第九章 影の思惑
朝議は酉の刻(午前10時)と昔からの慣例で決まっているのだが、まだ半数近くの者が姿を現さない。時間を守って来ている者も、半分はまだ眠っているような表情だ。
身体の弱い皇帝が半刻(約1時間)遅れる事はいつもの事なので、皆も時間通りに来る必要はない、と心のどこかで思っているのだ。とても国の政務を行おうとする行動ではない。
「これはこれは左大将どの。桃陵はいかがでございましたか?」
のんびりと現れた貴族の一人が、あてつけがましく声をかけてきた。
「ええ、南の方は春が早うございますな」
俊之もやんわりと受け答えた。
半刻を少し過ぎた頃、東賢皇帝が姿を現した。皆と同じように頭を下げながら、俊之は上座をちらりと盗み見る。
痩けた頬、血色の悪い肌、線の細い身体は今にも音を立てて折れてしまいそうだ。外見に関しては父の上皇よりも、むしろ桃陵の公直王に似ている。やはり血統がなせる技だろう。ただ公直王との大きな違いは、その殺気だったような眼光だ。矜持が高く、我の強い、傲慢ともいえる眼差し。この国の皇帝は自分なのだ、と言葉にしなくても目が語っている。「東賢」は「刀剣」にも繋がるので、その名前が余計に気性を荒くしているのではないか、などと言われていた。
実際、皇帝は朝議の場でありながら佩刀し、手には金の鞭を携えているのである。気に入らぬ事があれば、それを使って牽制するためだ。皇帝の気分を害して、鞭で打たれた近臣・女官の噂は絶えなかった。
「昨夜、管領安東殿より、五条大路にて盗賊が出没した、との報告がございました」
蔵人頭が口火を切った。いつもは怠惰な空気が流れている朝議が、一瞬色めきだった。賊が帝都の中心近くまで入ってきたことはなかったからだ。
「して、その場には今小路殿がおられたとか……」
その一言で、周囲の目が一斉に俊之に注がれた。皇帝もギョロリと彼に視線を向けた。
「そのような場所に何用で参られたのです?」
その問いに、俊之は口尻を釣り上げた。
「夜にわざわざ車を出す理由など、一つでございましょう。皇帝の前で、無粋な事とお聞きなさるのは控えて頂きたいものですな」
女か、と皆が好色な苦笑を漏らした。その言葉に皇帝も鼻を鳴らすと
「汚らわしい盗賊など、何の問題もない。ここは朕が統べる帝都であるぞ。皇土に生まれた民が、朕に弓矢を向けようはずもない。そのような輩には神仏が罰を与えるであろう」
神経質そうな高い声が、高らかにそう宣言した。皆も同意するように頭を下げる。俊之も勿論それにならったが、心の中では苦笑いをしていた。この皇帝の言葉を信用している者は、この場に誰一人いないのだ。
朝議を終え、廷臣がパラパラと自分の役所に戻っていくと
「私は今宵、小番なのですが、ご一緒する方はどなたでありましたかな?」
俊之は近くの貴族に、そう声をかけた。小番、というのは将軍が定めた禁裏小番制の事で、廷臣が交代で禁裏に詰める事を課しているのだ。理由は皇帝を終日監視するためである。常に佩刀し、鞭を持ち歩く皇帝である。その行状を心配しての制度だった。
「今宵は藤原公忠殿でございましょう」
「おお、そうでした。藤参議殿でしたな」
将軍に仕える公家家礼で、先日将軍への橋渡しをしてくれた相手。俊之は末広で隠した口元に笑みを浮かべた。
その夜、仙洞御所では、内々に一人の貴族を招き入れた。
「こちらへ……」
匂当内侍が手燭で足元を照らしながら、声を潜めて案内した。彼女は今年二十五才。十七の時に内裏に内侍として入ったのだが、東永上皇の目に止まり、鶴の一声で仙洞御所の内侍となった。その後は順調に出世し、今では内侍を纏める匂当内侍となった。美貌と教養の高さ、そして上皇の寵を受けている事で有名だった。
その夜は、上皇は当代一と名高い琵琶の名手、善覚検校を呼んで物語を語らせ、草子を読み、近臣と酒宴を開いている事は既に広まっていた。
俊之は南池の石橋を渡った所にある崇光亭と名付けられた、庭の眺めるために作られた邸宅で待つように言われていた。
風に乗って琵琶の音が聞こえてくる。当代一とうたわれるだけあって音曲に興味を持たない彼にも、その腕の確かさはよくわかる。だが、俊之には聞き慣れた晶子が奏でる琵琶の音のほうが耳に心地良く感じた。
「待たせたのう、今小路殿」
低く厚みのある声。匂当内侍の案内で上皇が抜け出してきたのだ。「殿」をつけてはいるが、最初から若造と見下しているのは一声聞いただけでもわかる。相手を見下し、自分の立場を優位に示そうとするところは、この親子はよく似ていた。が、体型は全く似ていない。丸みを帯びた身体、蝋燭の灯で見ただけでもわかる血色のよいつやつやした肌。息子とは正反対だ。一見すると好々爺にも見えるが、刀で薄く切り込みを入れただけのような薄い口元は、狡猾そうだった。
「上皇様、御自らお出で頂き、恐悦至極に存じます」
「なかなか座を離れられなくてのう」
「この場にも琵琶の音が聞こえて参りました。さすがは当代一と名高い検校殿でございます」
「そなたの妹御も中々の腕とか……おお、すまぬ。これは禁句であったのう」
「これは異な事を。上皇様に禁じられるものがあるとは思えませぬ」
上皇は満足気な薄ら笑いを浮かべた。
「匂当内侍さまより、お口添え頂きました件でございますが……」
「うむ。早速見せてもらおうかの。朕も長く座を離れるわけにいかぬゆえ」
俊之は懐ろから大事そうに桐箱を取り出し、それを差し出した。相手がゴクリ、と唾を呑む音が聞こえてきた。おそらくは上皇ですら、この絵巻物を目にする事は初めてだろう。
薄明るい蝋燭の灯の下、現れたのは極彩色の絵。上皇だけではなく、その場に控えていた匂当内侍も息を呑んだ。
「……江談抄絵巻……素晴らしい……見事じゃ」
「桃陵がずっと秘蔵していた宝です。窮地に陥りながらも、これだけはと秘蔵していた宝を上皇様に献上するのも、ひとえに所領を失いたくない一心……この様な形になっているとはいえ、桃陵はおそれながら上皇様とも血縁のある一族です。今更大それた望みは持ってもおりませぬが、恥ずかしくない体裁を保ち、体面を守るためにも、せめて所領は失いたくはございません。桃陵がもの笑いのタネになる事は、ひいては同じ血族の上皇様にもご迷惑をおかけしますゆえ……」
「……公直王の容体は、それ程悪いのかの?」
「……あくまでも私の見解ではございますが……今年の桜を愛でる事はありますまい」
しん、と静まり返った空気が流れた。蝋燭の芯がジリジリを燃える、微かな音だけが響いていた。
「……公直王に告げるが良い。これほどの家宝を朕に下さるのは悦喜の極みである、安堵されよ、と。朕のほうからも桃陵に書面をお送り致そう」
「有り難きお言葉でございます。公直王もさぞ、お喜びなされましょう」
そう言うと、俊之は深々と頭を下げた。
崇光亭から戻った上皇は近臣達の所へは戻らずに、寝殿で蝋燭の灯の下、飽きる事なく絵巻を眺めていた。
「ずっとご覧になって、お疲れになりませんか?」
匂当内侍が、そう声をかけた。
「この絵巻は父上から聞いておったが、これほど見事な物とはのう……それにしても、桃陵に追いやられてもなお、叔父の真光皇帝はこの絵巻だけは手放そうとはせなんだが……余程、桃陵は苦しいらしいの」
「……時期王となられる公富親王様は、随分と博奕にご執心とか……」
「全く、哀れな事よの」
くっくっと喉で嘲るように笑いながら上皇は呟いた。
皆の様子を見て参ります、と匂当内侍はその場を離れ、簀子を渡っていった。主がいなくても宴はたけなわで、女官達が忙しく動き回り、中には酒の勢いに任せて、戯れている輩もいる。こうなってしまったら貴族も民も変わらない。
酒の臭いが嫌いな彼女は、見回りをしてくると言い、そっとその場を離れ、南池を見渡せる細殿を歩いて行った。
その時。物音一つせず、誰もいないはずの蔀戸の影から手が伸びてきて、彼女は強い力で中に引き入れられた。突然の事で声を上げることすらできなかった。
「……お待ち申しておりました」
低い囁くような声が、すぐ耳元で聞こえた。思わず彼女は微笑んだ。
「もしも、他の女官だったら、どうするおつもりでしたの?」
密やかな声でそう言い、相手の頬を撫でるように触れた。相手は小さく笑ったようだった。
「私が、貴女と他の女官の香を間違えるとお思いか?……お会いしとうございました」
「先ほど会いましたわ」
「そのような事ではございません」
俊之はそう言うと、彼女の単衣を広げ、袴の紐に手をかけた。匂当内侍も相手の髪に手をやり、笄を外すと
「……大胆な方。ここがどこだかご存じでしょう?先日、この御所の内侍に手を出した青侍が、上皇様の怒りを買って、その日のうちに罷免されたばかりですのよ?」
「私を青侍と一緒にするとは心外ですね」
そう言い、唇を重ねる。彼女もすぐに彼に答えた。灯り一つ無い廂の中、手で探り合うように影が重なる。遠くの浮かれた喧噪が、別の世界の物音のように響いていた。
久々に書いたら長くなりました。
もう少しコンスタントに書けるようにしたいのですが、なかなか上手くいきません……もうすく話の中の季節になりそうです。