見抜く者
その原稿を読んだ瞬間、編集者の佐伯は違和感を覚えた。
文章は上手かった。
上手すぎる、と言ってもいい。
誤字はない。言葉の選び方にも破綻がない。人物の感情は過不足なく描写され、場面転換も滑らかだった。読者が迷いそうなところには、さりげなく説明が置かれている。
それなのに、佐伯はページをめくる手を止めた。
「……誰が書いたんだ、これ」
机の向かいに座る新人編集者の水野が答えた。
「応募者本人です。二十八歳。小説を書くのは十年目だそうです」
「本人が?」
「はい」
佐伯は原稿の一節を指で叩いた。
「じゃあ、これは何だ」
そこには、主人公が恋人の死を知る場面があった。
悲しい。
そう書かれている。
だが、その悲しみが読者の胸に届く前に、主人公の心理が丁寧に説明されていた。
なぜ悲しいのか。
何を失ったのか。
その死が主人公にどんな意味を持つのか。
すべてが書かれている。
「AIっぽい、ですか?」
水野が小声で訊いた。
「分からん」
佐伯は即答した。
「AIっぽい文章を書く人間はいくらでもいる。逆に、人間がAIを使って書いた文章だって、人間っぽく直せる」
「でも、AI検出ツールでは八十七パーセント……」
「八十七パーセントだから何だ?」
水野が黙った。
佐伯はため息をついた。
「数字は証拠じゃない。これは小説だ。血液検査みたいに作者を特定できるものじゃない」
佐伯は原稿を最初から読み直した。
十ページ。
二十ページ。
三十ページ。
そこで、妙なことに気づいた。
主人公の親友の名前が、一度だけ違っている。
最初は「高橋」だった。
途中から「高田」になっていた。
たった一文字の違いだった。
「ここ」
「……本当だ」
「AIでも人間でも起こる」
「じゃあ、意味がないですね」
「いや」
佐伯は首を横に振った。
「意味はある」
それから彼は、原稿を細かく調べ始めた。
人物の好物。
季節。
部屋の間取り。
主人公が左利きなのか右利きなのか。
過去の出来事の日付。
すると、小さな矛盾が次々に見つかった。
主人公は寒がりだと言っているのに、冬の夜に窓を開けたまま眠る。
親友は煙草を吸わない設定なのに、一度だけ煙草の火を消す描写がある。
そして第五章では、主人公がまだ知らないはずの秘密を、地の文が知っていた。
佐伯は椅子にもたれた。
「……なるほど」
「AIですか?」
「まだ分からない」
「じゃあ何が分かったんです?」
佐伯は少し考えてから言った。
「この文章は、一人の人間が一気に書いた文章じゃない」
水野が目を見開いた。
「どういう意味ですか?」
「書き手が複数いる、という意味じゃない。書き方が途中で変わっている」
佐伯は原稿を二つに分けた。
前半は荒削りだった。
文章に癖がある。
句読点の打ち方にもばらつきがあり、比喩も少し変だった。
ところが、後半になると突然、文章が整っていた。
比喩は無難になり、説明は増え、登場人物の感情も分かりやすくなっている。
「ここから誰かが文章を直した」
「作者自身では?」
「もちろん、その可能性もある」
「でも……」
水野は画面を見つめた。
「AIかもしれない」
佐伯は答えなかった。
その日の午後、応募者本人が編集部を訪れた。
二十八歳の青年だった。
名前は神谷。
緊張した様子で椅子に座ると、佐伯は原稿を机の上に置いた。
「神谷さん。ひとつ訊きたい」
「はい」
「この小説を書くとき、AIを使いましたか?」
神谷の顔が固まった。
数秒の沈黙。
「……使いました」
水野が息を呑んだ。
「やっぱり」
佐伯は言った。
「どこに?」
「文章の修正です」
「全部ではない?」
「はい」
「どのくらい?」
神谷は俯いた。
「自分でも分かりません」
佐伯は眉を寄せた。
「分からない?」
「最初は、自分で書きました。でも途中で文章がうまく書けなくなって……AIに、『もっと自然な文章にしてください』って頼みました」
「それだけ?」
「そのあと、人物の感情も直してもらいました。説明がくどいところも。何度も修正して……」
神谷は苦笑した。
「最後には、自分の文章とAIの文章の境目が分からなくなりました」
水野が訊いた。
「じゃあ、この小説をAIが書いた、と言われたら?」
「……違うと思います」
「でも、AIも使った」
「はい」
「では、人間が書いた小説ですか?」
神谷は答えられなかった。
佐伯も答えなかった。
窓の外では、夕暮れの街に灯りが一つずつ点き始めていた。
しばらくして、佐伯は原稿を閉じた。
「面白い話だな」
「え?」
「この小説の主人公は、自分の記憶を失っていくんだろう?」
「……はい」
「自分が昨日まで何を考えていたのか分からなくなる。自分の記憶なのに、自分のものなのか疑い始める」
「そうです」
佐伯は笑った。
「まるで作者自身みたいじゃないか」
神谷は黙った。
佐伯は原稿を持ち上げた。
「AIが書いたか、人間が書いたか。それを見抜くのは難しい」
「はい」
「だが、もっと難しいのは――」
佐伯は原稿を神谷へ返した。
「この作品が、最後まで作者自身のものなのかを見抜くことだ」
神谷は原稿を受け取った。
その指が、ほんの少し震えていた。
「……じゃあ、僕はどうすればいいんでしょう」
「書き直せばいい」
「全部?」
「違う」
佐伯は首を横に振った。
「AIが直したところを探すんじゃない。自分が本当に書きたかったところを探せ」
「そんなの、分かるでしょうか」
「分からないかもしれない」
佐伯は笑った。
「だから小説を書くんだ」
神谷は原稿を抱えたまま、編集部を出ていった。
扉が閉まる。
水野が訊いた。
「結局、AIがどこまで書いたのか分からなかったですね」
「ああ」
「検出もできなかった」
「ああ」
「じゃあ、今回の判定は失敗ですか?」
佐伯はしばらく考えた。
そして机の上に残った一枚の紙を見た。
そこには、神谷の原稿にはなかった一文が、鉛筆で書かれていた。
――自分が書いた文章を、自分の文章だと証明するにはどうすればいい?
佐伯はその一文を眺めた。
「いや」
静かに答えた。
「たぶん、これが一番大事なところだ」
「何がです?」
「AIか人間かを見抜くことじゃない」
佐伯は鉛筆を置いた。
「その文章を書いた人間が、そこに何を込めたのかを見抜くことだ」
窓の外で、最後の夕日が消えた。
編集部の照明が、自動的に点いた。
白い光の下で、原稿の文字はどれも同じように整って見えた。
人間が書いた文字も。
AIが直した文字も。
その境目だけは、もう誰にも見えなかった。




