少年は先ほどまでの息苦しい不安が和らいでいくのを感じた。
息を落ち着かせながら、靴を脱がないまま腰を框へ下ろす。
「はぁ、はぁ……」
少年は改めて手に握られた包丁へと視線を送る。普段から家で愛用している五年物の一般的な包丁――そんな包丁に鮮血を纏わせたのは自分なのだという事実に顔を歪めながら。
すると背後から足音がした。
「おーう、帰ったかぁ、尊」
声のした方を向くとそこにいたのは少年の父であった。
少年は父の事を特別良くは思っていなく、寧ろ苦手であった。それなのに少年は父の姿を見た途端、今まで自分を支えてきた何かがプツリと絶たれた様に、両目から零れる涙を堪えきれなかった。
「お、親父……俺、俺さ……」
框から立ち上がり、父の方を向いた少年は声を震わせながら自らの朱い姿を曝け出す。
「――ッ! おい、尊! お前なんてことを……」
少年の父は先ほど少年の後ろ姿しか見えていなく、その朱い姿に気づいたのはこの瞬間だった。だが、その一瞬だけで自分の息子が一体何をしでかしたのかを理解した。
「俺……人を、殺しちゃったんだ。殺すつもりは無かったんだ。でも、気づいたら……」
少年は自らの犯した罪を涙ながらに訴える。許しが欲しい、慰めてほしい、そんな父の愛に縋ることしか今は出来なかった。
「うるさい! よくもやってくれたな、この屑! お前のせいで俺の身に何かあったらどうするんだ!」
――しかし、少年を包んだのは愛でも優しさでもなく、激しい怒号と一振りの拳であった。
愛を求める少年に対し、父は暴力で応えた。
少年は暴力を受けながらも痛みによる苦痛とは別に、自分の中に一つの矛盾を見つける。
「そんな……親父、なんでだよ! 俺、親父の言う通りにしただけなのに……」
「何だと、俺がいつお前に人を殺せなんて言った!? おい!」
「で、でも親父の言う通りにしたらこうなっちゃったんだよ! なぁ親父、俺どうすればいい? 俺、どうすればいいのかな?」
少年のぶつける矛盾に父は応じない。応じずに少年に対し、人を殺めた事――いや、ミスを犯した事を責めるのみ。
それでも少年は親に縋るしかなくただひたすらに助けを求める。
「……知るか! お前は大きなミスを犯した。もうお前はこの家に要らない。お前が居るだけでこっちが迷惑するんだよ! とっとと出ていけぇッ!」
父は少年に拳を再び振るう。それは叱咤の拳ではなく絶交の証。この男からしたら、今殴った相手はこの瞬間から息子ではなくただの他人になったのだ。
振るわれた拳によってドアに背中をぶつけた少年は、父との関係の亀裂を感じて俯く。
少年にとって父の言う事は全てだった。父の命令に従わなければ罰せられ、罵られた。それが嫌で少年は命令に従い、気づけば父の命令に背くことすら忘れていた。普通ならこのような関係は親子とは呼べないだろうが、この二人は明確な主従関係によって確かに親子としての繋がりを持っていた。保てていたのだ。
それなのにたった今この瞬間、この関係は崩れた。父の言う通りに動き、その結果人を殺めてしまっただけであるのに父は少年の事を他人とみなした。少年はこの拳に込められた理由を理解することはできなかった。だが、お前はもう家族じゃない、という意図だけは何故か理解してしまった。できてしまったのだ。
母が死んだ時から少年の命はほぼ父のものとなっていた。少年は自らの全てを捧げ、生きてきた。その父に否定された。拒絶された。それは少年にとってはもはや生きる意味、存在価値を失くす事と同然である。
そんな少年が抱いた感情は、悲しみなどというものではなく、静かな怒りだった。
自らの存在する意味を見いだせなくなった少年は、その事実に悲観するのではなく、父――今では他人の存在だが――に対する怒りを持ち、反抗することでしか自分が今ここに生きていると感じられなかった。それが彼の精一杯だった。
「もう、いいよ」
少年は自分の運命を諦めたかの様に呟き、そしてゆっくりと起き上る。目線を上にあげ、その眼光に晒されるのは父。
「結局親父は俺の事なんてなんとも思ってなかったんだね」
淡々と何の感情も感じられない声を少年は父に突きつける。
冷たい言葉を言い放った次に右手に力を込める。手に握られた包丁は抑えきれない怒りを受けわなわな震えるだけであった。
少年の只ならぬ雰囲気に加え、その手に握られた包丁を再認識した父は、これから目の前に居る息子だった誰かが何をするのか理解をした。
「お、おお、お前! 何をする気だ! お前は道具なんかじゃない、れっきとした俺の息子だ! なぁ、そんな父親を傷つけるのかお前は?」
父は声を震わせながらじりじりと後ろへ下がり少年との距離をとる。
だが少年はそうはさせない。空いた距離を父と同じく一歩ずつ進み距離を詰めていく。
少年が一歩進むたびに父は焦燥感と恐怖に駆られていた。段々と感じる死の気配、それらに心の居場所を奪われた彼はもう泣くしかできなかった。
「アァッ!」
背後の段差に足を引っかけ尻餅をつく。彼は必死に起き上ろうとするが中々起き上れずに再び尻餅をつく。恐怖の念により体が震え、思うように体が動かなかったのだ。それほどまでに彼は追い詰められていた。
だが少年は無表情のまま近づいてくる。先ほどまでは父に殴られ、明らかに怯えていた様子の彼だったが今では逆に父に恐怖を与えていた。
全身が震えあがり、後ろにも前にも進めない父は少年に最後の懇願をする。
「尊、す、すまん! 俺が悪かったんだ、母さんが居なくなってからお前にばっかり苦労させて、本当にすまなかった! だからもうやめてくれ、頼む、頼むよォォ!」
絶望の淵に立たされた父は泣き叫びながら懇願する。死にたくない、殺さないでくれと。
それでも少年は無表情のまま近寄っていき――
「もう……いい」
本日二度目の殺人を犯した。
The 2nd Dream
Awaker
なんだか、胸が苦しい。
心臓が脈打ち、汗が体中を濡らすのを感じる。
息が苦しい。体が酸素を求めて悲鳴をあげる。
早く呼吸をしなければ、水面から口を出し大きく息を吸わなければ。
この体を支える糸が切れてしまわないうちに、早く。早く。早く。
「――ッ!?」
意識が海底から引き揚げられる。そしてまず行った行為は呼吸。
体を起こし、しばらく息を整える。数十秒が経ち、やっと僕は冷静な思考を取り戻した。
「夢、か」
目に映る風景はいつもの自室。僕は先ほどまでの体験が夢であった事を理解する。
「それにしても今の夢、リアルだったな……」
あの何かと対峙した時の悪寒、歩み寄る死の感覚。そして夢の中で僕を救ってくれた男の容姿からなにまで、全てが夢とは思えない程鮮明に僕の記憶に刻まれている。
夢であったはずなのに何故か夢とは思えない記憶に疑問を抱きながらも、僕はベッドの横にある置き時計へ視線を投げる。
時計が示す時刻は午後一時三十分。学校どころか、昼食にも間に合わない時刻だ。
学校は遅刻確定。本来なら慌てて支度をして今すぐに家を出るのだろうが、ここまで遅い時間に目が覚めると逆に笑えてきた。
「ふぅ、今日は学校、サボろう」
***
「いってきます」
僕は玄関のドアを開け、家を出る。
午後一時三十分に目を覚ました僕は、学校をサボって身支度を整えた後、まずは遅めの昼食をとろうと商店街へ買い物に行くところだった。
家を出ると朝の全身を包む柔らかな日差しとは違い、昼過ぎの身を焼くような暑さを感じさせる日差しが僕を照らす。汗を拭いながら僕は夢の中で体験した事を思い出す。
目覚めた時から思っていたが、やはりあの死の感覚は夢で見たものとは思えない。逃げながら感じた背中を流れる冷や汗の感覚が今でもこの体に残っているのだ。