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翌朝。
公園のど真ん中――地下のメルヘンアジトの真上には、片足をパタパタしている大層ご立腹の小学生がいた。
昨日のジャージ姿とは違って、随分と可愛らしい服装をしている。
「O! S! O! I!」
「?」
「お・そ・い!!」
「……遅くはないだろ」
時刻は午前十時丁度。もっと細かく言えば九時五十九分だ。
おまけに今日は、昨日と打って変わって土砂降りの雨で、外に出るのが億劫だった。
これから好き勝手命令されるというのに、一方的に突き付けられた時間を守った俺は相当なお人好しだと思う。
録音データって弱みがなければ絶対に来なかったけど。
「こういうときは三十分前に来て待ってるもんでしょ」
「何処の常識だよそれ。デートだって十分前で充分だろ。つーか……お前三十分前に来てたの?」
「お前じゃなくて汀子って呼ぶ! ……当然来てたけど?」
「マジで三十分前? どんだけ俺に命令するの楽しみにしてたんだよ」
この子、一体俺に何をさせるつもりなんだ。
遠足の前の日よろしく、俺に下す命令をニヤニヤと考えて、待ちきれずに早く来たんだとしたら……こ、怖すぎる。
「さ、早くアジトに入って! ゆーねはもう中にいるんだから」
「はいはい」
渋々カモフラージュのシートを外し、重厚な蓋を開ける。
続けて傘を閉じて梯子に足をかけようとすると、
「ちょっと。レディファーストって言葉知らないの?」
「お前――、汀子はレディじゃなくてガールだろ」
「はん、これだから男子は」
男子て。
高校生男子ではあるけど……なんか引っ掛かる言い方だな。
「もしかして、仲悪いのか? クラスの男子と女子」
「悪いわね。すこぶる悪いわね。男子とか、死ねば良いと思う」
「でも好きな男子はいるんだろ?」
「ケイスケ君は特別!」
梯子をスルスルと下りる汀子から、力強い答えが返ってきた。
好きな人の名前はケイスケ君というらしい。
このアジトにしても女子全員で作った訳だから……相当結束は固そうだ。
本格的に男子と女子が対立してるんだとしたら、恋愛もし辛いだろうな。
あ……もしかして、あの男の子はその辺を危惧して断ったのか?
一人だけ女子と仲良くなんてしたら、確実にひんしゅくを買うだろうし。
「開けっ放しにしてると雨が入ってきちゃうでしょ!!」
「あ、ああ。ごめん」
慌てて蓋を閉めると、アジト内は一気に暗くなった。
下の方はキャンドルのお陰かボンヤリと光っている。
あれ? これだとシートを被せられないぞ。
そういえば、昨日は蓋を閉めるどころか開けっ放しだったし……案外、周囲の大人は黙認してるのかも。
梯子を下りきってメルヘン空間に入る。
そこには遊音だけでなく自称悪の味方のミラクルもいた。
キャンドルの置かれたちゃぶ台を二人で囲んで、大量のスナック菓子を摘んでいる。
「ほら、ここ座る!」
汀子がポンポンとカーペットを叩く。
情けないことこの上ないが、俺は言われた通りに汀子の正面にあぐらを掻いた。
「素直でよろしい」
「何でも良いから早く終わらせてくれ……」
「え? 今日だけで終わると思ってるの?」
「そこまで楽観視してないさ。でもこれだけは言っておくぞ」
「な、何よ」
「俺は一年前、汀子と同じくらいの歳のクソガキ共に、昨日みたいな悪戯を仕掛けられたことがあってな。そのときから子供に対する怨みが消えないんだよ」
「……」
「お前等の悪戯の度が過ぎると、俺の理性が保てなくなるかもしれない。だから」
一呼吸置いて、俺は重々しく続けた。
「あんまり調子に乗るなよ」
「そ、そんなマジになんなくても良いじゃん!」
「保険だよ。無理な命令をされないように」
ふぅ……子供相手に真顔で脅しをかけるってのは罪悪感を感じるもんだな。
俺だってこんなこと言いたくないさ。
でも昨日一晩考えて、決めた。
俺は子供を信じることができない。
けど少なくとも、汀子達は一年前俺を嵌めたようなクソガキ共とは違う。
悪意に満ち溢れていたあいつらとは違うんだ。
真剣になって話せば、きっと分かってくれる。
正直、危ない賭けだった。
ここで録音データを持ち出して反論してくるようなら色々終わってたよ。
「……」
汀子はすっかり元気を無くしていた。
これで録音データを消してくれるならいいが、そこまで簡単じゃない。
切り出すのは、一つか二つ命令を聞いてあげて満足させてからだ。
「命令しなくて良いのか?」
「だって、怒るもん」
「試しに言ってみ」
「……おにーさんの携帯見たい」
「何だそんなことか」
「え!? 良いの!? 隅から隅まで見て良いの!?」
「ほら」
ポケットに手を突っ込んで、数年使っている携帯を手渡す。
メール履歴は受信、送信メール共に消してあるし、子供の教育に良くない動画像の類いもない。
食い付くとしたらメモリーくらいか。
「今時ガラケーとか!!」
「食い付くのそこかよ! ……良いだろ別に。使いやすいし、スマホなんて買ってもほとんどの機能は使わないんだから」
「「「ふむふむ……」」」
スナック菓子に舌鼓を打っていた二人までが、俺の携帯電話に興味を示していた。
そんなに期待されても困るぞ。
「なんか、やたらとメモリー多くない?」
「ああ……それはほら、携帯買った直後って手当たり次第に番号聞きたくなるだろ? 俺が買ったときはクラス中、学年中がそんな感じでさ。それがそのまま残ってるんだ」
「ってことはこの大量の女の子の名前は登録してあるだけなんだ。ぷっ、恥ずかしー」
「なっ――。べ、別に見栄とかで残してあるわけじゃ」
「なら何で着信履歴とかは消してあるの~?」
「うっ」
いや、本当に深い意味はないんだって!
ただ、メモリーは万が一誰かに見られてもどうってことないから放置してただけで。
同窓会のお誘いとかで電話が掛かってくる可能性だってあるし、かといっていちいち番号が変わってないか電話するのも面倒だしさ。
「その様子だと、彼女もいないっぽいね。あははっ」
「……聞き捨てならないな」
俺はユラリと立ち上がった。
「今時の男子高校生に、彼女の一人や二人、いないわけないだろ?」
「そうね……彼女いるんだよね……」
「脳内彼女と決めつけて哀れむんじゃねぇよ!! 本当にいるの!」
「またまた~」
「嘘を吐くのは悪として正しいし、良いと思うよ? 冤罪のおにーさん」
「確かに、彼女くらいいないと箔も付きませんしね。虚勢を張る気持ちも分かります」
「こ、このガキ共……!!」
俺はいいようのない怒りを込めて拳を握り締めた。
何だよ。
そんなに俺に彼女がいるのがおかしいのかよ。
……まあ、彼女いるのが当たり前みたいに言ったのは調子に乗った。謝る。
何せ、つい二週間前まではいなかったからな。
夏休み前、部活仲間に転校のことを話したら、その部活仲間の妹に突然告白されたんだ。二、三回しか顔会わせたことなかったのにだ。
これから転校してしまう俺は、付き合ってもろくに会えない。
そうなると恋人らしいことも何一つできないわけで、断ろうと思ったんだけど……結局は『彼女ができる』って魅力に負けて、遠距離恋愛の難しさを承知の上で恋人同士になった。
ちなみに相手は一個下の中学三年生だ。
そういえばこの町に来てからは一度も連絡取ってないな。
色々あって彼女のこと考える余裕がなかった。
今日辺り、無事に着いた旨を報告してみるか。
「そんなに言うなら、どれが彼女の名前なのか教えてよ」
「その手には乗らん。お前、マジで電話して確かめるつもりだろ」
「電話されたら困るってことは、やっぱり嘘なんじゃん!」
「彼氏の番号から見知らぬ女子小学生の声が聞こえてきたら、誰だって不審に思うだろうが!! 俺はそういう疑いをかけられるだけで虫唾が走るんだよ!」
「おにーさんはその辺気にしすぎなんだよねー……お?」
そのとき、俺の携帯に着信があった。
意図的に着信音を変えているのは、俺の携帯に登録してあるメモリーの中で、たった一人だけ。
つまり、彼女からだ。
「「「「……」」」」
携帯を手にしている汀子も、流石に出ようとはしなかった。
しかし、俺の焦りを敏感に感じ取った遊音が最悪の一言を呟いてしまう。
「もしかして、彼女からですか?」
「「!!」」
咄嗟に手を伸ばしたが、少し指を動かすだけで通話ボタンを押すことができる汀子には追いつかない。
更に、今回は他の二人までが汀子の行動に乗り気で、両腕をガッチリと固められてしまった。
「もしもーし! どちら様ですか~? アタシ、転寝汀子って言いまーす」
「おい! 何ナチュラルに受け答えし――モガガ!」
あろうことか、二人は片腕で俺の脇を固めたまま、もう片方の腕を使って口まで封じてきた。
これでは呼吸もままならない。
体裁を考えなければ、脱出する方法はいくらでもある。
掌を舐めるとか、噛みつくとかな。
でもそれをやったら俺はただのセクハラ野郎だ。
ロリコンと言われないために、疑いをかけられるような行いだけはできない。
「誰って、今名前言ったじゃん! ……歳? 十歳だけど、何か文句ある?」
「モガガガガガ!!」
「あれ? もしもし? もしもーし? ……切れちゃった」
通話が切れたと同時に解放された俺は、すぐさま汀子の手から携帯を取り返してリダイヤルした。
会話内容は汀子の台詞だけで予測できる。
いきなり女の声がしたから、あなたは何処の誰で何歳なのか、と彼女が質問した。
そして汀子は十歳と答えた。
結果、通話が切れた。
甚大な誤解を生んでいる可能性、大。
俺に特殊な性癖がある――それだけの誤解ならまだいい。
俺が恐れているのは、小学生と浮気していると誤解されて、それを口外されることだ。
二次被害どころの騒ぎじゃない。
「……出ない」
「彼女さんご立腹だー」
「くそ! もう一回……」
再びリダイヤルするが、今度聞こえてきたのはコール音ではなかった。
『おかけになった電話番号への通話は、お客様のご希望によりお繋ぎできません』
「おかけになった電話番号への通話は、お客様のご希望によりお繋ぎできません……ってどういうことだと思う?」
「電源切ったんじゃないの?」
「悪に彼女なんていらないし、良かったと思うよ?」
間違った答えとお馬鹿な答えに続いて、冷たい答えが返ってきた。
「普通に、『着信拒否』では?」
「対応速すぎるだろちくしょおおおおおおおおお!!」
俺は無様にも、ピンクのカーペットの上に四つん這いになって絶望した。
彼女持ち。
それは男子高校生にとって一つのステータスだ。
別に彼女をブランド物にしている訳ではなく、ただ彼女がいるだけで心に余裕ができるものなのだ。
それを失った俺は、小学生に弱みを握られた男子高校生という、何とも情けない肩書きになってしまった。
「えーっと……ご、ごめんね?」
俺の落ち込みっぷりを見て罪悪感を感じたのか、汀子が無用な慰めをしてきた。
もしくは、俺を本気で怒らせてしまったと恐れを抱いたのかもしれない。
「もう良い……もう良いんだ……」
悪いのがこいつ等であることは揺るぎない事実だけど、あのタイミングで電話が掛かってくる俺の運の悪さも相当だ。
その点についても、昨日到着した時点で報告の電話を入れておけばこんなことにはならなかった。
というか、何でここ電波届くんだよ……。
「あ、アタシが付き合ってあげよっか?」
「大人相手にその手の冗談はやめておけ。身を滅ぼすぞ」
「じゃ、じゃあ……アタシの家、来る?」
「だからその手の冗談は」
「そうじゃなくて! もうすぐお昼だし、ご馳走してあげる」
「……まさかそれでチャラにできると思ってないよな?」
「え、足りないの? 女の子の手料理だよ?」
女の子の手料理と、小学生の手料理とでは随分違うんだが。
プロの料理人顔負けの実力を持ったスーパー小学生をテレビで見たことがあるけど、そんな逸材は一握りのはず。
大体、汀子は料理なんてするガラじゃない。
「あのなぁ……。汀子も好きな男がいるなら少しは理解できるだろ。恋人同士になったばかりなのに、それを子供の悪戯でぶち壊されて、昼食一食で怒りが収まるか?」
「一緒にしないで! アタシは彼氏の携帯から別の女の声が聞こえてきても、浮気なんて決めつけないもん。彼女さん、おにーさんに思い入れなかったんじゃないの?」
「む……」
小学生に論破されてしまった。
確かに……よくよく考えてみれば、信じるという選択肢だって彼女にはあったじゃないか。
それを確認も取らずにいきなり着信拒否というのは、些か過剰な気もする。
浮気男、死すべし――なんて女の子だとしても、決定的な証拠を掴んだ訳じゃないんだ。
俺は告白された側だし、大して思い入れがなかったとは考えたくないけど。
それとも、本当に何とも思ってなくて、俺に見切りを付けて次の男にターゲットを絞ったのかな。
今時の女の子にとって、恋人ができるなんて珍しいことじゃなくて……。
「浮かれてたのは俺だけだったのか……」
ズーン、と効果音が聞こえてきそうなくらいに気持ちが沈んだ。
「げ、元気出して! アタシの家すぐ近くだから! ほら、早く立って! ゆーねもミラクルも手伝ってよ!」
「手の掛かる人だな~」
「仕方ありませんね」
小学生三人掛かりで俺の体は無理矢理起こされた。
しかし、体だけ地面に立っても俺の気持ちは沈んだままな訳で。
「なんかもう、散々だ……」