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第二章 雪の気配

 琵琶の調べが、軽やかに流れてきた。今小路家の東北ひがしきたたいからである。演者は晶子で、祝賀の楽舞の時の豪華な装いから、身軽な小袿姿になっている。静かに目を閉じ、撥を巧みにさばいている。「青花」という名を持つこの琵琶は、今小路家伝来の名品で、先の当主であり、俊之、晶子の父でもある今小路兼良の愛用品であった。

 最後の音が空気に溶けるように消えた時、観客は、ほう、と息をついた。

 この東北の対の主でもあり、対御方たいのおんかたとも呼ばれている女性だ。

「そなたの琵琶の音は、誠に当代一の名手と言われた兼良様にそっくりですこと」

「お義母様にそう言って頂けるのが、何よりも嬉しゅうございます。お父様の琵琶を一番よく聞いておられた方ですもの」

「この今小路家は、先祖代々、音曲に秀でた一族。その血はどうやら、そなたに流れたようですね。女の身でありながら、兼良さまが秘曲を伝授したのも、娘可愛さからだけではないでしょう。それに比べて……」

 衵扇で口元を隠すと、深いため息を漏らした。義母、と呼んでいても、彼女は晶子より13年上、俊之とは10才違うだけである。

「そなたの兄の俊之は、笛も琵琶も腕は悪くない、という程度……その上、幼い頃に望まれたとはいえ、稚児などして寺で生活していたせいか、やけに坊主臭い、悟りきったような顔をした男になってしまって……」

 嘆かわしい、と言わんばかりの口調に

「お兄様がお坊様になっていたら、女房殿達は喜んだかもしれませんわね。昔の清少納言も、お坊様は見目がよくなければ、有り難い説教も頭に入らない、と書いておりますもの」

 明るい声で晶子が返した。その言葉に対御方は思わず吹き出した。

「お義母様はお好きなもの程けなしますゆえ、私の琵琶はさほどの腕ではないのではないか、と時々思いますわ」

「おろかな事を。そなたの奏でる音は、天にも地の底にも響くのではないか、と思う事がありますよ」

 そう言うと、対御方は小さな吐息をついた。

「……そなたが盲てなければ、俊之はそなたを入内させたのでしょうね」

 しみじみと、そう呟いた。対御方は若い頃、宮仕えをしていた。そこで数々の美姫や艶やか女官達を目にしてきたが、晶子程、美しい姫はいなかったように感じる。勿論、ひいき目はあるとは思うが、それでも晶子の美しさは、どこか浮き世離れしていて、まるで天女のようなのだ。その美貌と琵琶の才。国母も夢ではなかっただろう。盲てさえいなければ。

「……お兄様は、もし私が盲ていなければ、皇帝様より、上皇様か将軍様のところへ召し上げたと思います。どのみち私は国母にはなれませんわ」

 対御方の考えを読んだかのように、晶子は淡々とした口調で答えた。そして義母の方へ身体を向けて居住まいを正すと、にっこりと微笑んだ。

「では、お義母様。失礼をさせて頂きます」

 そう言って下がろうとした時、対御方は義娘を呼び止めた。

「晶子。そなたも今年で17。もう童とは呼べない年なのですからね」

「勿論、存じておりますわ。お義母さま」

 振り返って笑みを返す晶子に、義母は「やれやれ」と言わんばかりの嘆息を漏らす。笑って、問題をうやむやにするところは、この兄妹は嫌になる程よく似ていた。


 晶子の住まいは東の対と呼ばれる殿舎である。対御方の殿舎とは渡殿を通ってすぐなのだか、彼女は琵琶を抱え、足の裏に簀子の板の冷たさを感じながら、一人釣殿へと向かった。生まれた時から、ずっと暮らしている場所なので、誰の手を借りなくても邸宅の中ならば自由に動ける。最も、彼女はこの場所から外へ出た事は一度もないのだが。

 邸宅の南を占める池に乗り出すように作られている西釣殿は、夏の納涼、秋の月見、冬の雪見の場所として用いられる。彼女はこの殿舎を邸宅の中では一番気に入っていた。目の前に広がる池や中島の風景を見る事はできないが、水の流れを感じる事ができるからだ。

 御簾越しに池に向かって腰を下ろすと、琵琶を構えた。撥を握り、音を鳴らす。琵琶から音の響きが、身体の中を伝わってくる。その日奏でたのは「流泉」。父が伝授してくれた秘曲三曲のうちの一曲。自分の奏でる音が風に舞い、空を踊るような感覚。暗闇の中で生きる彼女の世界に、光が差すような瞬間。

 晶子は6才の夏まで、この世界を目にする事ができた。だから映像として残っている記憶は、光に溢れた美しく汚れのない世界だ。その遠く懐かしい記憶を彼女はずっと暖め続けている。

 「流泉」を弾き終え、息をついた時。ふとある気配を感じた。

「……高弘?」

 その声に木立の影で控えていた男が姿を現して膝をついた。琵琶の音を聞きつけて、対岸から中島を通ってきたのだろう。阿野高弘は年の頃は22才。浅黒い肌に、切れ長の黒目がちの瞳の、精悍そうな男だ。

「東対へお戻りを。夜は早く、外気はお身体にさわります」

「今日、楽舞があって、その中の楽人の琵琶がとても良かったの。聞いていたら私も弾きたくなってしまって」

「琵琶ならば対でも弾けましょう。火櫃もない所で弾く必要はございません」

「そうなのだけど、せっかくなら……」

 そこで彼女は言葉を切った。そして琵琶を傍らに置く。

「晶子様?」

 彼女は御簾を押し開けると、中島へ降りられる階に飛び出した。ぎょっとして家人は

「あ、晶子様!なりません!」

 うわずった声で腰を浮かす。貴人の女性が素顔をさらすのは軽率ではしたない事だからだ。どこで誰が見ているとも限らない。が、彼の声は相手には聞こえていない。

「高弘、雪よ」

 空を見上げて彼女が言う。雪など、そう口にしようとした時、彼の頬を冷たい物が撫でた。目を上げると、はらはらと暗い天から白い雪が降りてくる。彼女は右袖をはらりと開いて空を差すように示すと

「今年最初の雪ね」

 薄暗い風景の中で、彼女の鮮やかな色彩の袖は映えた。

「……積もるかしら?」

 我に返り、不安そうに晶子は問いかけた。

「この雪は、じきに止みましょう」

「そう。良かった」

 ほっとして彼女は呟く。そして

「昨年は長雨、一昨年は旱。今年は何事もないと良いわね」

 祈るように、見えぬ目を空へ向けた。けれど彼女の目には、他の者には見えぬものを映しているのではないか、と彼は思う。雪が降る前に雪の気配を感じたように。

 やがて彼女は家人に目を向けた。

「東対に戻ります。そなたも侍所へ戻りなさい。寒空の下で私に付き合わせてしまって、ご免なさいね」

 そう告げると袿の単衣の裾をはらって、御簾の奥へと消えた。家人は釣殿から彼女の気配が消えるまで、その場を動かなかった。


 その夜。邸宅に戻ってきた主は、家人の高弘を呼んだ。

 庭で控えた彼に、俊之は簀子の所まで足を運ぶと

「神託をするゆえ、陰陽師の土御門泰家に日付を答申せよ、と伝えて参れ」

 淡々とした口調で告げた。ハッとしたように高弘は思わず顔を上げる。それを見て。

「……不満か?」

 冷ややかに俊之は問い訊ねた。

「……いえ、滅相もございません」

「ならば、早う行け」

「……はっ」

 彼は深々と頭を下げると、その場を音もなく立ち去った。それを見送り、俊之はふと目を空に移した。月を薄い雲が隠し、その輪郭をぼんやりと描いていた。それを暫し見つめた後、彼は何事も無かったように寝殿へと戻って行った。


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