破れ傘 ~剣客・本多藤九郎~
藤九郎は小雨の降りしきる巣鴨の田舎景色を眺めながら、縁側で煙草をたしなむのが最近のお気に入りであった。剣の修行に明け暮れ諸国を放浪していた時分も、こうした天気のときは居候していた寺や庄屋の家の縁側でこうしてごろりと横たわり、煙管をふかすことがあった。諸国漫遊の折は藤九郎もまだ若く、剣への情熱にその身を燃やすことに頭がいっぱいであったから、この縁側の煙管の良さが身にしみなかったともいえる。
「あれ、またこの九郎先生はごろごろとなすって!でかいのがこんなところにいたら邪魔じゃございませんか!」
縁側を掃き掃除していたおかねにそう軽口を叩かれ、藤九郎は笑ってその身を起こした。
このおかねはこの家の主・お雪の乳母だったもので、大きくなった自分の息子を大工の棟梁に預けるとそれまで通いだったのをやめ、お雪の家に住み込んで甲斐甲斐しく世話を焼いている。
お雪は両国の呉服問屋金沢屋惣兵衛の姪にあたり、今は隠居している伝兵衛翁の可愛い孫娘であった。お雪の母・お弓はさる大名の江戸屋敷にて奉公をしていた折、殿様の手がつき、生まれたのがお雪であった。
実家に下がったお弓はお雪を生むとそのまま亡くなり、お雪はおかねの乳によって育てられた。手をつけた殿様もそれは嘆き、お弓のために十分な葬儀をするよう家老に申し付け、お雪のことは今も大層気にかけている。
「おかね、先生はそうしてらっしゃるときが一番に幸せなのよ。叱らないであげて」
お雪はその手に持った針と布を、極めてゆっくりゆっくりと動かした。
お雪は目が不自由なのである。お雪が十の時に酷い高熱が出て、それからじっくりじっくりと見えなくなっていったという。お雪は尼になりたいと言ったが、うら若いお雪を不憫に思った金沢屋の者たちとお雪の父親は頑として尼になるのを許さず、この巣鴨の田舎でのんびりと暮らしている。
父親やその家臣、金沢屋連中はお雪をどこぞに嫁がせたいと思っているようだが、目が見えないお雪は自分が炊事の采配やその他のこと一切をできないの重々わかっており、嫁などとんでもないと思っているようだった。
「お雪どのは何をしている時が一番幸せかね?」
藤九郎が尋ねると、お雪は少し考えたのちに
「色んな方の話を聞く時でございます」
と、答えた。
「ほう」
「先生の諸国のお話や、金沢屋の叔父の着物のお話、伝兵衛おじいさまの道楽のお話、おかねの息子の粂吉さんの話、お殿様が江戸にいらした時にお聞かせくださるご領地のお話…どれも私には楽しい話ばかりです」
「そうか」
「最近では近所のお百姓のみなさんや、本源寺のご住職も私にお話をしに来てくださるのが嬉しいです」
「みんな、お雪どのには甘いようだな」
藤九郎はそう言うと満足げにうんうんと頷いた。お雪の飾らない人柄と、その清楚で美しい姿にこのあたりの百姓は『巣鴨のお姫様』と呼んで何かにつけて野菜や川で採れたものを届けてくれる。お雪がその度に恐縮するので、みんな余計に喜んで世話を焼きたがるのだ。
「でもこう降り続いては一向に出掛けられませんね」
「何か用事でも?」
「お殿様が先生と一緒に深川の蔵屋敷まで顔を出すように仰せだと、昨日村井様の使いの方が」
「昨日?俺が本源寺に行ってる時か」
「はい」
「油断も隙もないことよ…。どうせ殿とお雪どのが話している間に道場に顔を出せというのだろう」
「稽古してさしあげればいいではありませんか」
「…俺の剣は人に教えるには向かぬ。人の道とは遠い剣さ」
「…」
「ま、俺はぶらぶらしていよう。久しぶりに両国に行って御用聞きの伊助と会うのもよい」
「両国?ではおじいさまに届け物をお願いできますか?」
「おう。何をかね?」
「鶴屋の飴を。最近喉の調子がよくないとぼやいておりましたので」
「わかった。届けよう」
「ありがとうございます」
お雪が礼を述べると藤九郎は満足げに相槌を打って、また煙管をくゆらせた。
藤九郎の本名を本多藤九郎。ある武家に生まれたが幼い頃から剣の道にしか興味がなく、次男であったことから程なくして実家を出奔。諸国を渡り歩いて剣の修行をしていた。
食うに困って流れついた巣鴨でお雪の難儀を助けたのが縁で、両国の金沢屋の用心棒として雇われたのである。藤九郎の人柄や腕前に惚れ込んだ金沢屋の隠居・伝兵衛翁がお雪の用心棒になって欲しいと懇願。藤九郎はお雪と一緒に暮らすこととなった。
この一件で双方驚いたのは、藤九郎の実家がお雪の父親の家臣であったこと。それを聞いて大変に喜んだお雪の父親が藤九郎の実家の俸禄を加増。実家から毎月金が送られてくるようになった。
それはあくまお雪の側にいて恥ずかしくない恰好をということへの金らしいのだが、身の周りの調度品は金沢屋が整えてくれているので、もっぱら刀の手入れ代に消えている。
翌日は抜けるような晴天であった。
お雪を深川の蔵屋敷まで送り届けると、道場にいる家臣に見つからぬうちに出て、深川の鶴屋で飴を買った。一包みは伝兵衛へ、もう一包みは巣鴨で留守番しているおかねの分である。
両国までゆったりと歩いてゆき、両国に差し掛かったあたりで
「おや、九郎先生じゃございやせんか」
伊助に声をかけられた。伊助は女房に店をやらせているので、御上の御用に専念できる。毎日こうして持ち回りの両国界隈を見まわっているのだ。
「おう、伊助。久しいな」
「今日はお雪様のお供で?」
「ああ。道場に顔を出せと言われる前に退散してきたところよ」
「もしよろしければ一杯いかがです?お聞かせしたい話もごぜぇやすから」
「ほう」
伊助に案内されたのは女房のおろくがやっている小料理屋だ。伊助と藤九郎が入るとにこやかな顔で出迎えてくれる。奥の入れ込みに座ると、素早く冷酒と煮物を持ってきた。
里芋を煮ただけのものだが、得も言われぬ美味さに自然と藤九郎の顔がほころんだ。伊助が酌をしてくれる。
「先生は松原組ってぇのをご存知ですかい?」
「松原組?知らぬな」
「性質の悪い浪人連中が徒党を組んで悪さばかりしているそうで。商家に難癖をつけたり、百姓の娘を攫って嬲り者にしたりと、こう、聞くに堪えねぇことばかりをしてのけるそうです」
「なんとまぁ…落ちぶれたものよな」
「寝ぐらは駒込の荒れ寺だそうですよ」
「駒込?近いな…」
「そうなんです。こりゃ先生の耳に入れとくべきだと思いましてね。なんせお雪様はあのお顔立ちだ、野良犬どもが狙わねぇわきゃねぇ」
「…ふむ。松原組…か。悪いが伊助、奴らのことで何ぞわかったことがあったら知らせてくれ」
「へい。駒込の岡っ引きで三次郎ってぇのが古くからの馴染みです。奴にも頼んでおきやしょう」
「悪いな。…では俺はそろそろ金沢屋へ顔出してくるよ」
藤九郎は立ち上がると、一両をそっと伊助に差し出した。伊助が一瞬固辞しようとするが、藤九郎のにこやかな瞳の奥の真剣な色を見てとり、ありがたく受け取った。この金を惜しみなく使って調べてほしいということなのである。
藤九郎が金沢屋に顔を出すと主の惣兵衛自らが店先に出て、出迎えてくれた。惣兵衛は四十過ぎの恰幅のいい優しげな男で、奉公人たちからも慕われる好人物である。
すると奥から惣兵衛そっくりの老人が顔を出した。金沢屋の先代でお雪を目の中に入れても痛くない伝兵衛である。
「これはこれは九郎先生。お雪は…」
「俺ひとりですまぬな。お雪どのは深川の蔵屋敷だ」
「ああ、なるほど。他のご家族や家臣の方々に気兼ねすることなく会えますからのぅ」
「最近では平尾の下屋敷だけではなく、深川の蔵屋敷にも道場を建てられてほとほと困っておる。春にお雪どのを送り届けたんだが、蔵屋敷だと安心していたら道着の若侍がご指南願います、ときた」
「ほっほっほっ。なかなかどうしてご家老様もやり手でおられる」
「だから今日は早々に退散してきてござる」
「ならばこの爺にも、ご指南下されるかな?」
そう言って伝兵衛は将棋を打つそぶりをした。藤九郎が笑って頷く。こうして穏やかな時間が過ぎていったのであった。
帰りしな伝兵衛に飴を渡すと、そのしわがれた目を真っ赤に潤ませながらうんうんと頷き、そして藤九郎の無骨な手に紙包みを握らせた。小判が二、三枚入っているであろう重みだ。
前々から伝兵衛は何かにつけては藤九郎にこうして小遣いをやり
「若いうちじゃ。剣だけでなく、色々楽しみなされ」
とにこにこ笑うのであった。
蔵屋敷へと迎えに行くと、見知った顔が出迎えた。藤九郎とは幼い頃から同じ道場で汗を流し、年が近いこともあって二人で稽古の合間によく語り合った村井伊織である。彼の剣を藤九郎に語らせると
「まるで風のような…」
と言わしめるほどに涼やかな剣の使い手であった。
「よう、伊織」
「藤九郎、何故道場に顔を出さぬのだ」
「なんだおぬし、俺がことを待っておったのか」
「お雪様を呼んだからにはお前が来るであろうと、俺はわざわざ中屋敷から出張って参ったのだぞ」
「はは、そうか。おぬしがおるなら顔を出してもよかったかのう。許せ許せ」
「相変わらずのらりくらりとしおって」
「お雪どのに頼まれた使い事があったのさ。次こそはな」
「…わかった。…どうだ、近頃は。お雪様の身辺に変わりないか」
「巣鴨はいたって平穏。心配するな」
「お前のことだ、心配はしておらんが…なんぞあったらすぐに知らせろよ」
「おう」
「平尾の下屋敷の中間に嘉助というのがおる。俺がこれぞと目をつけて国許から連れてきた。必要な時はいつでも使え。嘉助にもよく言うておく」
「ありがたい」
伊織がここまで熱心なのには訳がある。お雪の立場上、表立って殿の娘と公表できず、金沢屋もそれをよしとはしなかった。それが故に大っぴらに護衛をつけることができず、度々藩士が様子を見に行くわけにもいかない。しかしお雪に対する殿の溺愛はいずれ藩を脅かす騒動をも起こしかねない。それを危惧する一派が藩内にいるというのも確かなのだ。だからこそ殿も人目を忍んでは上屋敷ではなく、蔵屋敷にお雪を呼び寄せる。米や野菜が運び込まれる蔵屋敷なら商人の出入りも盛んで、お雪が目立たないからなのである。
「村井様、いつも誠にありがとうございます」
「いえいえ、どうか某に礼など無用に願います」
「先生もありがとうございます。楽しい時間でございました」
「そうか、なにより」
お雪が帰るように促すと、外はちょうど霧雨が降り始めていた。伊織から受け取った傘をお雪にさしてやるとお雪が少し頬を染めて俯いた。
すぐさま駕籠が来たのでお雪を乗せ、藤九郎が傘を差してついてゆく。霧雨の中、傘を差しているというのに駕籠に全く遅れることなく、息も乱さず藤九郎はついてゆくのだった。
巣鴨に入り、鬱蒼とした森と田んぼの間の道を駕籠が進んでゆく。先の方を見た藤九郎、そして駕籠かきが思わず歩を止めた。
細い畦道を破れた傘が進んでいる。その傘の担い手はずっと小さく、傘の端を引きずるようにして歩いていた。もう日も暮れかけているのに、子どもが歩いているのである。
「どうしました?」
止まった駕籠を不審に思ったお雪が声をかけると珍しく狼狽えたような藤九郎の声が返ってくる。
「いや…子どもが独りで歩いておる」
「子ども?このような刻限にですか?」
「ああ。見るところ親もそばにはおらんようだ」
「…先生、その子を家を連れて帰りましょう」
「よいのか?」
「雨も降っておりますし、独りじゃ危のうございます。私が預かっていると近所の方に触れてまわればじきに迎えがきます」
「そうだな、それがよかろう」
藤九郎が子どもに近づくと、子どもは火がついたように泣き始めた。見たところ三つぐらいだろうか。どうにも困ったので懐に入れていたおかねにと買った飴を取り出した。袋から一つ出して藤九郎が食べてみせる。もう一つ出して差し出すと子どもはそれを受け取り、涙でぐしょぐしょの顔で笑った。
藤九郎が抱き上げて歩きはじめると、機嫌を直したのか子どもは静かになった。
「まあまあ!こんなに濡れて!いくら夏とはいえ、夕刻の雨は身体に悪うございますよ」
おかねはそう言うと早速風呂を沸かしてくれた。お雪の乳母だっただけに子どもの扱いは長けている。子どもも大人しくおかねのされるままであった。
藤九郎は子どもの持っていた破れ傘をまじまじと眺めていた。どうみても生活に困窮したものが持つような傘である。しかし子どもの身なりはよかった。着ているものも清潔で質がいい。肌も白く、百姓の子ではないように見える。
藤九郎が唸り声を上げていると、隣の部屋からおかねの子守歌が聞こえる。縁側で外を向いていたお雪がふと振りかえる。口元は柔かく笑んでいた。
「懐かしい…私が子どもの頃におかねが歌ってくれていた歌です」
「そうか」
長く降る霧雨を肌で感じながら、二人はおかねの子守歌にしばし耳を傾けていた。
浪人・田村栄四郎は夜の駒込で赤子を抱いていた。乳を欲しがる赤子をなんとか白湯で誤魔化して泣きやませようとしているのである。思えば十年ほど昔、妻に先立たれて激しく泣く我が子をこんな風にあやしたのを思い出す。結局、我が子は程なくして病気で死んでしまった。
その姿を瞼の裏に浮かべ、田村は心に誓った。
「どうにかしてこの子を親元へ返さねば…」
田村が同じく浪人の木村に誘われ、松原組に出入りするようになったのは半月ほど前。食うに困って何か仕事はないかと宛もなく歩いていた田村を木村が見つけたのである。紹介された松原喜一郎という浪人は他の者が一目置くだけあって剣の腕が凄まじかった。皆、松原には逆らえないのか、囃し立てるまま悪事を働いている。田村だとて茶屋の料金を踏み倒すのに加担した。
だがどうにも良心の呵責に耐えられなくなってきた。
そしてついに事が起こった。
松原と、残忍な山﨑、そして木村が恐ろしい計略を話していたのを小耳に挟んだのである。
「商家の子どもを?」
「ああ。夕暮れになると子守女や乳母があやして外に出たりするだろう。そこを襲うのよ」
「乳母は殺してしまえばいい。その死体を見れば震えあがって身代金を出すだろう」
「金の受取りはどうする」
「そうだな…そこらの破落戸を雇って受け取らせて、あとで殺せばいいだろう」
「さすがは松原さんだ」
松原は用心深かった。田村は必死の思いで盗み聞ぎをし、松原たちの凶行をどうにかして止めたかった。根津の茶屋にいい妓ができたと嘘の話を作り出して、毎日いそいそと出かけては松原たちの動向を探ったのである。
やがてそれは実行に移された。
松原たちは小さな子どもを二人連れた若い子守女を見つけた。女は年の頃なら十五、六の可愛い娘で一人を背負い、一人の手を引いて歩いていた。松原たちの姿を見るや子守女は血相を変え、歩いていた子どもを抱えて走り始めた。人通りの少ない竹藪になんとか小さな子どもを逃がし、自分は反対の方へと逃げようとしていたところを木村に捕まったのである。
「逃げて、逃げ…」
木村たちに裸に剥かれながら必死にそう言う子守女の声を背に、田村は竹藪に逃げた子どもを抱きかかえがむしゃらに走った。決して松原たちには見つからぬよう、走って走って、巣鴨のあたりで子どもを置いて引き返した。
巣鴨のあたりは野良仕事を終えた百姓がぽつりぽつりと見えたし、何より松原たちはここまでは来ないだろうと踏んだのである。そして降りはじめた雨に濡れないよう、拾った傘を差してやった。
戻ると子守女は見るも無残な姿で殺されていた。そして、背負われていた子どもがいないことに気づき、何食わぬ顔で駒込のねぐらに戻った。
「いや、降られたわ」
雨か汗かわからぬほど濡れていた田村に、酒に酔った仲間が軽い野次をとばした。松原たちは奥の部屋にいるらしい。ほおり投げられるように置かれた赤子が生きているのを確認し、胸を撫で下ろす。
「この赤子は?」
「松原さんたちが連れてきた。珍妙なことよ」
「さらってきたのではあるまいか」
「しかし可愛い子だのう」
「田村さんは子どもが好きとみえる。世話はまかせましたよ」
酔った仲間に文句を返しつつ、田村は赤子を抱き上げた。これで少しは安心だと、田村が胸を撫で下ろしたが、奥の部屋から松原たちが渋い顔で戻ってきた。
「どうしました?松原さん」
「子守女が店の名前を吐かなかった。貴様ら、子どもがいなくなったと騒いでる商家を見つけて来い」
「は、はぁ」
「さっさと行け!…田村さんはその赤子を頼みましたよ」
松原も田村が年長ということもあって、あまり強い口調で命令したりはしない。田村は赤子をしっかりと抱きながら外に出たのだった。
「やはりこの辺の子どもではなかったか…」
藤九郎が唸りを上げた。伊助の話を聞いて駒込の三次郎が挨拶にきたので、早速昨夜の子どもの親が探してないか聞いて回ってもらったのである。近所の百姓連中も知らないらしく、ますますもってこの子どもをどうしたらいいかと悩みあぐねた。
「先生、これは伊助さんにも手伝ってもらった方がよいのではありませんかね」
「そうだな、俺もそう思っていた。身なりからして商家の子どものようだし、伊助の方が得意やもしれん」
「ではあっしはひとっ走り伊助さんにこのことを伝えてまいりやす」
「すまぬが頼んだ」
「とんでもねえ。行ってめぇりやす」
三次郎を見送って程なく、子どもがぐずる声が聞こえる。おかねは買い物に出ていた。藤九郎が腰を上げかけた時、お雪の優しい歌声が聞こえてきた。おかねが歌っていた子守歌である。ぐずる声は次第に唸り声のような声に変わり、やがては寝息へとかわっていった。そろりと藤九郎が覗くと、お雪の膝に上半身を預けて子どもは眠りに落ちていた。お雪の白い手がゆっくりゆっくりとその小さな背中を撫でている。
「…上手いな」
「…いえ…おかねの真似しかできません」
「お雪どのはいい母になれると思うがな」
「…それは無理でございましょう」
「何故だね。乳母がいるような家に嫁げばなんとかなろうさ。おかねさんだってついてゆくだろう」
「……大事な子の顔もわからぬ母など…」
「意地っ張り」
藤九郎がそう笑い含めて言うと、お雪は首まで赤くして俯いた。お雪が時折見せるこの表情が、歳相応の女子らしい表情だと、藤九郎は満足そうに笑った。
夕餉を終えて、子どもはまだ遊び足りないらしくはしゃいでばかりいた。今日はおかねが買い物に行った先で浪人ものにぶつかられたらしく、腰を痛めて戻って来たのでどうにも子どもを持て余してしまう。困り果てたお雪に藤九郎が着流し姿で立ち上がった。
「俺が少し連れて出てこよう。河原のあたりで涼んで蛍でも見せてくるよ」
「先生、ありがとうございます」
「もう雨戸は閉めておくがいい。小半刻もしたら戻る故な」
「はい」
藤九郎が抱いて歩くと、子どもはにこにことしていた。おかねが抱くより目線が高いせいだろうか、前を前を見ようとしている。しばらく歩いて河原で蛍を見ていたその時、遠くから誰かが歩いてきたのがわかった。古ぼけた着物と袴で、ほつれた髷の中年の浪人だった。驚いたのはその腕の中。赤子が泣いていた。あまり見ない組み合わせであった。思わず藤九郎の好奇心が働いた。
「もし、某許も子守ですかな」
「…え…ああ、まぁそんなところです」
中年の浪人は田村栄四郎だった。田村は楽しそうにはしゃぐ子どもを見るなり目を剥いて驚いた。それは確かに昨日自分がこのあたりで逃がした子どもだったからだ。それがどうだろう、こんなにも楽しそうにしている。もしやこの身なりの小ぎれいな男が父親なのだろうか。
「も、申し訳ござらぬ」
田村は抱いていた赤子を藤九郎の腕に押しつけると、はらはらと落涙して頭を下げた。藤九郎はなんのことだかさっぱりわからない。しかし抱かされた赤子が、蛍を見ているその子と同じ着物を着ていることに気づいた。
「あんな恐ろしい所業を止められず…我が身の情けなさに泣けて参りました。奴らは必ず私がどうにか致します。何卒ご容赦くだされ」
田村はも一度頭を下げると、来た道へ走り去って行ってしまった。勿論藤九郎にはなんのことだかわからない。だが「恐ろしい所業」「奴ら」という物騒な言葉がどうにも引っかかる。明日の朝になったら伊助のところへ行くしかないと肚を決め、藤九郎は家へと帰って行った。
家に戻れば勿論大騒ぎだった。蛍を見に行って帰ってきたら子どもが一人増えている。おかねが痛い腰を擦りつつ藤九郎を叱りつけた。
「犬猫じゃあるまいし、どやったらそんなにほいほい子どもを拾ってこれるのか教えてもらいたいですよ。しかもこんなに小さい赤子、どうすりゃいいんだか」
そんなとき、ちょうど三次郎が様子を見に来たのでなんとか近くの百姓に乳をもらえぬかあたってもらった。すぐさまみつかり若い母親・お千がお雪の家を訪ねる。夜のうちにたっぷり飲ませると、お千は自分の家に帰って行った。
翌朝、お千が縁側から顔を見せる。
「お姫様、お千でございます」
「早くからありがとう、お千さん」
「いいんですよう。うちの爺ちゃんがお姫様のお役に立てるんだったら行って来いってうるさくて」
「どうですか?沢山飲んでいますか?」
「はい。よく飲んで元気のいい子のようです」
「そう、よかった」
赤子を囲んで賑やかにしているお雪たちとは別の部屋で、藤九郎の元へきた伊助が眉間に皺を寄せていた。
「恐ろしい所業…でごぜぇやすか」
「あの二人はおそらく兄弟だろう。着物が同じ布で作られていた。これは俺の勘だが、あの二人はどこかから攫われてきたのではなかろうか。それをあの浪人が助けた…」
「その読みは当たりかもしれやせんね。あとはどこの子どもか」
「商家の子どもというのはそのように攫いやすいものだろうか?外で遊んでいる子どもを攫うのとは訳が違うだろう。ましてや赤子…子守女や乳母がいるものではないのか?」
「そういや…昨日、谷中のあたりで娘が一人殺されたって聞きやしたね。裸のまま身体じゅう刀傷だらけだったそうですよ」
「それかもしれぬ」
二人の考えがまとまるかまとまらぬかのところで、三次郎が飛び込んできた。三次郎は昨日お千を送り届けたあと、例の浪人を探してくれたいた。
「先生ッ!大変で…おや、伊助さんも来てなすったか」
「どうした、三次郎」
「駒込の林の中に、浪人のホトケが…!」
「何?」
「先生から聞いていた風貌と似てたもんでとりあえずお知らせしねぇと、と」
藤九郎は刀を手に、三次郎と伊助を伴って飛び出した。
走って向かった先はなんでもない雑木林だった。群がる人だかりを押しのけてその姿を見るとまさに昨日藤九郎に赤子を託して泣いていた浪人だった。散々殴られ、最後には寄ってたかって斬りつけられたのだろう。幾筋もの刀傷から血が出ていた。
「こりゃひでぇ…」
「おそらく赤子を逃がしたことでやられたな。簡単に助け出せたことといい、この浪人も人攫いの仲間だったのやもしれん。しかしどうにも良心が抑えきれなくなった…」
藤九郎は伊助と三次郎を振り返ると、真剣な眼差しで口を開いた。
「伊助、子どもの親を探してくれ。谷中を中心にな」
「へい」
「三次郎は例の松原組とやらを見張ってくれ。この刀傷は何人もの侍でなければつかん。このあたりでそのようなことをするのはそやつらだけだろう。あとで俺の知り合いの嘉助をやるから二人で上手く見張ってくれ。連中が全員ねぐらに戻ったら俺に知らせろ」
「へい」
夜も更けた頃、最後の一人の木村が駒込の荒れ寺に戻って来た。松原は酒を飲みながら荒れていた。朽ちた仏像を蹴り飛ばしては酒をあおる。
子守女をいたぶっている間に子どもが一人消え、女はどんな目にあわせても店の名前を吐かず、さらには残った赤子まで田村がどこかへやってしまった。せっかくの金づるが消え果てしまったのである。
田村によって三人に傷を負ったが、数には勝てないらしく殺すことができた。
「まあいい。今度は上手くやってみせる」
「そうですよ、松原さん。今度は両国あたりの大きいところを狙っては」
「両国はいかん。あそこの岡っ引きは随分と鼻が利くらしい」
「そういえば聞いたか?巣鴨に美しい女が一人で暮らしてるらしいぞ」
「まことか」
そんな調子で浪人たちが酒を飲みながら騒いでいた時、ふいに松原がそとに目を向けた。
「誰だ」
いつのまにやら振っていた雨の庭に、破れ傘を差した男が立っていた。
着流し姿の腰に大小の愛刀を差した藤九郎である。
「やはりおぬしらが生きていても世の為にはならぬようだなぁ」
傘から顔を出した藤九郎はいつもの人懐こい笑顔を浮かべ、そう言ってのけた。表情と言葉がかみ合わず意味がわからないというような顔した浪人たちに、今度は残虐な光を宿した瞳で藤九郎は述べた。
「死にさらせ、という意味よ」
藤九郎は一気に浪人たちとの距離を詰めると、すでに抜き放っていた刀で一人二人と斬り捨てた。首から、肩から血を流して倒れゆく浪人に慌てて残りの者が抜刀する。
十人が相手でも、藤九郎には苦でもなかった。次々と斬り伏せて、松原へと歩を進める。松原は抜刀すると、正眼に構えた。
藤九郎が松原の息を読みつつ、間合いを測る。藤九郎の瞳の深淵に何がしらかを感じた松原が慌てて一歩を踏み出した。
それが勝負の決め手であった。
松原はゆっくりと倒れ、息も絶え絶えになっている。藤九郎はその背中にもう一度刀を差して止めを差した。もしも松原が助かりでもしたらまた罪もない者が犠牲になる。それを防ぐためならば藤九郎は倒れている者に止めを差すことになんら抵抗はなかった。
「先生…」
「倒したのはあの浪人よ。命がけで子どもを救いだし、相討ちだ」
「ですが…」
「それでいい。そうしておけ」
藤九郎は持っていた懐紙でゆっくりと刀に拭いをかけると、雨の中をまた破れ傘を差して歩きはじめたのだった。
巣鴨につくと、お雪が座っていた。おかねがまた濡れて帰って来た藤九郎に何かを言っていた。しかしそれがあまり耳に入らないほど、萎れた花のようになっているお雪が気にかかる。
「…子どもたちは」
「伊助さんがご両親を見つけてくださって、さっき帰りました」
「そうか…見つかったか」
「谷中の紙問屋さんの子どもたちだったそうです」
「……」
藤九郎はごろりと横になると、お雪の膝に頭を乗せた。お雪の四肢が緊張で強張る。しかし当の藤九郎はけろりとしていた。
「さあ、ここにも大きい子どもがござるぞ」
藤九郎の言葉に、子どもたちが帰ってしまったことによる寂しさで萎れていたお雪が、くすくすと笑いはじめた。そしてその大きく逞しい肩をさすりながらあの子守歌を歌うのだった。
田村浪人の遺体は子どもたちの両親によって手厚く葬られた。
藤九郎の言う通り、田村が最後まで自分の良心に従って子どもを助けたことに、変わりないのである。
破れ傘 終
完全に趣味に走りました。
気が向いたらまたちょこちょこ書いていきたいと思います。