第三章 神であり鬼であるもの
今小路の屋敷では北対の主は不在となっている。
ゆえに、その対に普段は人影は無いのだが、この夜ばかりは人が忙しく出入りしていた。
屏風も几帳もない、がらんとした室内には五色の御幣が飾られた祭壇が組まれ、なにやら物々しい空気が犇めいていた。
祭壇の前には、狩衣姿の四十半ばの神経質そうな男が座っている。陰陽師、土御門泰家だ。簀子には高弘が梓弓を手にして控えていた。
亥の刻が近づいてきた時。衣擦れの音が北対に近づいてきた。乳母の志摩に伴われて現れたのは、白の袿、白の袴姿の晶子だ。土御門泰家は深々と頭を下げ、彼女が御幣に囲まれた祭壇に座るのを待った。
志摩が対から下がってから、晶子は静かな表情で手を合わせる。その手首には白い紐が巻かれていた。それは将軍・義重が髪を結うために使っていたものだった。
「……刻限となりましたゆえ、始めましょう」
低く、すこしかすれた声で泰家が言うと、彼女は小さく頷いて目を閉じた。
泰家は数珠を鳴らし、呪を唱え始める。その低い声が、静まりかえった室内に、まるで経のように周囲に流れた。
やがて、妙な静けさが忍び寄るように辺りを埋め尽くしてきた。高弘は背中に、冷たい物を感じた。それは冬の夜の空気の冷たさとは、明らかに違うもの。違和感すら覚える静けさの中、泰家の声はとどまる事を知らぬように、淡々と流れていく。まるで、室内に声によって結界を張り巡らせているかのように。
ふいに晶子の身体が、小さく揺れ始めた。それを見て、泰家の声は強く、勢いを増していく。やがて舟を漕いでいるかのように身体が大きく揺れ始め、突然、がくりと首を垂れた。それを見て、泰家は呪を唱える事を止めた。
水を打ったような静寂。異質な空気が漂う中、泰家は静かに口を開いた。
「……何故、将軍に憑かれられた。思うところがあるならば、この機に申されよ」
やがて彼女が微かに顔を上げた。乱れた髪に覆われ、表情こそ見えないが、その口から漏れたのは、明らかに男の声だった。
『……憎や……憎や……兄上。我を謀って殺しただけでは飽き足らず、我が幼子の命まで……』
「……義基公であらせられるか」
『……嫡男千代丸は六歳……万福丸はわずか二歳ぞ……兄から見れば甥に当たる幼子を……まるで虫けらのように……』
ギリリ、と歯ぎしりをする音がした。続けて。
『……我に言われ無き謀反の疑いをかけた事とて、我をただ暗殺するための方便……兄は……兄は、父が寵愛された私を憎んでいただけよ……ただの私怨ではないか……それを私ばかりか、我が子の命まで……!』
「静まれよ。そのままでは御身は怨霊と成りはてましょうぞ」
『構わぬ……この恨み、地獄の業火に焼かれてもなお、消える事はない。……兄こそが暗主である事を我が示してみせようぞ!地の底よりの使者が、この天地を覆い、この世は地獄と化すであろう。己の罪の報いを受けるが良い!』
そう言い放つと、狂ったようなけたたましい笑い声を上げた。
男の声が生き生きと生彩に満ちあふれてきたのに対し、晶子の身体は小刻みに震え、既に肩で息をしている。それを見て、泰家は再び数珠を鳴らし、呪を唱え始めた。途端に乱れた髪からわずかに見える口元が、激しい苦痛を感じたかのように歪んだ。
『止めよ……陰陽師風情が無礼な……我は、この世を統べる大樹(将軍家)の血族ぞ!』
そう言い、立ち上がって身をよじらせ、爪を立てて身体を掻きむしり始めた。それを見ながら、泰家は声を強めていく。晶子の形の良い唇からは、憤怒のうめき声が漏れ始めた。と同時に、その身体から黒い煙のようなものが滲み出てきた。それは彼女の身体をまとわりつきながらも、どんどん濃く大きくなっていく。
「是大明王 無其處居 但住衆生 心相之中 急々如律令」
そう唱えたと同時に、黒煙は勢いよく立ち上り、天井で大きく歪曲すると強風のように御簾を巻き上げて外へと飛び出した。泰家はすかさず懐ろから符を取り出し、それに短い呪を唱えて息を吹きかける。そして黒煙が飛んで行った方向へ符を投げると、それはひらりと回転した瞬間、白い鷹に姿を変え、その後を追って飛んで行った。
しん、と静まりかえった室内に、かたり、という音がした。気を失った晶子の身体が大きく傾いた。泰家が腰を浮かせるよりも早く、床を蹴る音がした。高弘が、彼女が床の上に倒れるよりも早く身体を支え、抱き上げると祭壇を蹴散らすように北対を飛び出して行った。
腕の中の彼女は、まるで虫の息だ。身体は衣をまとっていても手に伝わってくるくらい熱い。彼は足早に東対へと向かった。
「姫様!」
女官達が悲鳴混じりの声をあげる。おろおろと右往左往するところへ
「早う夜具の所へ!衣を出来るだけ用意なさい!くみたての水を入れた手水の用意を!あとは熱冷ましの蘇合(薬)を!誰か人をやって保光院の医僧の浄耆を呼びに行かせなさい!休んでいるでしょうが、叩き起こしてでも連れてくるよう言いつけなさい!」
そうてきぱきをと指示を出したのは、対御方だ。宮仕えをしていただけあり、彼女は不測の事態の対処法は心得ていた。
一通りの指示を出し、女官達がそれに添って動き始めるのを確認して、ふと対御方は高弘に目を止めた。そして眦を上げると
「何をしておる!早うお下がり!ここはお前がいて良い場所ではない!」
声を荒げて一喝した。
「……申し訳、ございません」
高弘にはそう言うしかない。彼は、正体を無くしている晶子を遠目に見ると、足早に東対を後にした。
「それで、神託の結果は?」
俊之が住まう寝殿の簀子の上で、泰家は顔を上げた。
「……義重公に憑かれていた物の怪は、おそらく義基公にございましょう」
「三年前、謀反の罪で幽閉された後、暗殺された異母弟どのか」
「はい……」
「それにしても、もう怨霊としか呼べぬ物でも、祟りを恐れて『神託』と呼ばねばならぬとは、おかしなものよの」
その時、夜の闇の中から白い物がこちらに向かって飛んできた。白い鷹は泰家の所へ舞い降りると、とたんに元の符に姿を変えた。彼はそれを手にし、目を閉じて何かを口の中で呟いてから、懐ろへ収めた。
「間違いございません。あの物の怪は林光院跡で消えたようです」
「三年前の暗殺時に、火災で焼失したままであったな」
「はい、夜な夜な童の泣き声がする、と帝都の者は近づきませぬ」
「して、その物の怪は『地の底よりの使者が天地を覆い、この世は地獄と化す』と申したのだな?」
「はい」
「ご苦労であった。高弘に送らせよう。年も明け、そろそろ西統の輩が動き始めているようだしな」
その時、寝殿に足早現れた人影があった。厳しい顔をした対御方だ。
「俊之、そなたはいつまで晶子にあのような真似をさせるつもりです!」
開口一番に、そう叫んだ。
「義母上、夜中に大声を出すものではありませんよ」
「そなたは妹を殺す気ですか!?」
彼は義母を一瞥すると、控えていた女官に
「高弘に泰家どのをお送りせよ、と申し伝えよ」
と言って下がらせ、泰家にも
「ご苦労であった。下がってよい」
短く告げた。彼らが姿を消した後で
「妹を殺す、とはぶっそうな事をおっしゃいますな」
「神託をする度、あの子の様子はどんどん重くなる。童の頃は頭痛がする、という程度であったが、今では臥せって数日は起き上がれないのですよ」
「ですが晶子の稀有な能力のおかげで、私は人脈を作ることができます。相手の弱みを握った上で。今回とて、将軍と繋がりを持つ事ができました。これが大きな意味を持つ事は、義母上とておわかりでしょう」
「……そなたは妹が愛おしくはないのですか?同母の……いいえ、たった一人の妹でしょう」
「愛おしいですとも。晶子はとても役に立ちますから」
「妹を利用することに、羞恥は感じぬのですか!?」
「ならばお聞きしますが、父上亡き後、この今小路家が貴族の体裁を保つ生活が出来ているのは誰のおかげなのです?私が得ている報償や、所領の収入からだけではないのですよ。父上の時とて計会(やりくり算段)は厳しいものでした。晶子の能力に縋る輩からの謝礼によるものも大きいのですよ。義母上が今お召しになっている衣装、この家に仕える近臣・女官や侍者、この邸宅の維持管理。そういったものを含めて。それとも義母上は、皇帝や上皇の御幸に追従する費用も作れず、屋敷を手放して捻出し、仕えていた青侍の屋敷に世話になるような殿上人と同じになりたいのですか?」
彼女は怒りでわなわなと震えていたが、荒々しく踵を返すと一言も無く寝殿を後にした。俊之はそれを見送ると、一人扇をもてあそんでいた。
泰家を送る為、侍所から出て庭を歩いていた高弘を呼び止める声がした。晶子の乳母の志摩だ。
「気にしてはならぬぞ。対御方は気がせってくると口調も荒くなるゆえ」
「……もとい、気になどしておりませぬ。……晶子さまのご様子は……?」
「……熱が高うて意識を戻されぬ……いつもの事とはいえ、不憫よの……」
彼は一礼して、歩を進めた。吐く息が白く濁る。冬の夜気は骨に染みいる程、冷たかった。