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第六章 嵐の前

 桃陵御所を立つ前に、俊之は常盤御所を訪れていた。が、主である公富親王は中々姿を現さない。予想はついていたので、気長に待っていると、どこからともなく梅の香が漂ってきた。帝都より南に位置する桃陵は、春の訪れも早いらしい。

 丁度その時、落ち着かない足音が聞こえてきた。彼は深々と頭を下げ、その足音の主を待った。

「そなたが、私のご機嫌伺いとは、珍しいこともあるものよの。嵐でも、来るのかの。それとも、父上の容体が、あまり芳しくないゆえ、見限りをつけて、しっぽを振りに参ったか?」

「そのような事を軽々しくおっしゃるものではございません。御身の為になりませぬ」

 朝から既に酒の臭いがする。今まで浴びるように呑みながら、博奕に興じていたのだろう。公富親王は、ふんと鼻を鳴らすと、崩れるように大紋縁だいもんべりの畳二畳が敷かれ、その上にせん(毛織の敷物)を敷いた所に腰を下ろした。そして、すがるように脇息にもたれると。

「で、私に何用じゃ?」

「本日、桃陵御所をお暇させて頂きますゆえ、そのご挨拶に参りました」

「それだけか。くだらぬ」

 そう言って立ち上がろうとする相手に

「公富様はいずれ、この桃陵朝を背負われる御方。礼儀をつくすのは当然の事かと」

 淡々とした口調で、そう告げた。すると相手は皮肉めいた微笑を浮かべた。

しとね(綿入れの敷物)すら入手できず、こうして氈を敷いているような、困窮した朝に価値があるのか?まして、この朝を背負うて何になる?将軍や皇帝に睨まれたら最後、簡単に絶たれてしまう、浮き草のような朝ではないか。きゃつらは気まぐれぞ。ほんの気分一つで、この朝は消されてしまうであろう」

「皇太子ともあろう御方のお言葉とは思えませぬ」

「皇太子だからこそ、事実を申しておる。父上のような愚かな夢を抱かぬだけ、私は冷静ぞ。望みの薄い夢を見て、それが完全に絶たれた時の悲惨さは目も当てられぬ。この朝は、先代、私の祖父にあたる真光皇帝しんこうこうていが、この地に追いやられた時点で、既に決まっておる。全ては御所侍だった結城を信用したゆえの愚行から始まった。血生臭く、汚らわしい武家など信用した祖父が愚かだったのよ」

 ふらりと立ち上がると、公富親王はにやりと笑い

「まだ、勝負の途中ゆえ、もうよかろう。そなたも、愚かな夢など見ぬ事だ。それと、私がこの朝の王位についたあかつきには、今まで通り、我が物顔で、この御所を歩くことはできなくなるぞ。そなたも、先々の事を考えておくのだな」

 軽やかな笑い声を上げ、おぼつかない足取りのまま出て行った。遠ざかる足音を聞きながら、俊之は顔を上げた。

 公富親王は、ふざけた振る舞いこそしているが、非常に怜悧だ。ある意味、今の現状をよく把握している。そういう意味では、どこかお人好しな部分のある公雅親王より、王に相応しいといえた。だからこそ、それが惜しくもあり、また、やっかいでもあった。

 俊之は立ち上がると、簀子を歩いて寝殿へと向かう。昨夜のご様子を見る限り、公直王は確かに余り長くはもたれないだろう。

「……今こそが、契機なのかもしれぬな……」

 彼はそう低く呟いていた。


 今小路家の台盤所では端女達が忙しく動いていた。

「今宵は俊之様がお戻りゆえ、配膳を間違えぬように」

「姫様は、まだお食事が召し上がれるゆえ、薄い粥の用意を」

 この邸宅で暮らす人々の全ての食事を用意しなければならないので、朝から常に火の車のような慌ただしさだ。その外で、野菜を洗っていた数人の若い端女の一人が

「……それにしても、気味が悪いと思わないか?」

 と仲間の一人にそう声をかけた。

「何がだ?」

「姫様だよ。神託など……結局は怨霊をその身に降ろしているのだろ?……この家は摂関家の流れをくむというではないか。その姫様が巫女のような真似など……ああ、恐ろしい」

「しっ……!それは口にしてはならぬぞ!誰かに聞かれでもしたら追い出されるぞ、安栗。いや……追い出されるならまだしも……」

 相手が青い顔をしてそう言うと、さりげなく周囲を見回した。安栗は頬を膨らませると

「あほらしい。事実を言うて、何が悪いのだ」

 と開き直って答えた。彼女は年の頃なら十五。この邸宅で働き始めて、まだ三月ばかりである。

「そなたは子供ゆえ、怖い物しらずだよ」

 それに対して何か言おうを口を開きかけた時、彼女はふと目を止めた。

「高弘どの!」

 馬を引いて歩いている彼にそう声をかけると、安栗は野菜を桶の中に放り込んで、彼の側へと駆けて行った。

「どちらへ行くのだ?」

「北山の方へ、所用で行って参る」

「丁度良かった。あたしも使いで市まで行かねばならぬゆえ、乗せて行ってはくれぬか?」

「市と北山は逆方向であろう」

「馬で駆ければ、方向など問題あるまい。急ぎの用事なのだ」

 彼は嘆息をつくと「ついて参れ」と先に立って歩き出した。その後を嬉しそうに、安栗は飛び跳ねるような軽い足取りでついて行く。それを見て、仲間の端女は、やれやれと言わんばかりに首を横に振った。


「起き上がれるようになりましたか、良かったこと」

 東の対を訪れた対御方は、上半身を起こして薬湯を飲んでいる晶子を見て、安堵したように言った。

「はい。お義母様には、ご心配をおかけして申し訳ございません」

「何を申す。娘の心配をするのは当然の事ですよ。さあ、無理をせず横におなりなさい」

 そう言って、いそいそと娘の枕元に腰を下ろした。

「ほんに、こんな時に俊之は出かけるなど……」

「仕方ありませんわ。泰家殿が、そう答申したのですから」

「そなたはそう言って、いつも兄を庇うのが、私にはわかりませんよ。このような辛い思いをさせられているのに」

「お兄様は良いお兄様ですわ、お義母様。お兄様なりに、いつも気遣って下さいます。毎年、年が明けると楽人を呼んで、楽舞をさせるでしょう?あれとて、私への気遣いですわ。お兄様は楽には興味を持っておられないのですもの。それでも最後まで、私に付き合うてくれます。随分、退屈そうですけれど」

 晶子は小さく笑った。その表情を見ると、対御方もそれ以上は言えなくなり

「……まあ、それはそうでしょうけど」

 と、同意せざるを得ない。だが、彼女には、それが兄の妹への気遣いをいうよりは、せめてもの罪滅ぼしとしか思えなかった。それを晶子に伝えたところで、仕方がないのだが。それに、そうする事は妹への謝罪や感謝する思いがあるのかもしれない。

(それにしても、おかしな兄妹だこと……)

 対御方は、俊之、晶子を見ていると、いつもこの結論に達する。血の繋がりはないとはいえ、二人が幼い頃から親子として暮らしてきたが、彼女からみると二人は仲が良いのか悪いのか、よくわからない兄妹だった。

  

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