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S.O.F.  作者: tetsu
1/4

Prologur





S.O.F.









一、湯島昌一


後部座席に座る客の舌打ちの音が耳に付き、湯島昌一はその原因であろう料金メーターに視線を走らせた。

目的地手前で料金メーターが加算され、二千円を超えた事に苛立ちを覚えたのだろう。

しょうがねぇだろう、と思いつつも客以上にこういう時に気不味さを覚えるのは、タクシードライバーの方だ。

料金メーターを止めて、路肩にクラウンを寄せて停車させる。


「着きました。二千八十円になります」


無言で千円札を二枚と百円を突き出してくる年配サラリーマン然とした客の容貌を峻別する。

酒量は泥酔とほろ酔いの境といった所だろう。ちょっとした態度の悪さで理性のネジがいつ飛んでも可笑しくはない。

湯島は、へらりと愛想笑いを浮かべて、「どうも」と意識して声を和らげた。年々薄くなっていく頭髪と腹に溜まっていく贅肉の代わりに五十年近い歳月で唯一得る事の出来た処世だった。

十円玉二枚とレシートを渡された客は、礼の言葉一つ残さず車内から出て行った。


不景気という言葉も適当ではない停滞感に満ちた二十一世紀に入ってからもう三十年近く。

バブルの狂騒もその後の平成不況も人生の大半を『外側』から見てきたという自負のある湯島には、今、出口の見えない不況を常態とした世相に蹴落とされ、同年代の男の背中から見え隠れする哀愁に身を詰まされるものがあった。


こんなはずじゃなかった、仕方がなかったという後悔と諦観が混ざり合いつつも、それでも、と男特有の気概とすら言えない感情で一括りにして背負う。


それすら出来ずに、娑婆へ逃げ出して、ただ生きているだけのわが身を省みたのは、バックミラーから客の背中が消えるまでの数秒間程度だっただろうか。

無償に煙草が欲しくなったが、仕事中のみならず、仕事の二時間前から煙草を絶っている身には叶わない願いだった。

再び、新宿駅東口のタクシー乗り場へ引き返す為にクラウンを発進させた湯島だったが、数分もせずに靖国通りに出る手前で手を挙げる人影を見付けた。

タクシードライバーの習い性ですぐさまサイドミラーを確認し、ウィンカーを跳ね上げ、路肩にクラウンを寄せる。

今日は調子が良いと小躍りする気分も手を挙げた人間をよく見るまでの話だった。

ジャンクフードで出来ていそうな鶏がらのような体に芯の通っていない瞳。両手をズボンのポケットに突っ込んでいるが、湯島の瞳には不自然に映るその膨らみ方は恐らくは――。


乗車拒否の言葉がちらつくが、全個連(全国個人タクシー連合会)や日個連(日本個人タクシー連合会)がしのぎを削る東京二十三区で湯島のような独立系グループに属している人間は、どうしても弱い立場になってしまう。

地方に比べればまだ幾分かマシとは言え、激戦区で客の奪い合いを繰り広げている状況では、下手は打てないだろう。

出たとこ勝負だな。


「どちらまで」

「戸山公園まで」


金髪の男の方がにやにやと薄ら笑いを浮かべながら答える。

道順を思い浮かべたのは一瞬で、湯島は靖国通りに向けて車を走らせながら、バックミラーを調節する振りをして二人の男を窺った。

生来の鬼瓦に揶揄される強面と百八十センチメートルは下らないでかい図体は、客商売ではデメリットばかりだが、こういう時には役に立つはずなのだが、後ろの二人組の男達に浮かんでいる下卑た笑みを見る限り、今回に至っては効果は期待薄といった所か。

全くついていない。

内心で溜息を噛み潰し、バックミラーを直そうとして、ふと自分の浮かべている表情に目が留った。

口端に浮かんでいる笑みに湯島は思わず、おいおいと口走りそうになった。


何、愉しんでやがるんだよ。

妻なし、子なしの甲斐性なし。五十近い中年個人タクシードライバーが玩具を前にした子供みたいな面してんじゃねぇよ。


嘲笑う寸前、バックミラーの中の中年男性の瞳が熾き火のように揺れて、「だったら、何で未だに片足突っ込んでんだよ、未練タラタラじゃねぇかよ」と鼓膜とは異なる知覚野を打った。

ハンドルを握る手が僅かに震えたが、運転するクラウンに影響が出る程ではなかった。

もう一度確かめようとバックミラーを覗いても、そこには草臥れて諦める事を息を吸う事と同じにした中年の強面だけが映っていた。

それに微かに落胆している自分に気付いた湯島は、俺だって好きで足を突っ込んでる訳じゃねぇと心の奥底で吐き出して、バックミラーを直して、運転に集中した。


戸山公園は、明治通りを挟んで西側と東側に分かれている。後部座席の男達が示したのは、深夜という時間帯では閑散としている箱根山がある東側だった。

箱根山は心霊スポットという側面も持っており、曰く、誰かが泣き叫ぶ声が聞こえるとか。

七月初旬の季節や熱帯夜のようにじっとりと肌に纏わりつく外気を考えれば、少し早目の肝試しという考えも浮かんだが、車を止めて三千円を超えている料金メーターを止めようとした所で、すっと伸びてきた腕の先に握られているものに動きを止められた。


「金さえ出せば、怪我しねぇで済むぜ、おっさん」


街灯の灯りで滑って見えたナイフの刃先を確認した湯島は、やれやれと肩を小さく落とした。


「どうやら、ちょっと気の早い肝試しになりそうだな」

「ああ?」

「てめぇらのお遊びに付き合ってやろうって言うんだよ」


瞬間、料金メーターに伸びていた左手が男のナイフを握っていた手首を握り、それを返す。昔聞きなれた間接の外れた音がすぐ傍で聞こえ、やや遅れて男の絶叫が聞こえたが、湯島の振り返り様の掌打がその声を遮った。

首を大きく仰け反らせた男はその一撃で昏倒したらしい。

暗い車内でもはっきりと分かる剥いた白目にもう一人の男の方が真実、幽霊でも見たような悲鳴で喉を引き攣らせたが、それで許される問題ではない。

運賃三千円超。それにガソリン代やら車内の清掃、貴重な営業時間を奪われた恨みも加味した拳を握り固める。


「おっさん、舐めんな。糞ガキ共」


世にも情けない顔に向けて、握った拳を打ち抜く。鼻骨を砕いた感触が手の甲に残り、同じく気絶したもう一人の男に湯島は、溜息を吐きながら車外へと出た。

後部座席から男達を引き摺り下ろして、地面に転がせてから、懐から煙草を取り出して口に咥える。

流石にこの後、営業に戻る訳にもいかないだろう。

血だけならばまだしも、失禁までしてくれた車内にお客を乗せられるはずもない。


「ったく、とんだ厄日だ」

「そうでもないかも知れないですよ、班長」


吸い込んだ紫煙と一緒に吐き出した愚痴に返ってきた女の声に湯島は、ぎょっとした。

グレーの女物のスーツを着たすらりとした女が闇から浮き出るように現れて、街灯の明かりにその容貌を露にさせる。

見知った少女の面影に年齢と化粧が足されて、十分以上に女の性を醸し出すようになった彼女に湯島は、「柴崎……」と呻いていた。


「お久しぶりです、班長」


微かに笑った目元だけは、昔の勝気で怜悧な癖に情に厚い少女だった事を伺わせたが、すぐに能面のような涼しい細面に戻った柴崎に向かって、「もう俺は、班長じゃねぇ」と嘯いた。


改めて柴崎涼子を見遣る。

近くで見れば、それなり以上に上等なブランドのスーツである事は分かる。背中まで伸ばした黒髪の艶や唇のルージュは、女の性を色濃く立ち上らせて、妻なし子なしの甲斐性なしの枯れ果てた男の部分を触発させる色香もあった。

風の噂で局でもそれなりの地位に就いているという噂に違いはないようだった。

流石に、もう“猟犬”からは足抜けしているだろうとは思ったが、“猟犬”どころか――と今の自分の情けなさがそれ以上の思慮を遮った。


「用意周到なケースオフィサーなこって。昔の上官にこんな哀れな糞ガキを差し向けんなよ」

「これ位簡単にいなして貰わなくちゃ困るわ。先日の件は聞き及んでいるけど、実際に自分の目で確かめないと」

「今頃、局は大忙しなんじゃねぇのかよ。こんな中年の運ちゃんなんかに構ってねぇで仕事しろ」

「言ってくれるわね。誰のせいで、今、局が上に下にの大騒動になっていると思っているの」


もう班長ではない以上、敬語は必要ないという事か。

投げた牽制球を気持ち良い程返された湯島は、根元寸前まで燃えていた煙草に救いを求めて、最後の紫煙を吸ってそれを靴でもみ消した。

「マナー悪いわね」「分かってるよ」の応酬で靴底でもみ消した吸殻を拾った湯島は、「――局のお家騒動にこれ以上巻き込まれるのは御免だぞ」と無駄かも知れない牽制球を再度投げつつも、柴崎の用件を聞く準備がある事を告げる、が。


「例の公費横領疑惑も関係していないとは言えないけれど、湯島さんにしか頼めないオペレーションなの」

「断る」


オペレーションという文句に条件反射で口が動いてしまった。


「五十近いおっさん捕まえて、オペレーションも糞もねぇだろうがよ。いくら局がごたついてるって言っても、“猟犬”は使えるんだろうが――“負け犬”になんか頼るな」

「――今の私達は、その“負け犬”に頼るしかない」


感情で口走った言葉の言い訳の為に、過去の痛みと一緒に心にへばり付いた瘡蓋を剥がして、血を吐く想いで呟いた“負け犬”の一言を逆に引用され、湯島は息を飲み込んだ。

過去へと縛り付ける鉄鎖が首に絡みついたような息苦しさに、湯島は思わず襟元へと手を伸ばしてしまった。真っ直ぐに伸ばされる柴崎の瞳の感触が、過去の湯島を見ているようで、思わず止せよ、とその視線から顔を背けた。

草臥れて、野垂れ死ぬのが相応しいと諦めている湯島昌一という男にまだ光を見出そうとするその瞳が煩わしい。当の昔に湯島自身が見切りを付けているのに。


「湯島班長。あなたに頼るしかないんです。自分を“負け犬”と言うもう一人の少年と一緒に、ある少女を守って下さい。現実と仮想現実の世界から」


自分を“負け犬”という少年。ある少女。

その二つの言葉に、湯島は思わず叫びたくなった。


負債を子供達に押し付けて恥じない大人の代表のような俺に何が出来ると言うんだ。

じくじくと痛む胸の裡を剣呑な視線に託して柴崎に向ける。

その視線の意味する所を感じたのか、初めて視線を逸らした柴崎は、それ以上言葉を重ねる事をしなかった。





**





二、結城誠司


東京都世田谷区の住宅密集地の日常に溶け込もうとしてもどうにもならない陸上自衛隊の迷彩服を眺めた湯島は、入門受付を済まし、クラウンを走らせた。

世田谷区にある三宿駐屯地内に、陸海空三自衛隊共同機関である自衛隊中央病院はあった。

クラウンを駐車場に停めた湯島は、助手席で涼しい顔をしている柴崎を一瞥し、「病院なんざ、殺して下さいと言ってるようなもんだぞ」と彼女らしくない不手際に文句を吐いた。

日常的に人死にが必然的に起きる病院という場所は、最も暗殺に適していると言える。点滴や薬剤に僅かにでも毒物を混入させて心臓麻痺等、病死と診断させる暗殺手段も局の手口と知っていればこそだった。


「そうも言っていられない事情があるの。後で詳しく説明します」


そんな事は分かっている、と言外に切って捨てられる。

助手席から降りて、病院舎へと歩いていく柴崎に舌打ちを零した湯島は、その後に続いた。

三自衛隊共同機関であるせいだろう。陸自の若草色の制服だけではなく、海自や空自の制服、中には陸自の迷彩服を着ている人物もいる。一般にも開放されており、普通の民間人の姿も見られる為、普通にスーツを着ている湯島や柴崎が特に目立つという事もない。

まるで勝手知ったる我が家のように真っ直ぐに目的地に向かって歩いていく柴崎に付いていく湯島。

エレベーターで八階へと上がった湯島は、エレベーターから降りて、まず感じた違和感に眉を顰めた。

喧騒らしい喧騒がしない。病院内は静かにするものという常識が働いていたとしても、歩く靴音が耳に残る程響くというのは、真昼の時間帯を考えればどうにも腑に落ちない。

入院患者そのものがいないのかと室内を伺えば、そういう訳でもない。

室内に置かれたベッドの上には、まだ二十歳にも満たない少年が眠っており、その腕には点滴が付けられているのも見えた。空きベッドを探す方が大変な程、室内のベッドには患者がいるが、何よりも奇妙なのが――。

ふと、前を歩いていた柴崎が湯島を方を振り向く。


「この階層で何か気付いた事はありますか?」


気付かない方が可笑しいだろう、と湯島は憮然とした表情を浮かべた。

まず、第一に奇妙なのは、患者の年齢層だ。超高齢化社会と呼ばれて久しい日本の病院の入院患者の多くは、高齢者であろうと湯島ですら想像が付く。それにも関わらず、この階層の患者の殆どは、十代から二十代である点。

第二に、入院患者の多くが身動ぎ一つしない点は、簡潔に意識不明という事態を想起させる。

そして、何よりも奇妙なのは、患者の全てが頭部に装着しているヘッドギアのような機械だ。時折、緑色のランプが点っている事や各種コード類が接続されている事を考えれば、稼動しているのは間違いないが、どう見ても医療器具には見えそうにない。


どうにもこうにもきな臭い。

先入観を持つ事を恐れた湯島は、「どうせ説明してくれるんだろ」と敢えて嘯く事にした。

湯島の思惑を知ってか知らずか。柴崎は小さく含んだ笑みを浮かべてからその容貌を正面に向け直した。背中から臭い立つケースオフィサーの貫禄には、昔の可愛げ等、欠片もない。


漸く、目的地に着いたのか、ある病室に柴崎は入っていく。今までの相部屋の病室ではなく、個人用の病室ではあったが、湯島の目を奪ったのは、窓際に置かれたベッドの傍に立つ少年の後姿だった。

柴崎と湯島の気配に気付いたのか、その少年が振り返る。


こりゃ、確かに“負け犬”だ。


納得した胸の内に、逆に戸惑いを覚える程だった。

意識不明で眠っている患者達と比べても遜色ない程の痩せて細い腕がシャツから二本、生えているように見えるのは、服とサイズが合っていないからだろう。身長は少し低めで、百七十センチメートルもないだろうが、腕や首の細さ、うっすぺらな胸の筋肉を考えれば、体重は恐らく五十キログラムを割っているのではないか。

ざんばらの髪は不精で伸ばしているだけだろう。その髪の中から覗く瞳には力はなく、斜に構えた三白眼にも生意気というよりも卑屈という言葉の方が適当だった。

総じて、捨てられたガリガリの痩せた犬。“負け犬”の文句が相応しい少年だった。

つまり、同じ“負け犬”として、湯島は彼と協力して任務を遂行していくという事だ。


「おまたせ、結城君」


それを肯定する柴崎の言葉に、そうと理解していても、湯島は呻くしかなかった。


「おい、まさか、この糞ガキが……」


湯島の悪態にびびったのか、あからさまに腰が引けた結城と呼ばれた少年の様子に、湯島の方が泣きたくなった。


「もう教官じゃないんだから。怖がっているじゃない」

「おいおい。まさか、完全な部外者とバディを組めってんじゃねぇだろうな」

「一応、彼は局の非正規協力者という事になっているわ。ただ、異例中の異例だけど」


局の採用体制こそ、日本の公的機関の中では、異例中の異例なのだろうが、その局にそう言わせるだけの過去、ないしは能力を持っているという事なのだろう――否、その両方か。

どちらにせよ、まともな話であるはずがない。

また一つきな臭さを増した状況に唇をへの字に結んだ湯島に、柴崎が少年を紹介する口を開く。


「彼は、結城誠司君。年齢は十五歳。今回のオペレーションでは、湯島さんとバディを組んで貰います」


恐れていた事を事実として突き付ける柴崎の言葉に、湯島は頭を振った。

「異論は認めません」という柴崎のきっぱりとした紋切りにも耳を塞ぎたくなった。

だが、梃子でも動きようのなさそうな柴崎の様子に観念するしかない湯島は、仕方なく自己紹介の口を開く。


「湯島昌一だ。しがない個人タクシードライバーだけどな。糞ガキのお守りなんて柄じゃねぇし、俺は優しくもねぇけど、宜しくやってくれや」


鬼瓦にも揶揄される容貌に険悪を塗し、ドスを聞かせた声音を投げる。

途端に膝を震わせ始めた結城の様子に、湯島は早々に見切りをつけ始めていた。こんな調子では、修羅場の一つや二つは潜り抜けねばならないだろうこの状況に耐えられるとは思えなかった。

湯島が手を引く事は出来なかったとしても、最悪、結城だけはこの事案からは外させる。

足手纏いは、お荷物だ。

そして、それ以上に、どうせ糞っ垂れな大人事情で引き摺り込まれたのだろうこんな子供を巻き込む訳にはいかないからだ。


後半の思慮は、余計だったと思い、自分の感情を鼻で笑う。

だが、不意に双眸を眇めた結城の瞳の奥にゆらりと熾き火のような何かが揺れたと思った瞬間には、湯島の耳朶を震える声が叩いていた。


「そんな人が彼女を守れるんですか?」


声変わりして間もないような幼い男の声――しかし、震えるその声には、自分ひとりでも彼女を守る、という明確な意思が、覚悟があるように湯島には感じられた。瞳の奥で揺れている意思の火に、湯島は思わず心の中で、お前もなのか、と問う。


絶望の闇の中、地獄を這いずり回る“負け犬”が、それでも無くせない“何か”。

“負け犬”ではあっても、畜生にまで堕ちる事の出来ない“何か”。


結城の瞳の中にその残滓、もしくは、萌芽を見たような気がした湯島は、呆けてしまっていた一瞬を取り繕うように、口元を緩ませた。


「糞ガキが」


小さく漏らしたその声が結城に届いたのかどうかは分からない。

ただ、瞳の奥で揺れていた感情の火も消え去って、戸惑いでしか揺れない黒円を見据えた湯島は、喉元を滑り落ちてきた覚悟の塊が、腹の中の納まるべき場所へ収まったのを感じた。

状況は、一から十まで全てがきな臭い。

こんな痩せっぽちの十五の糞ガキとバディを組むなんてのは、異常以外のなにものでもない。


ただそれでも――その十五歳の糞ガキが女を守りたいと言っているのに、それを見捨てられる程、まだ俺は腐っちゃいない。

“負け犬”だからこそ、畜生にまで堕ちる訳にはいかない。


それは男という性が紡ぎ出す徹底的に不器用な気概とも呼べない熱が導き出した想いだった。


「説明しろ、柴崎」


その覚悟が不意に十年近く前の教官だった頃の声音を湯島に言わせていた。

過去に戻ったように、今の立場も忘れて、踵を合わせて直立不動の姿勢になった柴崎の様子に内心で、まだ錆びていねぇみたいだな、と面映い想いを噛み潰した。


「二人に守って欲しい少女が彼女――桜坂彩さんです。私達が何としても守らなければならない少女です」


柴崎が言った少女が、この部屋の主なのだろう。その容貌を覗った湯島の感想は、眠り姫の一言に尽きる。

綺麗や可憐という言葉を容貌にすれば、こうなるのではないのか、と思う程に整い過ぎた容姿には、正直、溜息しか出ない。あと数年もすれば、絶世の、という形容詞が付いても可笑しくはない美少女だった。

だが、同時に湯島は彼女が元気な時にお目に掛かりたかったという感想を打ち消す事が出来ない。

衣服から覗く腕は湯島が少し力を入れただけで折れてしまいそうな程、細い。血色も悪く、彼女が意識不明になってから相当な時間が経っているだろう事が窺い知れた。


隣で同じように桜坂の顔を見詰める結城に浮かんだ表情は、湯島のそれよりも複雑な層を重ねて、刻苦で揺れていた。

彼女を守るという強い言葉とは正反対の、まるで彼女の視線を恐れているようにも見える事に、この二人はどういう関係なんだ、と下世話な想像が浮かんでくる。

取り敢えず、この場は、その想像を咳払いで誤魔化した湯島は、柴崎に向かって口を開く。


「しかし、このお譲ちゃんは、何の病気なんだ。ここに収容されている患者と同じ病気なんだろ?」

「湯島さん――SOF事件というのを聞いた事は?」

「一年前位に世間を騒がした事件だろ。約一万人のゲームプレイヤーが意識不明になったとか。つまり、ここにいる患者がそういう事なのか?」


無言を肯定に代える柴崎。

それならば、この年齢層の低さも納得出来る話ではある。


「事件から最初の一月で約二千人の人間が死亡してるわ。今でも月単位で数十人の人間が亡くなっている。プレイヤーはゲーム内に閉じ込められて、ゲームオーバーが実際の死に繋がるデスゲームを強制されているのよ」


初耳の事実を強く断定する柴崎の言。

詳しくは知らないが、開発元、医療機関、行政機関のいずれもが匙を投げてしまい、現状維持しか手段がないと耳にした事がある状況で、ゲーム内でデスゲームが行われていると断定する根拠は何なのか。

否、それよりも、桜坂を守るという任務の性質を照らし合わせて考えた時、非常に不味い問題がぶら下がってきた事に湯島は、呻くしかなかった。


「おいおい、まさか……」

「そう――つまり、ここにいる彼女だけではなく、仮想現実世界にいる彼女も守らなければならない」


聞きたくはなかった事実に湯島は目を覆った。

ただでさえ、意識不明の警護対象を守らなければならない状況の上、更にゲーム内の彼女も護衛しなければならないとは。

しかし、問題はその手段だ。

ゲーム内の彼女を守る為には、そのゲーム内に入るしか方法がない。

しかし、ゲーム外である現実世界からのあらゆる干渉が不可能な状況がそれを許さない。その対応策はあるのか、と湯島は、「どうやって?」と尋ねる。


「その答えは、私よりも結城君に答えて貰った方がいいわね」


柴崎の視線が向けられた結城が口を開く。



「僕は、そのログアウト不能のデスゲームになった《SOF》にある程度自由に出入り出来るから」





**





三、桜坂彩


SOF事件の概要を端的に説明すると以下になる。

約一年前、VRMMORPGとして一万本出荷された《ソード・オブ・フロンティア(SOF)》は、正式サービス開始と共にプレイヤーがログアウト不能という事態に陥った。

ハード機器である《プレイギア》を強制的に外したり、電源を落としたりすれば、強電磁パルスが脳を焼き切る為、ゲーム開始から数時間で多数の人間が死亡した。

事態を重く見た開発元であるジェネシス社、警察等の行政機関、そして医療機関は、プレイヤーの救出を行おうとするが、一年経過した現在も、それは叶わず、現在は自衛隊病院、警察病院が主となって、意識不明になったプレイヤー達を介護している状況である。

また、事件当初、無差別テロの可能性を鑑みて、公安が動いたが、主犯と思われるジェネシス社の主任開発者である帆場英志の自殺によって、その動きは見られなくなっている、が。


車の助手席に座る結城が《SOF》について説明し、自分の調べた内容と刷り合わせていた湯島は、《SOF》のゲーム内容に話が及びそうになったのを感じて、「ゲーム内容に興味はねぇ」と結城の説明を遮って、信号が青に変わるのを確認してから、アクセルを踏んだ。


「ったく。きな臭いなんてもんじゃねぇな、その《SOF》ってのは。見方によっちゃ、起こるべくして起こった事件だぞ、こいつは」

「どういう意味……ですか?」


説明を遮られた事に不貞腐れて尖った唇がそんな言葉を吐く。


「年上を敬うつもりがねぇなら、敬語なんかいらねぇよ」


ぴしゃりと言葉で小生意気な糞ガキの頬を打ってから、湯島は、「まず、警察が開発者の帆場による単独犯って決め付けているのが気にいらねぇ」と吐き捨てた。


「でも、開発者の帆場は、殆ど一人で《SOF》の基礎を作った上に、《プレイギア》の基礎理念も彼の功績による所が絶大なんだ。警察が帆場に目を付けても可笑しくはないと思うけど」

「だからって、《SOF》にしろ《プレイギア》にしろ、帆場一人で全てを作った訳じゃねぇだろ。それに国の行政機関だって、馬鹿じゃない。十分以上のテストもしているだろうし、確実な安全性が確認が出来ない以上、それを市販させるなんざあり得ねぇ。だが、現実にはこうやって一万人の人間が意識不明の重体に追い込まれ、更に三千人以上の人命が奪われている。それを販売させる何らかの圧力がかかったと見るのが適当だろうよ」

「圧力って……どうして?」


結城の疑問に「知るか」と応じた湯島に、まだ納得がいかないのか、考え込んでいる結城の横顔を見た。

多分に幼さを含んだその横顔に、この国が抱える闇に想像が及ぶと期待するのは無理があった。


土台、一夜で賛成と反対が入れ替わるような国なのだ。

経済大国という肩書きも失って久しく、戦勝国米国に追随する事を常態にして、自らで動く事も、言葉を発する事も、考える事も出来なくなった日本という国。

そんな国を作ってしまい、あまつさえ、隣に座る結城のような子供達にその国を託さなければならない不実が、重く肩に圧し掛かってくる。



そんな国だからこそ、俺達のような“猟犬”が必要なんだ。

決して日の当たらない闇の中で、泥を被り、血で血を洗いながら、畜生にも、狂犬にもならない、守るべき者を見据えた“猟犬”が。



過去に自分が言った言葉を数年振りに思い出してしまった湯島は、思わず奥歯を噛み締めた。

かつては、その言葉の中に言葉以上の重さがあった。だが、今は、その言葉すら風化して、湯島の胸の裡で無惨を晒すだけ。


「……俺達のいる防衛省治安情報局のやり口を少しでも知っていれば、何となく想像が付くだろ。俺達が足を突っ込んでいるのは、そういう場所なんだよ」


湯島の呟きに結城の表情にそれと分かる動揺が走るのが見えた。

例外中の例外で、防衛省治安情報局の非正規協力者に登用されたからには、身に覚えの一つや二つはあるのだろう。


「局が《SOF》事件前から“猟犬”を投入している事から見ても、この事案はまともじゃねぇ。それに俺も関わっちまった公費横領事件まで絡んでいるとなれば、きな臭いなんてものじゃ済まない」

「……本当にアヤ……いや、桜坂を……?」


苗字ではなく、下の名前で桜坂を呼んだ事に、二人の関係が微かに匂った気がしたものの、結城が続く言葉を呑み込んだ事に、湯島も無言でその消えた言葉を認めた。


「お前は、あのお嬢ちゃんの事をどのくらい知っているんだ?」

「ゲームの中で少しだけ。彼女の本名を知ったのも、あの病院が初めてだったから」


何とまあ。

彼女を守る、と体を恐怖で震わせながらもそう言い切った男の言葉とは思えない程に薄っぺらい関係だった。《SOF》というゲーム内容を知ろうとしない湯島の知識が浅はかなのか、そんな薄っぺらい関係にさえ己の全てを傾けてしまえる程、馬鹿なのか。

前者とも後者とも、もしくは両方とも言う事の出来ない結城の横顔を見詰め、「高嶺の花だぞ、あのお嬢ちゃんは」と下世話と承知で口にした。


「桜坂彩。年齢は十五歳。都内の名門女子中学に通っていて、家柄もあのサクラグループのご令嬢様と来たもんだ。容姿端麗、学校の成績は優秀な上にスポーツも抜群。性格についても悪い話は聞かなかったな。全く、面食いな事で」


鼻を鳴らして笑ったこちらの予想を裏切って、あからさまに不機嫌な表情を浮かべ、「どうやって彼女の事を調べたんだ?」と険のある声を向けてくる。

それはまるで、飼い主を守ろうとする犬のそれである。小さい犬程よく吼えるとは、この事をいうのかもしれない。

これ以上からかってもへそを曲げるだけだと思った湯島は、「これくらいなら、半日もあれば出来る」と嘯く事にした。

柴崎から引っ張り出した情報に、実際に彼女の通っている学校にそれてなく探りを入れた程度の内容だ。


「しかし、サクラグループのご令嬢様とはな。狙われるのは、その辺りの話だろうな」

「……身代金目的、とか?」


余りに安直な結城の言葉に湯島は、「まさか」と笑った。


「サクラグループは、流行のIT企業って側面もあるが、電子精密機器やらの製造業にも幅広く手を伸ばしてる。しかも、一部ではあるが、防衛産業にも手を伸ばしているらしいからな。局が絡んでいるのも、その辺りだろうな」

「防衛産業……?」

「果ては護衛艦から、果ては衣類まで。全国約二十五万人の自衛官の衣食住は勿論、武器・弾薬・装備品も賄うんだから、一企業なんか問題にならない程の金が動く」


だが、結城は軽蔑したように、「身代金みたいなもんじゃないか」と苦々しく呟いていた。

確かに、額は桁違いだが、損得勘定の下賎な算盤を弾く音が響く事に変わりはないだろう。ただ、本当に金だけが目当てだと言い切れるのだろうか。

柴崎の含んだ言い方や、湯島がこの事案に引っ張り込まれた理由を考えれば、局の公費横領疑惑も何らかの形で関わっているのは間違いないのだから、金が絡んでいるとは思えるが。


それだけでは済まされそうにない根深いきな臭さが終始漂っている事に、「まぁ、結局俺達に出来る事は、あのお嬢ちゃんを守る事だけだ」と敢えて気楽な声を出した。

スーツの内ポケットからタバコを取り出し、一本口に咥える。


「こうなっちまったら、一蓮托生。“負け犬”の意地を見せてやろうじゃねぇか」


ハンドルから左手を離し、拳を握って、軽く結城に突き出す。

それに瞳を瞬かせた結城は、「……車の中は、禁煙でお願いします」と呟いて、顔も見ずに拳を握って、軽くそれを湯島の拳に当てた。



可愛げのない糞ガキが。



口元を多少緩めて、湯島は柴崎が用意しているセーフハウスへ向けて、クラウンのアクセルを踏み込んだ。









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