第一章 みやこの春
明けて正月となったが、帝都の空気は閑散としていた。
灰色がかった雲は、重く空を覆い、人気のない通りを冬の、身を切るような冷たく乾いた風が吹く。人も、牛車も、馬の影も通らぬ路は、一層空気を寒々とさせ、かえって目に見えぬ物が歩いているのではないか、という薄ら寒いものを感じさせた。
家々も静まりかえり、板蔀が動く気配もなく、人がこそと動いている様子もない。まるで家の奥で息を潜めているかのように。
そんな市井の様子を後目に、二条大路の北、東京極大路の西1町(約120m四方)を占める邸宅から、ゆるやかな楽の音が風に乗って聞こえてきた。地下の楽人が、この家の当主に依頼されて祝賀の楽舞を寝殿正面の南庭で披露していたのだ。
やがて楽舞が「太平楽」になった時、屠蘇酒を楽しみながら末広をもてあそんでいた男が、ふと手を止めた。
「……今の世に、最も似つかわしくない楽だな」
正面の階隠間で、見るともなく見つめていた男はポツリと呟く。この家の当主、今小路俊之だ。年があけて20才になったばかり。立烏帽子に萌葱の直衣。くつろいではいるが正しい姿勢、一見温和だが、冷静な相貌。激昂する事を知らないような落ち着いた声。いかにも「貴種」の生まれの貴公子といった風情だが、その眼光は、穏やかな顔立ちとはそぐわない程、鋭く強いものだった。
傍らに控えていた姫君が、微かに首を傾げたが、その言葉に同意も否定もしなかった。
「今年も例年とかわらずに明けたものだ」
言葉の奥の皮肉めいた響きに
「変わりがないと、ご不満ですか?」
と、楽の音に耳を傾けていた傍らの姫が、からかうような声で、そう返してきた。
「変わった方が、面白いとは思わないか?こんな世の中は」
「変化を好まない者も、おりましょう」
「そうして、そのまま、流れない水のように濁って腐っていくのか?」
「お兄様は世の中を変えようとなさるより、もう少しご正室様を大事にすべきでございましょう?」
「おやおや。新年早々に小言を聞かせるつもりかい?晶子」
彼女は顔を兄の方へと向けた。新春らしく、梅の襲、常盤の単衣、葡萄染めの唐衣、濃色の袴、白腰の裳に衵扇。ぬけるように白い肌と焦点は合っていないが、物憂げな瞳、そして青みを帯びた艶やかな黒髪。父親が、生まれたばかりの娘を見て、後宮に入れ、国母となり、皇帝の外戚となる夢を抱いたとしても責められない。
「新年早々、御文を頂きましたの、大納言様から。昨年は、たったの二度しか顔をお見せにならなかった上、お渡りも無かった、と」
「宮仕えや何やらで疲れて、重い足を引きずりながら伺っても、やれ何故もっと頻繁に来ないのだの、何故すぐに歌や文を返さないのだの、他の方の所へ通うのでお忙しいのだろう、などと責められては足も遠くというものだよ」
「重い足だなんて。お兄様は牛車に乗っているだけではありませんの?」
「そういう問題ではないよ。第一、私ではなくお前に文を寄越すなんて、配慮のない一族だと思わないか?」
「それはお兄様が言って良い言葉ではありませんわ。大体、私とて文の内容を知る事くらいできます。耳がありますもの」
「わかった、わかった。では年賀がわりに向かう事としよう。それでよかろう?」
「……お兄様は今小路家の当主なのですから。ご正室様と合わぬのであれば、側妾置かれたらどうです?」
「それはお前が心配する事ではないよ」
淡々とした声の中に不快の色を感じ取って、晶子は口を閉ざした。兄は側妾や跡継ぎの事を話題にされると立腹する。勿論、それを面に出したりはしないが。
「……よもや左大将様が、我があばら屋にお見えになる日が来ようとは思いませんでした」
藤原公忠は自分の息子と年は変わらぬであろう客人に頭を下げて、そう言った。「ご正室様」のご機嫌伺いに行った帰りに、彼はこの邸宅に立ち寄ったのだ。最も昨日から、家人に申しつけて、訪問を伝えていたのだが。
「藤参議殿、お顔をお上げ下さい。左近衛大将と申しましても名ばかり。この世の実権は右近衛大将を兼任する鬼頭将軍が握っておられる事は童でも存じておりましょう」
その言葉に公忠は顔を上げた。そこへ邪気の無い笑顔を見せ
「実は、その将軍の事で相談に参ったのです。聞いて頂けますか?」
「何なりと」
「年賀の祝いに、何か献上したいと思うのですが。実は、良い鶯を手に入れまして。来月の鶯合によかろうと思うているのです」
その言葉に、相手は眉を顰めた。
「……おそれながら、先代と違い、当代将軍義重公は華美な物も事もお嫌いです。自分に厳しい方ですが、他人にも同じく厳しい。そういった愛玩品は喜ばれないと思います」
俊之は大仰に嘆息をついた。
「そうでしたか。それは良い事を伺いました。余計な了見で睨まれてはかないませんから。ああ、これは失言を」
「将軍は、非常に御酒を好まれます。酒樽を差し上げれば喜ばれましょう。左大将殿は……その……桃陵に縁がございますし」
俊之は素直に頷いた。
「確かにあの地は酒所。そうさせて頂きましょう」
その晴れやかな表情を見て、公忠は意を決したように唇をかむと
「……実は、お耳に入れたい事がございます」
「何でしょう?」
声を潜めて、俊之も身を乗り出した。
「将軍は、怪異に悩まれておられるのです」
「またもや二条大宮に百鬼夜行でも現れましたか?」
「いえ、年が明けてから三晩続けて、同じ夢をご覧になったそうなのです」
「ほう。瑞夢でございますか?」
「それが……黒い大きなネズミが、青い蛇を喰らう、という夢でございます」
「ネズミが蛇を?」
「はい。非常に生々しい夢だそうで……何かの神託ではないか、と」
「よろしければ、その夢の意味をお調べ致しましょうか?」
「はい、是非に!」
「では陰陽師に日付を答申させますゆえ、それまでに将軍が身につけておられる物をこちらへお渡し下さい」
そう告げた後、俊之は早々に公忠の邸宅を後にした。
牛車に一人揺られながら、彼はほくそ笑む。思いもよらない収穫を得た。上手くいけは、この縁で、幕府要人や、もしかすると将軍と伝手を得る事ができるかもしれない。それはまさしく好都合以外の何物でもなかった。わざわざ足を運んで、猿芝居をしたかいがあったというもの。
将軍の華美嫌いは聞きおよんでいた。それが先代の父への対抗心からだという事も。そんな彼でも、父の方針を継続しているものもある。その一つが「公家家礼」だ。
貴族が隆盛を極めた時代は過去となった。
今では貧困にあえぎ、それでも体裁を保たなければならない貴族達は、所領の一部の土地や家宝を手放しながら生活をしている。そんな彼らにとって将軍家の「家礼」になるのは利が大きかった。
まず将軍の口利きで官位の昇進が有利になり、失った領地を取り戻す事も可能となる。また「家礼」となった見返りとして、将軍から恩領・給与を預かる事もある。
その代わり、幕府と禁裏や仙道御所の間の取り次ぎ役として動く事になり、また将軍が外出の際は必ずお供をする事が義務となる。
公忠はその「公家家礼」の一人だ。
だが、彼らとて貴族の矜持をきれいに捨てた訳ではない。公家の自分が、背に腹は変えられないとはいえ、武家に仕える事を恥と感じているのだ。だから彼らは公家に対しても武家に対しても、複雑な感情を抱えている。
「矜持か……」
そう呟き、俊之は冷ややかな嗤いを浮かべた。何事かを成そうとする時、一番邪魔で必要のないものは、その矜持なのだ。
『お兄様は世の中を変えようとするよりも……』
昼間の妹の声が、耳に蘇ってきた。
「……世の中を変えるつもりなどない……私と今小路家の願望を叶えようとしているだけだよ……晶子」