「ざまあみろ」と思った阪神敗退の日
阪神が負けた。
そのニュースを見たとき、私は思わず「ざまあみろ」と思った。
もちろん、選手たちに恨みはない。私が苦手なのは阪神そのものではなく、その周囲を取り巻く過剰な熱狂と特別扱いである。
これは、そんな関西人の少し意地の悪い本音の話だ。
阪神タイガースがDeNAに敗れ、日本一への道は閉ざされた。
ニュースを見た瞬間、私は正直こう思った。
「ざまあみろ」と。
もちろん、褒められた感情ではない。敗者を笑うのは大人げないし、
スポーツマンシップにも反する。だが、人間は建前だけで生きているわけではない。
私はそう思ったし、今でも少しはそう思っている。
実を言うと、私は昔から阪神が嫌いだったわけではない。
むしろ、応援していた時期のほうが長い。
若い頃の私は巨人が嫌いだった。
当時の読売巨人軍には、「巨人こそ正義、他は脇役」とでもいうような空気があった。
テレビも新聞も巨人ばかり。まるで日本のプロ野球は、巨人のために存在しているかのようだった。
だから私は阪神を応援した。
東京の巨大権力に立ち向かう関西の球団。そんな構図が面白かった。
阪神が巨人を倒せば痛快だったし、優勝すれば素直にうれしかった。
しかし、私は阪神ファンだったのだろうか。
今になって考えると、少し違う気がする。巨人が嫌いだったから、
その対抗馬として阪神を応援していただけなのだ。
球団に自分の人格まで預けるような熱狂はなかった。
ところが、時代は変わった。
気がつけば、かつて巨人に感じていた違和感を、
今度は阪神に対して感じるようになっていた。
球団そのものというより、その周囲にできあがった巨大な熱狂と、特別扱いに対してである。
私は阪神ファンの熱狂が苦手だ。
甲子園を埋め尽くす黄色い群衆を見ると、いつも不思議に思う。
打てば叫ぶ。抑えれば叫ぶ。負ければ絶望し、勝てば人生最高の日のように盛り上がる。
もちろん、何に夢中になるかは人それぞれだ。好きな球団を応援するのも自由だし、
勝敗に一喜一憂するのも悪いことではない。
ただ、私にはどうにも理解できない。たかが野球の勝ち負けで、
そこまで自分の気分や生活が左右されるものなのだろうか。
そして、私を何より辟易させたのは、ファン以上にメディアだった。
今でこそ、昔に比べればましになった。
しかし、かつての関西の朝のローカル番組は、私には異様に見えた。
スポーツニュースと言いながら、実態は阪神ニュースである。
阪神が勝った。負けた。四番がどうした。
エースが何を語った。若手が二軍でヒットを打った。新人がブルペンで何球投げた。
毎日、毎日、そればかりだった。
サッカーもある。バスケットボールもある。
ラグビーもある。政治も経済も動いている。世界では戦争も起きている。
それなのに、朝の番組を見ていると、関西で最も重要な問題は阪神の中継ぎ陣らしかった。
ロシアとウクライナが戦っていても、世界経済が揺れていても、
関西ローカル局の世界では、阪神のセットアッパーの調子のほうが重大案件なのである。
そのうち、私は本気で思うようになった。
「ウクライナのこともちょっとは語れよ」と。
冗談ではない。
関西ローカル局の世界地図には、甲子園が世界の中心として描かれているのだろう。
ヨーロッパもアメリカも中国も中東も、その周辺に配置されているに違いない。
阪神の先発ローテーションこそが、世界の行方を左右しているかのようだった。
もちろん、地元の球団を熱心に取り上げること自体は悪くない。
問題は、その熱量があまりにも大きくなり、
あたかも誰もが阪神に関心を持っていて当然という空気ができあがることだ。
関心のない人間には、なかなか息苦しい世界である。
シーズン前の報道も似たようなものだった。
阪神優勝はほぼ確実。投手陣は盤石。戦力は充実。
解説者もファンも、口をそろえて優勝候補筆頭と持ち上げる。
中には、日本一まで既定路線のように語る人もいた。
だが、野球はそんなに簡単なものではない。
リーグ優勝ですら、決して楽な道のりではなかった。
最後までひやひやする展開もあった。それなのに、優勝が決まれば、
今度は日本一が当然と言わんばかりのお祭り騒ぎである。
その様子を見ながら、私は思った。
昔の巨人ファンと、いったい何が違うのだろう。
昔は巨人が勝って当たり前だった。今は阪神が勝って当たり前らしい。
主役が入れ替わっただけで、空気は案外変わっていない。
勝って当然。負ければ番狂わせ。人気があるのだから、特別に扱われて当然。
そうした空気が、私にはどうにも鼻につく。
だから、DeNAに敗れたというニュースを見たとき、思わず苦笑したのだ。
野球は予定調和ではない。勝つと思われていたチームが負けることもある。
それがスポーツの面白さでもある。
もちろん、選手に罪はない。選手たちは選手たちなりに全力で戦ったのだろう。
悔しい思いもしているはずだ。
私が痛快に感じたのは、選手の敗北そのものというより、
あれほど日本一を当然視していた周囲の空気が、一気にしぼんでいくことだった。
勝つ前から勝ったつもりになっている。
その期待が大きければ大きいほど、負けたときの落差も大きくなる。
その落差を見て、私は少しだけ溜飲を下げた。
もし阪神が無名の球団だったら、私はこんな感情を抱かなかっただろう。
そもそも、勝とうが負けようが気にも留めない。
阪神には、それだけの存在感がある。
そして、その存在感がときどき、少々うっとうしいのである。
来年も甲子園は満員になるだろう。関西のテレビは朝から阪神を語り、勝てば騒ぎ、負ければ騒ぐ。
世界がどうなろうと阪神。経済がどうなろうと阪神。地球温暖化が進もうと阪神。
宇宙人が襲来しても、最初の会議では「阪神の四番に影響はないか」が議題になるかもしれない。
そんな関西の空気に長年付き合ってきた人間としては、たまには本音を口にしたくなる。
阪神が負けたその日くらいは。
「ざまあみろ」と。
そうした熱狂もまた関西の風景の一部なのでしょう。だから文句を言いながらも、結局は毎年見てしまうのかもしれません。




