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二階はほぼワンルームとなっていて、一階よりも趣味的な物が目に付く。
きっとこの部屋が家主の私室なのだろう。
掃除機をかけるくらいで全く活用していないため、未だに他人の家のような居心地の悪さが残っている。
隣にある衣装室には大量の服が立て掛けてあるんだけど、もしかしてここの家主はモデルでもやってたんだろうか。
「……そういえばさ。最近遊音、ゲームやってないよな。初めて会ったときは一心不乱にのめり込んでたのに」
「家では遊んでますよ? ただ、持ち歩いてまで遊ばなくなっただけです」
「ふーん……なんで?」
「もっと面白い遊びが見つかりましたから」
それが何なのかまで聞く勇気はなかった。
灰色のクッションを床に置いた遊音は、その上に腰を下ろしてランドセルから色々と取り出した。
その中には、先程俺が思案していたメトロノームもあった。
言うまでもなく遊音は試行錯誤して頑張っていたんだ。
「これは……リコーダーの教則本? こんなのまで売ってるんだな」
「リコーダーも立派な楽器の一つですから」
「そりゃまあ、そうなんだけども」
ギターやベース、ドラムといった、主にバンドで使う楽器以外にも様々な楽器があって、その一つ一つにプロがいることは分かる。
でもリコーダーって、学校の授業以外で使ってるの見たことなくね?
同じ管楽器でもピッコロとかフルートの方がメジャーな気がする。
「む。こっちは手書きの楽譜のコピー?」
「それが課題なんです」
「教科書に載ってる有名な曲じゃなくて、先生のオリジナルなのか?」
「はい」
「そりゃまた、珍しい」
こういうのは無難な曲を選ぶのが通例じゃないか? 自己主張の強い先生だな。
楽譜を見て小さく溜息を吐く。
多分、このやたらと音符の少ないスカスカのパートが遊音の担当だろうけど、普通に授業で習っていれば初見でできそうなほど簡単だった。
驚くなかれ、なんと二分音符と全音符しかない。
「まずは吹いてみてくれ。実際に聴いてみないことには始まらないし」
「わ、分かりました。では――」
遊音がいつになく気合いの入った顔つきでリコーダーを口に付ける。
直後。
ピュィー!! と、鳥の鳴き声のような音が二階全体に響き渡った。
途端に遊音の顔が赤くなっていく。
目には涙まで浮かんでいた。
これは、あれだな。
管楽器が吹けない人の典型的なパターンだ。
「なあ、遊音。肺活量を測るんじゃないんだから、もう少し力を抜いてみろよ。リコーダーもそんなに深く咥えないで、口元に添えるぐらいにして」
「そうは言われても……緊張してしまって」
「むぅ」
見知らぬ男子高校生相手に、自ら恥を晒す――力が入って当然か。
子供って、年上相手だと何かと虚勢を張りたがるもんだし。
俺も年上のお姉さんを前にしたら、いつもより大人びた態度を取りたくなる。
「何か面白いことをしてくれると助かります」
「俺にその手の期待を寄せるのは無茶ってもんだぞ。ユーモアのセンスはゼロだ」
「では、繭さんの何処に惚れたのか教えて下さい」
「おい、話が飛んだぞ」
「顔ですか? それとも体ですか?」
「か、体? ……まあ、見た目も好きになった要因の一つだけど。後は纏ってる雰囲気っていうか……ミステリアスな感じに惹かれたのかもな。もっと繭のことを知ってみたくなって――って俺は小学生に何を話してるんだ……」
「おにいさんの恥ずかしい話を聞いて、いくらか緊張がほぐれました」
遊音を見ると、確かに先程までの強張った表情は薄れていた。
俺の恥ずかしトークが、人前でリコーダーの腕前を披露するという遊音の恥を上回った結果なのだろうが……なんか釈然としねぇ!
「気を取り直して」
再び遊音がリコーダーに口を付ける。
俺のアドバイス通りに浅く咥え込み、心なしか力も抜けている。
そして――リコーダーの音色は、とても綺麗な音を奏でた。
「あ……」
「な? 簡単だったろ。後はその力加減のまま、最後まで吹けるようにすればいい」
「は、はい。……ではお手本をお願いします」
「は?」
「私が吹いても自然とずれてしまうので、おにいさんのお手本を聴いて何処が問題なのか見極めたいんです」
「あー……分かった。じゃあ、ちょっと待っててくれ」
俺は立ち上がって部屋を出ようとしたが、
「何処に行くんですか」
「見せるにはリコーダーが必要だろ。生憎中学でソプラノリコーダーは使わなかったからアルトリコーダーしかないけど、重要なのはテンポだしな」
「リコーダーならここにあるじゃないですか」
「いや……うん、いや……」
「遠慮しないで下さい」
今さっき遊音が吹いていたソプラノリコーダーの先端が、グイッと俺に突き付けられる。
遠慮とかそういう問題じゃなくて。
間接キスとかの話でもなくて。
単純に、嫌じゃね? 他人のリコーダー吹くなんて。
購入したばかりの飲み物を回し飲みするのとは訳が違う。
何せリコーダーは、何度も何度も使っているから色々と染みこんでいる。
誓って俺は潔癖症ではないし、今回はミソペディアも関係ない。
それでも、嫌な物は嫌だ!
「待て……一先ず凶器を下ろせ。冷静に話し合おうじゃないか」
「ちゃんと拭きましたよ?」
「遊音は抵抗ないのか? 俺だったら、自分のを吹かれるのもゾッとするんだけど」
「特には」
「変わってるって絶対! とにかく、俺は断固拒否する」
「では仕方がありませんね。できればこの手は使いたくなかったのですが」
遊音はそう言って、胸元に手を突っ込んだ。
取り出したるは、種も仕掛けもないスマートフォン。
液晶画面に遊音が触れる。
『……まあ、見た目も好きになった要因の一つだけど。後は纏ってる雰囲気っていうか……ミステリアスな感じに惹かれたのかもな。もっと繭のことを知ってみたくなって』
そこで音声は途切れた。
うん。
滅茶苦茶絶妙な所で途切れたね。
「遊音はそういうことしないって信じてたのに……っ」
くそぉ……あの突然の話題変更はそういうことだった訳か……!
汀子といい遊音といい、録音の仕方がやけに手慣れてるのはどういうことなんだ。いつの間にスマホを操作したんだよ。
動機に関しても全く理解できない。
なんで自分のリコーダーを吹かせるためにこんなことをするんだ。
「そうまでして自分のリコーダーを吹かせる意味があるのか……?」
「――じゃないですか」
「?」
「……おにいさんが一階に下りてリコーダーを持ち出したら、私が苦戦していると二人に悟られてしまうじゃないですか」
遊音は口を尖らせて、少し恥ずかしそうに言う。今日は本当に表情豊かだな。
しかし遊音の心配は今更過ぎるぞ。
音楽が苦手なことは周知の事実のようだし。
「二人の目がそこまで気になるなら遊音一人で来れば良かったのに。宿題だけ二人に貸してさ」
「流石にそれは、身の危険を感じます」
「アジトに降りたときのことを考えると今更な気もするけど……その警戒心は大切だな。良いことだ」
相手にその気があってもなくても、遊音のように疑ってかかることは身を守る術として有効だ。
ミラクルも見習って欲しい。
「分かったよ。一度しか吹かないからな」
「それでは覚えられないです」
「脅迫以外の使い道を考えてくれ」
「あっ……録音機能ですか」
「そうだよ。ほら、早く準備しろ」
あぐらを掻いて遊音のリコーダーを受け取り、指の感触を確かめる。
ずっとアルトリコーダーしか吹いてなかったからか、やたらと小さく感じる。
俺の指が太くなったってのもあるか。
ソプラノリコーダーを持つのは小学生以来だし。
「……、」
いざリコーダーの先端を見つめると、異常な程脂汗が出て来た。
これ……今この瞬間だけ見られたら俺の人生は終わるんじゃ?
「準備できました」
「わ、分かった。……行くぞ」
ゴクリ、と唾を飲み込む。
いつタイミング良く汀子達が乗り込んでくるか分からない。
一刻も早くこの責務を全うせねば……!!
大きく息を吸って、申し訳程度にそっと口を付ける。
一度口を付けてしまえば、後は楽だった。
指の抑え方が多少ぎこちなくなってしまったが、音の方は問題なく出ている。遊音のお手本としては充分だ。
「~~……と、こんな感じかな」
「……」
「ど、どうかしたか?」
まさか、今になって気持ち悪いと言い出すんじゃなかろうな!?
遊音が敵になったら、俺は何を言っても犯罪者になってしまうぞ!
「あ、新しいリコーダー買ってあげるからどうか……」
「初見でできてしまうほど簡単なんですね……私のパートは」
「え? ああ、そっちか。そっちね」
お手本を見せてと言うから見せたのに、遊音のテンションは急降下していた。
しまったな。
目の前で上手な演奏を聴かされれば、自然と自分の不甲斐なさを痛感する。
それがプロならまだしも、俺はごくごく平凡な男子高校生だ。
「そんなショック受けなくても良いだろ。俺は遊音よりも五つ? くらい歳離れてるんだからさ。中学の三年間でアルトリコーダーを習ってたからできただけだよ」
「成る程……では、今後の成長に期待しておきます」
成長に期待て。
発育と違って、技術は努力しないと身につかないぞ。
ま、その努力も現状報われていないらしいし、そういう考え方に行き着くのは仕方ないか。
「それと、今録った俺の演奏は参考程度にとどめておけよ」
「じゃあ何のために録ったんですか」
「実際に三人で合わせるときはテンポが変わるかもしれないだろ。そのときに一定のテンポでしか吹けないんじゃ意味が無い。あくまで、音符の間を把握するためのものと割り切ってくれ」
俺は再び立ち上がり一階に下りようとしたが、その前にニュッと伸びた遊音の手に裾を掴まれてしまった。
「どうしててー子達の所に行こうとするんですか。おにいさんも匙を投げた、などと思われるのはごめんです」
「その辺は説明するだけで解決するじゃん……。そうじゃなくて、練習するところって見られたくないだろ。下手な演奏を延々聴かれるの、嫌じゃないのか?」
つい下手と言ってしまったが、こればっかりは遊音だって賛同するはず。
努力している過程は、人に見られたくないものだ。
確たる結果を残した後、実はこんなに努力してたんだ! と人づてに知ってもらうのがベストである。
「……おにいさんは特別です」
「へ?」
な、なんだその、一個下二個下くらいの後輩に言われたらとても甘美であろう台詞は。
「おにいさんには知られていますから」
「汀子もミラクルも知ってるじゃん」
「違うんです。あの二人は、私のことを『本気になれば何でもできる凄い友達』だと思い込んでる。いつもそうなんです。学校の成績もテレビゲームの腕前も、二人の期待に応えるために努力した結果なんです」
「……」
「でも、音楽だけは本当にどうしようもなくて……。それでも二人は、私が本気を出してないだけだって言って、期待を寄せてくれる。私……二人に失望されたくないです」
過度な期待は禁物だ。
何故ならそれは過度なプレッシャーを与えることと同義であり、人はいつだって期待以上の物を求めているから。
ときにはオリンピックの代表選手だって押し潰されてしまうものを……遊音はずっと背負い続けてきたんだ。
オリンピック選手と比べるのは大げさかもしれないけど、遊音が背負っているのは名前も知らない不特定多数からのプレッシャーではなく、近しい友人からのプレッシャーだ。
別に、期待を寄せる汀子達が悪いわけじゃない。
何というか、遊音ってそういう雰囲気を纏ってるんだよ。
会ったばかりの俺でさえ何でもできそうとか思ってしまったし。
「……遊音の気持ちは分かったよ。けど実際、俺が傍に居たところで何のメリットがあるんだ? 一人で黙々と練習する方が効果的だと思うぞ」
「傍に居てほしいんです」
「――くぅっ」
なんで遊音は小学生なんだ……いや、小学生で良かったのか。
「できれば、手取り足取り教えてほしいです」
「ソプラノリコーダーを手取り足取り……?」
持っているリコーダーを見て、軽く想像してみる。
こんなチマチマした楽器を手取り足取り――
いかん。
某映画のろくろの名シーンばりに卑猥だ。
「なるようになります」
「ならねーよ!!」
シリアスな空気はあっという間に吹っ飛んでしまった。
遊音の話はミラクルの遊びに付き合ったときの俺の気持ちに近いものがあったから、結構真面目に聞いていたのに。
「録った録音データを再生しつつ吹いてれば、自然と上手くなれるって。後は三人で合同練習の繰り返し。それで何とかなるよ」
「……致し方ありませんね」
あ――デジャブ?
「素直に従えば良し。背くのであれば先程の録音データをてー子達に転送しますがよろしいですか? 繭さんの携帯にも送ってしまうかもしれません」
「~~っ!!」
ミラクルよりも、遊音の方がよっぽど悪役に相応しいじゃねーか!
「……リコーダー洗ってくる」
「いえ、平気です」
「俺が平気じゃないの!」
「そうではなくて。私のリコーダーは別にありますから」
そう言った遊音の手元には、確かにソプラノリコーダーが。
「手品かよ!! てかいつの間に!?」
「おにいさんが吹いたリコーダーは新品ですのでご安心を」
「……遊音、もう一度聞くぞ。自分のリコーダーを他人に吹かれることについて、他人のリコーダーを自分が吹くことについて……どう思う?」
俺の問いに、遊音はジト目でこう答えた。
「虫唾が走ります」
「同意見だよ!!」
何この敗北感。
最初から俺は遊音の掌の上で踊らされていたのか。
結局その日は遊音の練習に付きっきりとなった。
昼食に頼んだピザが届いた頃には汀子達の宿題の写しも終わり、そこからは三人で合わせる練習を続けた。
俺? 当然、傍でずっと聴いてたさ。
立ち上がろうとする度にスマホをちらつかされては、自由に行動することもできやしない。
明日も来る気満々みたいだし、これはなんとかしないとな。