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第四章 桃陵《とうりょう》の主

 翌日の辰の刻頃、俊之は東の対を訪れた。この日は昨日までの冷え込みが嘘のように、日差しが暖かくすら感じる。出かけるのなら絶好の日和と言えた。

 晶子の枕元に座っていた一人の女官が、彼の姿を見て慌てて頭を下げ、座を外した。彼が代わりにそこへ腰を下ろすと、ふと目の前の手水に指を入れ

「ぬるくなっておる。替えてまいれ」

 そう告げた。女官は一言返事をすると、手水を手にして出て行った。誰の姿も無くなってから、彼はそっと妹の額に手を乗せる。まだまだ熱が高い。すると

「……お兄様?」

 囁くような声がした。慌てて手を離すと、彼女はうっすらと目を開けている。

「……起こしてしまったか」

「いいえ。少しウトウトしていただけです」

 そう返して、やんわりと微笑む。だが、その表情には疲労の影が濃い。

「そなたが、このような時にすまぬが、私はこれから桃陵に行かねばならぬ。泰家が桃陵を訪れるのならば、本日の巳の刻が良い、と答申したのでな」

「さようでございますか」

「あちらにも余り負担はかけとうないゆえ、明日の未の刻までには戻る。案ずるな」

「……公雅きんまさ様によろしくお伝え下さいませ。それと公富きんとみ親王様に、ご趣味もほどほどに、と……」

「驚いたの……そんな事まで、そなたの耳に届いていたのか」

「悪事千里を走ると申しましょう?悪い噂ほど、人の耳に入りやすいものですから」

 そこで晶子は言葉を切った。そして小さく吐息をつく。長話をするのは、まだ辛そうだった。

「暫くはゆるりと休むがよい。そなたは良い仕事をしてくれた」

 そう言って、立ち上がろうとした俊之の袖を、晶子はそっと掴むと

「……お兄様、高弘を連れて行って下さいませ。外は何やら不穏な空気が漂っているのでしょう?」

 心配そうに告げた。その妹の顔を見下ろして

「だからこそ、あれにはここにとどまってもらう。案ずるな。私なら大事ない。そなたはゆっくり休んでおれば良い」

 柔らかな口調でそう答えると、彼は妹の手をそっと離した。

 女官が手水を手にして戻ってきた時、既に俊之の姿は無く、晶子は静かな寝息を立てていた。


 帝都より南に位置する桃陵は、田園の広がる長閑な里である。

 昔から、この風光明媚な土地を愛されて、山荘(別荘)や都人ゆかりの寺々が営まれた。また、港へと繋がる要所の地として、人や物流の盛んな場所でもある。

 そこへ、とあるやんごとなき人々が住まうようになったのは、今から約六十年前のことである。「桃陵御所」と呼ばれるその建物は、帝都の物と比べるとこぢんまりとしていたが、その代わり貴賤上下の分け隔てなく、様々な人々が出入りする賑やかな場所だった。

 ことに正月が明けてからというもの、連日のように御所で祝言の風流松柏(仮装したおはやし)が催されていた。この桃陵庄では、各村の庄民達による風流松柏の競合があり、それぞれに工夫をして、いろいろな仮装や意匠をこらした作り物や踊りの振り付けをする。それを見物しに、周辺の人々がやってくるのだ。御所の主も毎年これを楽しみにしており、松柏を披露した者には苦しい計会ながらも、菓子(木の実)や酒樽を与え、特に優れていた者には梅花と称した、穴あき銭で作られた花を与えた。

 桃陵御所の主である公直きんなお王は年が明けて五十八。だが昨年から体調を崩しており、正月も常御所(居室)の床の中で過ごしていた。代わりに第二皇子である公雅親王が、寝殿の庭で、この遊興の判者をしていた。

「おお、俊之。よう参ったな」

 人々が披露する松柏をにこにこと破顔しながら眺めていた公雅は、彼の姿を見てそう声を掛けた。

「新年のご挨拶を兼ねて参上致しました」

「堅苦しい挨拶は良い。新しい年の祝いじゃ。そなたも楽しむが良い」

「あいにく私は、楽舞は疎うございます」

「やれやれ。それでは音曲の今小路の名が泣くぞ」

 苦笑いをしながら、俊之は彼の傍らに腰を下ろした。公雅の母と俊之、晶子の母は同母の姉妹なので、彼らは従兄弟同士にあたる。特に公雅は、八歳から十八歳まで、今小路家で養育された。そのため俊之、晶子とは幼い頃から見知った仲である。そのせいか、立場でいうなら主従だが、お互い気兼ねのない関係だ。

「そういえば、奥方様はご懐妊中とか。おめでとうございます」

「うむ。次は是非に皇子をと願っておるがの」

 公雅には既に三人の姫がいる。彼も今年で二十八。そろそろ皇子をという願いは強いのだろう。

「……ところで公富親王さまは、相変わらずでございますか?」

 その名前が出た途端、公雅の表情が曇った。

「うむ……あれは、もう病よの」

 あれ、というのは博奕である。彼の異母兄の公富は、数年前からすっかり賭け事の虜になり、連日連夜、昼夜もとわずに自分の居室でもある常盤御所で博奕の会を催しているのだ。そういった所には、当然うさんくさい連中も出入りする。父親の公直王もさすがに頭を痛めていた。

「……父上のお具合も決してよくはない。本当は、この催しも今年は見合わせようかと話していたのだが、民が楽しみにしている事でもあるし、それに毎年行っている事を中止すれば、父上の病状が悪い事をわざわざ流布するようなものだから、と例年通りに催した。……だが、兄上にはそろそろ自嘲して頂きたいし、そう進言しているのだがの……それより」

 彼は話題を反らすように明るい声で

「晶子どのは息災か?今年で十七であったの」

「はい、つつがなく過ごしております。公雅さまによろしくと申しておりました」

「さぞ美しくなったであろう。童の頃から愛らしい姫君だった」

「……その妹と、義母の事で公雅さまにお願いがございます。今年の春くらいから、暫くこちらで預かって頂けませんでしょうか?……できるなら秋の終わりまで」

 驚いたように公雅は彼に目を向けた。

「何かあったのか?」

「今はまだ何も。ですが、これから起こるやもしれませぬゆえ、こちらで預かって頂きたいのです。無論、ご迷惑にはならぬよう、こちらでも配慮致しますゆえ」

 公雅は無言のまま、暫く俊之を見つめていたが

「そなたの事ゆえ、思惑があっての事だろう。まあ、良い。今は聞かぬとしよう。晶子どのは琵琶の名手。楽しみが出来たと思っておこう」

「有難うございます」

 俊之は深々と頭を下げた。

 目の前では賑やかな遊興が続いている。だが、その隙間をぬって、黒い影が忍び込んできているように彼には感じられた。

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