第七章 揺らぐ焔
微かな花の香りが、鼻先をくすぐった。目を閉じてウトウトと微睡んでいた晶子は目を開き、そっと首を巡らせる。近くに女官達の気配はない。
香りは寝殿へと繋がる渡殿の方から漂ってくる。彼女は重い頭を上げ、小袿を羽織ると足元を確かめるように進み、渡殿に出ると一旦、膝をついた。そして香りのする方向へ手を伸ばしながら、ゆっくりと進む。ふと指先に何かが当たった。確かめてみると、それは切った竹を筒がわりにして入れられた山茶花。
「……高弘」
どこへともなく声を掛ける。まるで呼ばれる事を知っていたかのように、直垂姿の彼が砂利を踏んで現れ、膝をついた。
「どこまで行ってきたの?これは山茶花でしょう?香りがするから、野の物よね?」
「はい、北山まで……」
「この寒い中、大変だったでしょう?」
「韋陀丸で向かいましたので、すぐに戻って参れました」
「そなたは、本当にいつも気遣ってくれるわね……」
晶子はどこか哀しそうな声で、そう呟いた。が、すぐに気を取り直すように
「童の頃、よくそなたに遠乗りに連れて行ってくれ、とせがんで困らせたわね。今にして思えば、ムリヤリにでも言って、一度外に出してもらえば良かったわ」
「……」
今度は高弘の方が、返答に困ったように黙り込んだ。それに気づいて
「……高弘、人というものは、やはり己が頂点に立ちたいと望むものなのかしら?」
彼女は素早く話題を変えた。
「己の度量に自信のある者は、それを望みましょう」
「……この前、神託を行った時……義基公が降りられたでしょう。口で語った事以上に、強い思いを残しておられた。
……何故、自分がこのような目に合ったのか。兄より自分の方が、余程将軍に相応しいのに。私なら兄よりも、もっと上手く、この世を統べる才覚があるのに……何故、自分より劣っている兄に、この私が葬られたのか。ならば私が、兄が無能であることを知らしめてみせよう。
……この恨みが一番強かった、口で語った事よりも……私にはわかるの。……浅ましいわね、人は死んでもなお偽りを口にするものなのね」
「晶子さま!……それ以上はお控え下さい」
「そなたは、どうなのです?」
「……は?」
「家の汚名を雪いで、復興させたい、とは思わないの?」
「……私は、満足しております。本来ならば、既にこの世に存在していない者だったのですから」
「……そうね、この話は禁句だったわね」
不意に彼女は背後を振り返った。
「誰かが来る気配がするわ。もう戻ります。お花を有難う」
そう言うと、音もなく立ち上がり、竹筒を大事そうに持って御簾の向こうへと消えた。
高弘はゆっくりと立ち上がると、侍所へと足を向ける。晶子と会った後は、何ともいえない空虚な心持ちがした。幼い頃から見知っているので、彼女は今でも昔と変わらず兄に対するような親しみを向けてくれる。だが、実際は自分と晶子の間は天と地ほどの開きがあるのだ。
汚名を雪ぎ、家を復興させる。それを全く望んでいないわけではない。今でこそ阿野の姓を名乗ってはいるが、かつては御所侍として天皇、上皇からの信頼も厚く、禁衛を許された結城の一族。他の武家とは一線を画す家柄だった。あの事件が起こるまでは。
彼は唇を噛みしめた。自分だけが生き残っただけでも、神仏に感謝していた。少なくとも、自分が生きている限り、結城の血は絶えることはない。だが、偽りの名を語り、汚名を背負ったまま、さらに罪を重ねて、どんな行く末があるのだろう。
本気で家を復興させるのならば、ここで家人などせず、どこかの守護大名について、名を上げる事を考えた方が良いのだ。当代将軍義重公は先代と違って、公家より武家を重んじているのだから。それはよくわかっていた。
思わず、彼は首を横に振った。
考えたところで仕方がない事だ。自分の使命は、晶子の側にいて、目となり、彼女を守る事。幼い頃に、そう心に決めて誓った。それが、自分が犯してしまった最も大きな罪……彼女から光を奪うという罪を贖う唯一の方法なのだから。
暫く書いていなかったうちに、すっかり季節が逆転してしまいました……このままいけば、冬に夏の話を書いている気がします……