【短編小説】青葉は回り落つ
私の作品「桜と聖女」「桜の丘で」から繋がるので、そちらから読んで頂ければより深く理解出来るので、良いかも知れません。
短編小説【青葉は回り落つ】
ヒラリ、ヒラリと我が身から青葉は落ちる。狭い世界の中から、広い広い地面と大気の世界の中に拡散した青葉達は、その存在を自らとして捉えようもなく、蒼い世に身を横たえた。樹木という一つの世俗の中から解き放たれたように見えたが、しかしその実態は、更なる広い俗界へと足を踏み入れただけの話である。
「おぅい」
一つの葉が呼び掛けた。何度も何度も幾つもの葉が呼び掛けるが、それぞれがそれぞれに返事を返すことはない。各々が不器用に、且つ不躾な動きで世界を我が物顔で闊歩する。しかし、そうやって自由に振る舞えるのも、たった数日間の話だ。気を抜いていると、ふとした瞬間に大地へと己が身をくくりつけられ、そのまま生命の最深部に向かって、葬送行進をせねばならぬ。ただし自らは、その先頭を歩き、真っ先に死の縁に足を踏み入れることになるのだ。
運が良ければ、風という弁護士に運ばれ、その刑までの執行猶予を与えられる事もあるが、そんな事などごく稀な事である。そして今もまた、一人の若人がその命に終止符を打とうとしていた。
「判決、死刑。罪名は『近隣の葉への日照権侵害』執行猶予は……」
太い幹と、枝の集合から成る巨大な裁判長は、彼の身から出たその不良青年に、ざわざわとその巨体を揺るがしながら判決を下す。その判決に対して青年は狼狽し、その小さな体を精一杯使って反論するが、樹木全体から聞こえる、歓喜ともブーイングとも採れるざわめきによって、その声は掻き消されてしまうのだ。
しかし世の中、救世主というのは颯爽と現れるもので、それこそ風のようにこの議場へと舞い降りたのは、何を隠そう風弁護士である。
「その青年はまだ若い。せめてもの哀れみに、世界旅行の執行猶予を与えてやってはどうだろう」
裁判長の輪郭をなぞりながら、宙をぐるぐると舞う彼の姿に皆が見とれ、静かなざわめきが起こる。そして次第に、樹木の中にも賛成者が現れ始めた。「世界旅行」の大合唱は、樹木を越え、さらにマクロの社会へと広がって行く。煌々と照らされた新緑の谷に、一本の樹木の美しいざわめきが響き渡ったのだ。
「解った解った! ではその者に執行猶予を与えてやるが良い!」
余りの激しい合唱に、裁判長が折れた。樹木から起きる歓喜のざわめきは、そもそもの議題を忘れてしまうほど。そしてそのざわめきの中、裁判長はその巨体を揺らし、大声で判決を下した。
「もうよい! 風よ、早くその者を連れて行けっ!」
「あいよっ。さぁ行くぜ、若葉の大将」
そして、ビュウという風切りの音がしたかと思うと、青年を乗せた風は、高い高い空へと舞い上がってしまったのである。
どれほど空を飛んでいただろうか。何時間、いや何日もの間、眼下に広がる不思議な風景を見つめ続けていた。新緑の谷では、決して見ることの出来なかった風景が、そこにはあったのだから。一面真っ白な雪と氷の大地や、砂に全てが覆われた海原、巨大な海から小さな海、コンコンと火が沸き出す泉まで。何一つとして、僕の心を捕えない物などなかった。全てが魅力的で、魅惑的。誘い込まれるような感覚に苛まれるが、しかしその度に僕の心に浮かび上がるのは、死の恐怖である。
「よう、若葉の大将。どうだい『世界』ってやつは。広いだろう?」
「うん。僕には到底捉えようもない程に」
風の質問に素直に答えると、そうかいそうかいと言って、笑って肩を叩かれた。爽やかでおおらかな彼の姿に、憧れの念を抱いたのは言うまでもない。僕は思ったのだ、風になりたい、と。
そのまましばらく数時間程飛んだ後、風は「ここが最終地点だ」と言って、あるところで降ろしてくれた。そこは、美しい桜の舞い散る丘。せめて死に場所くらいは綺麗な場所にしてやりたいという、風なりの思いやりだったようだ。風はその後「あばよっ」と威勢良く飛んで帰っていったが、その後ろ姿が泣いていたことくらい、まだ若い青葉の僕にだって容易に解る。風のように空を飛び交い、世界中の美しい景色を見て回りたいとは思ったが、彼のように霊柩車の働きはしたくないと、彼を見て感じた。他人の為に泣くだなんて、悲しすぎるから。
その丘の上には、一人の聖女が佇んでいて、その美しく彩られた体を、誇らしげに、しかし謙虚で淑やかに掲げていた。彼女の回りには一匹の蝶がいて、さも彼女に求婚をしているかのように飛び回る。言葉の壁とは大きいもので、何を言っているかは定かでは無いが、何かを延々と彼女に語りかける蝶の姿からは、深い愛情に似た何かを感じる。それを見つめる彼女の目は、嬉しそうで、しかし哀しそうでもあった。彼女はこちらに目を向けて言うのだ。
「この人は、彼に似ているのよ」
なんだか良く解らないが、深い事情がありそうだ。その後、僕は何も聞いていないにも関わらず、彼女は僕に、その事情を語りだす。曰く、彼女はとある男性と恋に堕ちたが、彼女を慕う周囲の人々によって、その恋は破綻し、彼女も相手の男性も亡くなったのだという。深い愛情が由縁した死といったところだろうか。
やがて蝶が何かを呟き、その花弁に口付けをしたその時である。再び訪れんとする災厄を免れんとしたのか、彼女は一度、ブルリと身震いをした。途端に彼女の身体中から、桜色の美しい羽衣がふるい落とされる。何者をも飲み込まんとするその濁流は、翠の大地を飲み込み、河となり、そして蝶を地平線の果てまで連れ去ってしまった。無論僕も、である。
流れ際に見た、聖女の最後の表情は、悲愴。
気がつくと、どこかで見た事があるような一人の青年の鞄の上にいた。周囲には、桜色の濁流など、もうどこにも見当たらない。夢だったのかと思うが、僕の上に乗る桜の花弁が、夢では無いことを物語っていた。
青年が動き出す時の慣性に落とされぬよう、上手く姿勢を制御し、青年の家の中へと入ることに成功した。しかし鞄は粗雑に落とされ、そのまま僕は、彼の樹木の一部である棚の下に滑り込んでしまったのである。もう一生、ここから出ることは出来ないであろう事を考え、憂鬱になる。腐敗することも叶わない身で、ただただ水分と栄養が枯渇するのを待つのみなのだから。変わらない景色の中、夢うつつな状態で生を全うするのも、また良いかも知れないと自分を納得させようとするのは、まだ自分が納得していないからだろう。
埃にまみれた棚の下、美しい景色を思い浮かべ、僕は深い眠りにつくのだった…………。
完