2 魔物としての目覚め
夢だったのか? スカルはそう思った。
握られているのは一本の剣。今さっきまで立っていた触手の庭は消え去り、長いこと待ち望んでいた土の地面がある。空は暗い。いや、よく見るとこれは空ではない。土で揉まれた天井だ。向こうを見れば光が差している。それも触手たちと黒い太陽が発していた穢れた光などではなく、美しさを体現したかのような眩い陽射しだった。
久しぶりの光。ダンジョンに潜って一体何日が経ったのだろう。一日二日、いや一週間、いいや一カ月は潜っていたはずだ。あれが本当に現実なのであれば。
光の元に進んでいく。体が軽い。軽すぎる。認識したくない。
視界の端に白いような灰色のようなものが動いている。いやだ。見下ろしたくない。
後悔はない。そう思いたい。あのダンジョンに潜って、魔王を殺せる武器を手に入れた。それで満足なはずだ。この剣で今すぐに魔王の元に赴き、喉をかっ裂いてやりたい。その力があるはずだ。だが、それをしたとしてどうなるのだ。こんな体で……。
足音は重たくない。カラン、コロン。まるで固い机の上でダイスを転がしているような音が立て続けに鳴る。動きもぎこちない。柔軟性がなく、まるで操られた人形のよう。力が出ない。足を一歩踏み出す度に肩も一緒に上り、体は前傾。前のめりのままガシャガシャと進んでいく。
ついにたどり着いた洞窟の出口。もう一歩踏み出せば懐かしの太陽の元に出られる。先に見えるのは久しく見ていなかった自然だった。淡い緑の草木が風に揺られて爽やかになびいている。
あと一歩。あと一歩だ。スカルは恐る恐る足を出してみた。すると――
「ッ――――!」
足先に眩い太陽光が当たった。白く細々とした足の指が激しく燃え上がる。
痛みがフラッシュバックする。夢とも思えたあの苦痛の炎。漆黒の太陽に焼かれたあの痛み。足先だけでなく全身を包み、スカルは思わず飛びのいた。這うように暗がりに逃げ込み、まるで怯える子供のように膝を抱える。声が出ない。苦痛が発散できない。汗も出ない。体に感じる熱は確かなものなのに。涙も出ない。泣き出したい気持ちは散々であるはずなのに。
ガタガタと顎が震える。カクカクカク、カタカタカタ。歯と骨が噛み合う音が組み合わさるように鳴り響いた。
どうやらこれは現実のようだ。勇者スカルは、魔物スケルトンに成り下がった。
おそらく、この洞窟はダンジョン”欲望の坩堝”の外殻だろう。あれがひとつの生き物だとするならば、地下100階まで続いたあのダンジョンは広く続く触手生物の体内。もしくは、なにか特別な魔法により作られた結界か。そして、それはあの剣を引きぬいた瞬間に消滅した。なぜだかは分からない。だが、消え去ったのだ。スカルには確信があった。
先ほど見えた洞窟の外の光景。あれは、ダンジョンに入る前に見たものと同じだったのだ。
今の彼に遺されたものはそう多くなかった。攻略したはずのダンジョンは消え去り、名声はもうない。子どものときから鍛え上げた、魔物にも引けを取らない屈強な体は肉がそがれ、骨だけになっている。旅立つ前はあれだけ声をあげてくれた民衆たちも、この姿を見れば恐れおののくだろう。きっと「勇者が魔物に堕ちた!」、そう口を揃えるに違いない。
残ったのは微かな命と、外殻、そして古びた一本の剣だけである。もう一度、あのボロボロの手のひらを見てみたかった。潰れた豆の数々、それを見る度に今までの努力を感じることが出来たから。しかし、もうそれを見直すことはできない。破れ、固くなる皮膚も、重い物を持ち上げ、雄々しく見栄えのある肉も、すべて削がれてしまった。
スカルは出ない涙を必死に絞りだそうとしたが、できなかった。喪失感。それが心の内を埋めつくしていた。
◇◇◇◇
どれだけ経ったのだろう。空が何度か、いや何十、何百、何千回と暗くなった。スカルはずっと剣を握りしめながら、洞窟の奥でじっと丸まっていた。体が動かなかった。だが、腹もすかなかった。
ふと、物音がした。風に揺られる葉っぱたちの多重奏の中に生き物の気配を感じる。しかも、そこそこの大きさ。四足歩行の音でもない。人工的な足裏で地面をにじる音。人間だ。
「おいおい。本当にこんなところに獲物がいるのか?」
「いるんだろうぜ。なんせ依頼が出てたんだから。魔物”スケルトン”の討伐。ま、いつも通りのザコモンだろうぜ」
声。男が二人。
「だけどよ。なんだかおかしくねえか? スケルトンだぜ、ただのさ。なのに、あんだけの高額報酬。数年は遊んで暮らせるぐらいの金を、たった一体の雑魚モンスターにかけるか? なんか裏とかあるんじゃね?」
「なに言ってんだよ。そんなのあるわけねえじゃねえか。こんな秘境の洞穴だ。誰も手をつけねえもんだから、おのずと上がっていったんだろうぜ。お前も幸せもんだな。だってよ、お前もほかの奴らみたいにクサがってたら、こんな美味しい依頼にありつくことなんてできなかったんだからよ。アテンドしてやった俺に感謝するんだな」
「ったく。お前、そういうところあるよな。何も考えねえで、ただただ突っ走るだけでよ。まっ、そういう所も気に入ってんだがな」
「へっ! 俺もお前のそういう石橋を何度も叩いて渡ろうとするところ、嫌いじゃないぜ。さっさと終わらせて、いいもんでも食いに行こうや」
空は暗い。もう陽が落ちたみたいだ。スカルは久方ぶりに聞く人間の声に懐かしさを覚えながらも、彼らの不穏な会話に嫌な気配を感じていた。
彼らの言う討伐対象”魔物スケルトン”は、間違いなくスカルのことだ。だが、おかしい。なぜ、彼らは知っている。ここに魔物と化した元勇者がいることを。ここでじっとしゃがみこんでいる間、人の気配など一度も感じたことはなかった。おそらく、何かに見つかったということもないだろう。ならば、彼らはどうやって知ったのだろうか。
そして、気がかりなことがもう一つ。二人の会話に楽観的な温度を感じた。魔物を殺す依頼。スカルが人間だったころでは考えられない。依頼を受けるということだけで、どれだけの猛者であっても死地に赴くのと同義だった。魔物一体一体が魔王の力により強化され、軍隊をもってしても倒し切れるか分からないほどだったのだから。だが聞いている限り、二人の話からは命の匂いを感じない。金の匂いしかしていない。
「おっ、いたぜ。あいつのことだな」
靴の音が止まる。人の気配。洞窟の先からした。どうやら見つかったようだ。突然、眩い光が襲いくる。ライトで照らされたようだ。だが、あの痛みは感じなかった。
「なんだあいつ。うずくまってるぜ」
「変なの。まっ、さっさと倒すか」
「おお。やっちまおうぜ」
二人の男。茶髪と金髪で背は高い。光沢のある牛革のスキニーパンツ、一人は緑色の上着にマントをつけ、もう一人は白いTシャツにバックルを巻いていた。
二人の腰に備え付けられたロングソード。ゆっくりと引きぬかれ、銀色の鏡に月光が当たる。
男たちが近づいてくる。へらへらと余裕の笑みを浮かべながら、まるで朝食にありつくかのように平然と。難しいことなどあるはずもない。ただ、動かない魔物に対して剣を振り下ろすだけでいい。そう思っているかのように。
「よぉし、動くなよ」
白いTシャツの金髪男。肩に当てた剣を両手でかかげ、よおく狙いを定めるようにじっと立っている。大股でそびえるその姿は逃走にはまるで不向きであり、反撃すら予想していないかのようであった。まるでもぐら叩きでもしているかのようである。
スカルは覚悟していた。彼はすでに無気力であった。剣を引きぬいた時に覚えた復讐心はどこか深くに埋まってしまったようだ。自己を形成するすべてを奪われ、その燃え滾っていた心すらも削がれたように感じてしまう。もうこのまま斬られてもいいとまで思ってしまった。だが、せめてこの心に残ったモヤモヤだけは、どうしても解消したかった。
スカルは口を開いた。しかし、当然声は出ない。声帯はすでに無くなっている。
剣を振り上げる男たちは笑っている。彼らの瞳に映るスカルの姿はこっけいに違いなかっただろう。世界を壊しまわっていた魔物、それが今、まるでいじけた幼子のように丸くなり、命乞いをするかのように口をパクパクとさせているのだから。それでも、スカルは喋りたかった。聞きたいことがあった。
口をなんどか開け閉めしてみるが、鳴るのは結局骨の音だ。
「コイツ、なんか言おうとしてんだけど」
笑いを含むように金髪の男が声をあげた。
「たすけてくださいー、とか言ってんじゃね? 知らんけど」
二人そろって豪快な笑い声だ。金髪の男の振り上げる手に力がこもる。殺す気だ。スカルはそれでもなんとか声を上げようとした。
握っていた剣に薄っすらとした光が走る。視界の端に止まったそれは、よくよく見ないと分からない程度であったが、確かに感じる。魔力? いや、違う。また異質な――まるで、蟲毒の中に入り込んだかのような――感覚を覚えた。ふと、頭の奥にひらめきが浮かびあがる。声の出し方、”肉”の形成の仕方を。
スカルは突如、記憶の奥底から掘り出したかのような思考を引っ張り上げ、骨の奥に渦巻く魔力を絞り出した。青い靄のような光が首周辺を包みこむ。通りぬける空気が震え、音が出た。
「ピィ」
はじめは笛のような音だった。突然のことに、二人の冒険者は驚いたのだろう。金髪の男は振り下ろそうとする剣をピタリと止め、茶色髪の男は飛びのくように距離を取った。
「な、なんだ急に」
茶色の男の顔は青くなっていた。彼らの会話を聞くに、相当臆病なのだろう。対する金髪のTシャツ男は大胆不敵。一瞬の動揺を浮かべたものの、剣を構えたまま動こうとはしなかった。
スカルは形成を続けた。喉だけではだめだ。空気の逃げ場を一点にする頬、口角。言葉を作るための舌。湧き出る記憶を頼りに青い霧状の魔力を結集させ、人間の形を再現しようとする。
「アッ、アッあ……」
声が出る。最初はかすれ声だった。どもりを続けながらも、徐々に慣れてくる。
「あ、ま、まお」
「まお?」
金髪男は気味悪がりながらも、スカルの言葉を反復した。お陰でスカルは確信を持てた。ちゃんと伝わる。喋れている、と。
彼は死ぬ前に、これだけは聞かないといけないと思っていたことを、不器用ながらも口に出した。
「まお、まおうは、どどど、どうなった」
辺りがシンと静まり返る。目の前にそびえる男二人は、まるで凍り付いたかのようだ。この状況が理解できていないのか、はたまた何かの恐怖に固まってしまったのか。しかし、それはすぐに溶けおちた。盛大な笑い声が突然響き渡ったのである。
「がっはっは!」
「魔王! 魔王だってよ!」
「いきなり喋り始めたからびっくりしたぜ! まさか人語を介する魔物がいるだなんてよ! だが、時代遅れも甚だしいってな!」
「ああ! こいつ、知らないでやんの!」
二人は腹を抱えて大笑いした。
ひぃひぃと、まるで全速力で長距離を走り切ったかのような息が交互に鳴り、男たちの目じりには嘲笑の涙がくっついている。豪快さが売りの白Tシャツ男は、肩にかけたバックルに刃を乗せ、構えを解いてこう言った。
「魔王はな、もう死んでんだよ。十年も前にな」




