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第五章 続・桃陵《とうりょう》の主

 寝殿の方では、まだ賑やかな声が微かに聞こえて来る。戌の刻(午後八時)、俊之は二条局に呼ばれて、公直王のいる常御所へと向かった。二条局は、公直王の側妾である。彼は正室との間に公富を俊之の叔母にあたる近衛局との間に公雅をもうけたが、その二人の妻は既に故人となっている。

 常御所の南面の二間に御簾が垂らされ、大床には高灯台二本が立っていた。御簾の向こうにも灯台が置かれ、床の上から上半身だけを起こしている人物の姿を映していた。

「……俊之か」

 擦れた、力のない枯れ枝のような声。座についた俊之は、深々と頭を下げると

「はい。今小路俊之でございます」

「……このような見苦しい姿ですまぬな」

「滅相もございません。むしろ、ご無理をさせてしまって、申し訳もございません」

 王は乾いた咳をした。話をするのも身体に応えるようだった。

「余りお時間を頂いて、お体に負担をかけたくはございません。早速ではございますが、先月お話させて頂いた件、ご検討頂けましたでしょうか?」

 相手は暫し、沈黙していたが、やがて小さな嘆息を漏らし、傍らの二条局に向かって

「……あれを」

 と短く呟いた。彼女は頭を下げると、しずしずと俊之の前に一つの桐箱を差し出した。彼は失礼して、その場で丁寧に紐を解き、箱を開ける。中に入っていたのは一本の絵巻。それを手にして、床に置くと、静かに開いた。

「……確かに、家宝の『江談抄絵巻』に相違ございませんな」

 蝋燭の茜色を帯びた灯の中、鮮やかな極彩色の、技巧を凝らした絵がそこには広がっていた。それは三百年程前、この王朝がまだ一つであった時代、当時の皇帝の命によって制作された物だった。異国へ渡ったこの国の使者が帰国するまでの冒険譚であり、話の内容は奇想天外な物だが、当時の朝廷の儀式や、異国の風物の様子などが豪奢に描かれている。

「……この家宝を手放すのだ。所領の保証は必ず貰えるのであろうな。私が身罷った後、所領を奪われ、この桃陵朝までも絶たれては、話にならぬぞ」

「王、そのような心弱い事を!」

 思わず二条局が声を出した。それを制し

「今は気休めや慰めを聞いている時ではないのだ」

 と殊の外、はっきりとした声で諭した。

「無論、そうならぬよう、この家宝を上皇様に進呈するのです。『皇帝』ではなく『上皇』に」

 淡々と俊之は答えると、絵巻を丁寧に巻き戻し、桐箱の中に収めると、それを大切に懐へと仕舞い込んだ。

「……東永とうえい上皇と、東賢とうけん皇帝の仲は、実の親子でありながら、それ程までに悪化しておるのか?」

「はい。昨年、上皇が皇帝に何の断りも相談もなく、勝手に次期皇帝候補の皇太子として、皇帝の弟君の広沢宮ひろさわのみやを立てられてから、既に破綻していると申しても過言ではございません。

 勿論、皇帝は今年三十になったばかり。普通ならば皇子の一人や二人、まだまだ望めますが、皇帝は気丈なご気質とは裏腹に、お体が大変お弱いお方。ご正室を含め、五人の妻妾をお持ちでありながら、誰一人としてお子を授かってはおりませぬ。このままでは、ご自分の血統が絶たれてしまう、と上皇は恐れて、弟宮を立っされたのですが……それが皇帝の矜持をいたく傷つけたようです。それでなくとも、天下の利権は鬼頭将軍と上皇に奪われているというのに、その上、男としても不能と言われたようなものですゆえ……」

「煩わしい事よの……」

「せめて弟宮が、文句のつけようもないくらい優秀な方ならばともかく、広沢宮は昔から奇行が噂され、今でも御所から遠く離れた広沢御所にほぼ蟄居されている状態。そのような方を、自分の後の皇帝に、などと言われても、納得しろというほうがご無理でございましょう」

 黙って聞いていた公直王は、深々と溜息をついた。

「……皮肉なものよの……私と上皇、反目しあう仲でありながら、悩みは同じ子供の事とは……」

「であるからこそ、こちらとしても動きやすいのでございます。皇帝は目の上のコブでもある桃陵朝をつぶしたい。己が身を危うくしている存在ですゆえ。上皇としても思いは同じ。しかし、この朝をつぶせば、皇帝の権威は一気に上がりますゆえ、下手をすれば己の天下の利権も皇帝に奪われかねない……むしろ、西統せいとうが動き出している以上、桃陵には恩を売って味方につけておいた方が得策と考えられたのでしょう。何のかのと申しましても、桃陵はご自分と同じ、東統とうとうの直系でありますから」

 灯心のじりじりと燃える、静かな音だけが辺りを包んでいた。時折、思い出したように寝殿の方から賑やかな声が聞こえてくる。が、それは余りに明るい声だったので、逆に現実感が無かった。

 公直王は、再び嘆息をついた。俊之は、目の前の王からは嘆息しか聞いた事がないような気がする。諦めたような、人生を達観してしまっているような。

「……私の代では、皇位に返り咲く事はできなんだ。いや、子孫が就く事も難しかろう。私はこの桃陵で生まれ、この地に眠る事となる。帝都に戻り、再び帝位に、と望んだ父上の望みは叶えてやれなんだ……それどころか、大事な家宝を差し出して、桃陵の存続を頼む始末……これも運命であろう」

「運命とは、己が才覚で引き寄せるものでございます」

 あっさりと、だがはっきりとした口調で俊之は告げた。御簾の向こうから驚いたような視線が投げかけられた。

「今はただ、お預けするだけでございます。後々、必ず返して頂きましょう。この絵巻も、無論、帝位も」

 そう告げると、俊之は冷ややかに微笑んだ。それを見て、微かに公直王も笑みを漏らしたようだった。

「……そなたが、もっと早う、生まれていてくれたらの……」

 独り言のように呟くと、乾いた咳を零した。二条局が慌てて御簾の中へと入り、王を横に伏せさせた。

「……その絵巻は、そなたに任せよう……」

「既に、上皇の御座所の仙洞御所にお仕えしている匂当内侍こうとうのないし様に取次を依頼し、良い返事を頂いております。どうぞご安心を」

 深々と頭を下げると、俊之は立ち上がった。常御所を去るまで、ずっと背後から消え入りそうな公直王のか細い咳の声が、縋るように聞こえてきていた。

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