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捨てられ令嬢は最後に笑う

嘘をつくたびに頭上の数字が増える世界で、婚約者の数字だけが一万を超えていた

作者: 歩人
掲載日:2026/03/08

 一万二百四十七。


 大広間のシャンデリアが黄金色の光を降らせる中、私はその数字を見ていた。


 王宮の大舞踏会。年に三度しか開かれない、王国貴族の社交の華。きらびやかなドレスと礼服が行き交い、楽団の旋律が天井の高い広間を満たしている。


 誰もが笑顔だった。


 そして、誰もが頭上に数字を浮かべていた。


 右手の老貴族は「247」。左手の令嬢は「89」。入り口で談笑する騎士団長は「1,203」——意外と多い。奥方に何か隠しているのだろうか。


 これが、私の見ている世界。


 嘘をつくたびに頭上の数字が増える——この世界の、誰も知らない法則。そして、その数字を見ることができるのは、「真実の瞳(しんじつのひとみ)」を持つ私だけ。


 視線を正面に向ける。


 大広間の中央で、金髪の青年が笑っていた。完璧な笑顔。完璧な立ち居振る舞い。社交界の誰もが認める、侯爵家の麒麟児きりんじ


 ヘルムート・フォン・ドラッヘンブルク。


 私の——元婚約者。


 彼の頭上に浮かぶ数字は、一万二百四十七。赤みがかった光が——まるで血の色を帯びたように、その五桁を刻んでいた。


 他の誰の数字も白銀色なのに、彼の数字だけが赤黒い。嘘が多いほど赤みを帯びる。この大広間の誰よりも、桁が違う。文字通りの意味で。


 今夜、彼は新しい婚約者を社交界にお披露目するのだという。男爵令嬢の——名前は忘れた。私の次の犠牲者になる予定の女性。


 でも、大丈夫。


 今夜で終わらせるから。




 思えば、私の人生はずっと「数字」と共にあった。


 物心ついた頃から、人の頭上に光る数字が見えていた。最初は誰にでも見えるものだと思っていた。五歳のとき、母に言ったのを覚えている。


「お母様、お母様の頭の上に『42』って書いてあるの」


 母の顔が強張った。


「何を言っているの、エルヴィラ」


「お父様は『108』で、使用人のマルタは『17』で——」


「やめなさい」


 母の声は鋭かった。怯えていた。


 それから何度か同じことを口にするたびに、周囲の大人たちは私を気味悪そうに見た。「あの子は変わっている」「不吉な目を持っている」——そんな囁きが、幼い私の耳にも届いた。


 八歳のとき、私は決めた。もう二度と、数字のことは口にしない。


 それ以来、私は一人で数字を見続けてきた。


 人の嘘が見える。


 それは能力ではなく、呪いだった。




 十五歳の春、ヘルムート・フォン・ドラッヘンブルクとの婚約が決まった。


 侯爵家の嫡子。金髪碧眼の美貌。社交界の誰からも慕われる、完璧な貴公子。


 初めて会った日、私は彼の頭上を見た。


「312」


 正直に言えば、少しだけ安堵した。二十三歳の貴族の男性で312は——多くも少なくもない。社交辞令、方便、お世辞。貴族社会で生きていれば、その程度の嘘は誰でもつく。父だって108だった。母も42。


 三桁前半なら、まだ普通の人だ。


 そう、思っていた。


「君を愛しているよ、エルヴィラ」


 婚約の宴で、ヘルムートはそう言って微笑んだ。


 その瞬間、頭上の数字が変わった。


 312が、313に。


 ——ああ。


 最初の嘘は、そこだった。


 けれど私は微笑み返した。312回の嘘に比べれば、たった一つの嘘など取るに足らない。きっと、婚約したばかりで「愛している」というのは、少し気恥ずかしかっただけだろう。


 そう、思おうとした。




 数字が増え始めたのは、婚約してからだった。


 最初の一年で、312は1,000を超えた。


 私の持参金の使途報告書をヘルムートが提出するたびに、数字が跳ねた。一度に二つ、三つと増えることもあった。報告書の項目一つ一つが嘘だったのだろう。


 横領。


 それが最初に気づいた嘘の種類だった。


 けれど、私には数字が見えるだけで、何の証拠もない。「あなたの頭の上の数字が増えたから横領ですわね」——そんな告発は、誰にも相手にされない。


 二年目の秋だった。


 私はドラッヘンブルク家の渡り廊下で、ヘルムートを待っていた。約束の時間を三十分過ぎていた。使用人に尋ねると「お出かけです」と言う。どこへ、と聞くと、顔を逸らされた。


 やがてヘルムートが帰ってきた。外套がいとうにかすかな香水の匂いが残っていた。私が使っていない香水。


「今日は友人と狩りに行っていた」


 そう言うヘルムートの頭上で、数字が一つ増えた。


 狩りではない。別の女性と会っていたのだ。どの女性かは分からない。数字は「嘘の回数」しか教えてくれない。内容までは見えない。


 けれど——あの香水の甘さと、頭上で跳ねた数字。二つを重ねれば、推測はできた。


 浮気。


 知りたくなかった。知ってしまった。そして、何も言えなかった。


 三年目。5,000。四年目。7,000。五年目。ついに一万を超えた。


 功績の偽装、讒言ざんげん、裏取引、口裏合わせ——ヘルムートの嘘は際限なく膨らみ続けた。宮廷では他者の功績を奪い、社交界では「完璧な侯爵嫡子」として称賛される。その頭上で、赤みを帯びた数字だけが真実を刻み続けていた。


 そして私は——ただ、見ていた。


 何もできなかった。


 「真実の瞳」は呪いだった。嘘が見えるのに、止められない。知っているのに、誰にも言えない。数字を見るたびに、心が少しずつ削れていくのを感じていた。




 六年目の春。ヘルムートの数字は一万を超えていた。


 社交パーティーの席で、彼は突然言った。


「エルヴィラ。僕たちの婚約を解消しよう」


 会場がざわめいた。


「お前は退屈な女だ。華もなければ、愛想もない。僕にはもっとふさわしい相手がいる」


 頭上の数字が一つ増えた。


 一万二百四十七。


 「退屈な女」——それも嘘だ。本当は「邪魔になった」。横領がそろそろ限界に達して、持参金の出所が怪しまれる前に、婚約者ごと切り捨てたかったのだろう。


 周囲の令嬢たちが息を呑んだ。同情の視線。憐れみの囁き。


「可哀想に……あんなに尽くしていたのに……」


 私は——微笑んだ。


「分かりました、ヘルムート様」


 それだけ言って、静かに会場を後にした。


 泣かなかった。怒りもなかった。


 ただ、数字を見なくていい日々が始まることに——途方もない安堵を感じていた。




 婚約破棄の後、私はリヒテンフェルト伯爵家の実家には戻らなかった。


 父は病床にあり、母は私を持て余していた。「婚約破棄された娘」は、伯爵家にとっても荷物だった。


 伝手つてを頼って、辺境伯領に身を寄せることにした。王都から馬車で一週間。森と清流に囲まれた、静かな土地。


 馬車の窓から見える景色が、王都から離れるにつれて変わっていく。人が減る。建物が減る。数字を浮かべた頭が減る。


 王都では、どこを見ても数字があった。二桁、三桁、四桁。嘘で満ちた世界。


 辺境では——人が少ない分、数字も少なかった。


 それだけで、息がしやすくなった。




 辺境伯領の屋敷で出迎えてくれたのは、一人の青年だった。


「ヴァルトシュタイン辺境伯が嫡子、テオドールだ。……ようこそ」


 朴訥な声。日焼けした肌。無造作な茶髪。社交界の貴公子とは正反対の、飾り気のない青年。


 私は反射的に、彼の頭上を見た。


 ——そして、息を呑んだ。


「3」


 目を疑った。


 見間違いかと思い、何度も確認した。


 3。たった、3。


 二十四年間生きてきて、嘘を三回しかついていない。


 そんな人間が、いるのか。


「……どうかしたか?」


 テオドールが怪訝そうに首を傾げた。私がじっと彼の頭上を見つめていたことに気づいたのだろう。


「い、いえ。何でもありません。お世話になります、テオドール様」


「……ああ。何かあったら、遠慮なく言ってくれ」


 短い言葉。愛想もない。社交辞令すらない。


 ——だから、数字が増えないのだ。


 この人は、嘘がつけない。嘘をつく必要を感じていない。思ったことをそのまま言うか、言わずに黙るか。


 それが、テオドール・フォン・ヴァルトシュタインという人だった。




 辺境伯領での日々は、穏やかだった。


 テオドールは口下手だったが、領地経営は堅実だった。毎日、朝から畑を見回り、領民の相談に乗り、夕方には書類仕事をする。


 彼の言葉は少ない。けれど嘘がない。


 「今日の麦の育ちはいい」——数字は動かない。本当のことだ。

 「この橋は修繕が必要だ」——数字は動かない。

 「……今日の夕食の魚は、俺が釣った」——数字は動かない。少しだけ得意げな顔。


 ヘルムートと暮らした六年間、私はいつも数字を見ていた。話すたびに増える数字。笑顔のたびに増える数字。愛の言葉のたびに増える数字。


 テオドールの傍にいると、数字が動かない。


 それがどれほど安らかなことか——この瞳を持たない人には、きっと分からない。




 ある夜のことだった。


 辺境伯領の庭園で、私は一人で月を見ていた。夜の庭園には人がいない。数字を浮かべた頭がどこにもない。それが好きだった。誰の嘘も見なくて済む、束の間の時間。


「……眠れないのか」


 テオドールが来た。手には温かい飲み物が二つ。


「ハーブ茶だ。うちの領地で採れる。……よかったら」


「ありがとうございます」


 並んで座った。しばらく無言だった。テオドールは沈黙を苦にしない人だった。


 月が雲に隠れた瞬間、私は口を開いていた。


「テオドール様。私には——人には言えない秘密があるのです」


「……」


「嘘をつくと、人の頭上に数字が浮かぶことをご存じですか?」


「……いや」


「この世界では、嘘をつくたびに頭上の数字が一つ増えます。でも、ほとんどの人にはその数字が見えません」


 テオドールは黙って聞いていた。


「私には——見えるのです。生まれつき。『真実の瞳』と呼ばれる……力、のようなもの」


 長い沈黙。


 怖かった。これを話すのは、八歳の頃に母に拒絶されて以来、初めてだった。気味悪がられるかもしれない。恐れられるかもしれない。


 テオドールはゆっくりとハーブ茶をすすり——そして言った。


「……それは、辛かっただろう」


 その一言で、私の中で何かが崩れた。


 能力のことを問い詰めるのではなく。数字の仕組みを知りたがるのではなく。


 ——辛かっただろう、と。


 十三年間、誰にも言えずに一人で見続けてきた嘘の数字。その孤独を、たった一言で掬い上げてくれた。


「テオドール様の数字は——3、です」


「……3?」


「二十四年間で、3つしか嘘をついていない。私が出会った中で、一番少ない数字です」


 テオドールは困ったように頭を掻いた。


「嘘をつくのが下手なだけだ。すぐ顔に出る」


「それは——とても、素敵なことだと思います」


 数字が3のまま増えない人がいるなんて、知りませんでした。


 私はそう思った。思っただけで、口には出さなかった。出したら泣いてしまいそうだったから。




 翌日から、私はテオドールに全てを話した。


 ヘルムートのこと。一万を超える嘘の数字のこと。横領、浮気、功績の偽装。数字が増えるたびに、何が起きたかを推測してきた六年間の記録。


 テオドールは黙って聞き——そして言った。


「……証拠がいるな」


「はい。数字だけでは誰にも信じてもらえません」


「俺にできることがあれば、言ってくれ」


 口下手な彼の、短い申し出。けれどその言葉に嘘はなかった——数字は動かなかった。


 そこから、二人の裏取りが始まった。


 テオドールは辺境伯の嫡子として、独自の人脈を持っていた。王都の社交界には疎いが、実務者同士のつながりは太い。地方領の帳簿管理者、交易記録の担当官、辺境と王都を結ぶ商人たち。


 私が「数字が増えた日時」を伝え、テオドールがその日に何があったかを調べる。


 横領は帳簿の突き合わせで裏が取れた。ヘルムートが報告した持参金の使途と、実際の支出記録が一致しない。差額は彼の個人口座に流れていた。


 浮気の証言は難航した。ヘルムートの現在の従者は全員が口をつぐんだ。「侯爵家に逆らえば、自分の家族がどうなるか」——テオドールが接触した一人は、手を震わせながらそう言って扉を閉めた。


 けれど、かつての従者——すでにドラッヘンブルク家を辞した男が、ようやく証言してくれた。「旦那様は週に二度、伯爵令嬢のもとに通っておいででした」


 功績の偽装は、さらに厄介だった。実際にその仕事を成し遂げた官僚は、最初は「関わりたくない」と断った。三度目の訪問で、テオドールが「あなたの功績を取り戻すことでもある」と言ったとき、ようやく口を開いてくれた。「あの交渉は私がまとめました。ドラッヘンブルク卿は現場にすら来ていません」


 一つ一つ、数字に対応する証拠が積み上がっていった。


 全てを暴くことはできない。一万を超える嘘の全てに証拠を揃えるのは不可能だ。だが、要所を押さえればいい。横領の金額、浮気の証人、偽装の記録——これだけあれば、あの男の仮面は剥がせる。


 三ヶ月。


 証拠が揃うのに、三ヶ月かかった。


 そしてその間——テオドールの数字は、ずっと「3」のままだった。




 準備が整った夜、テオドールが言った。


「大舞踏会が一番いい。ヘルムートは新しい婚約者を紹介するらしい。社交界の全員が集まる」


「……ええ。最大の観客がいる場で」


「エルヴィラ」


 テオドールが私の名前を呼んだ。「嬢」がいつの間にか取れていた。


「辛かったら、途中でやめていい。俺が代わりに証拠を読み上げる」


「いいえ」


 私は首を振った。


「これは、私がやらなければならないことです。六年間、見続けてきたのは私ですから」


 テオドールが頷いた。何も言わなかった。


 けれど、その手が——そっと私の手に触れた。


 温かかった。嘘のない手だった。




 そして今夜——王宮の大舞踏会。


 ヘルムートが壇上で新しい婚約者を紹介していた。


 栗色の髪の、可愛らしい令嬢。男爵令嬢——証拠を集める過程でその名がカロリーネだと知った。その子の頭上の数字は「34」。まだ若い。嘘の少ない、善良な娘なのだろう。


「皆様、ご紹介いたします。この度、僕の伴侶となるカロリーネ嬢です。僕は彼女を心から愛しています」


 頭上の数字が一つ増えた。


 一万二百四十八。


 ——また、嘘をついた。


 私は深く息を吸い、一歩を踏み出した。


「失礼いたします」


 会場がざわめいた。


 婚約破棄された元令嬢が、よりによってこの場に現れた。囁きが波のように広がる。


「リヒテンフェルト伯爵令嬢……?」

「まあ、あの方、来ているの……?」

「何をしに……?」


 ヘルムートが目を細めた。余裕の笑み。


「これはエルヴィラ。わざわざ祝いに来てくれたのか? 感謝するよ」


 頭上の数字が増えた。感謝など、していない。


 私はヘルムートの正面に立った。テオドールが半歩後ろに控えている。


「いいえ。祝いに来たのではありません」


 会場が静まった。


「少し——数字の話をしましょう」




「数字? 何の話だ?」


 ヘルムートがかすかに眉をひそめた。


「ヘルムート卿。あなたはご存じないでしょうが、この世界には——嘘をつくと頭上の数字が増えるという法則があります」


 会場がざわめいた。何を言い出すのか、と。


「そして、その数字が見える者がいます。『真実の瞳』と呼ばれる——生まれつきの力を持つ者が」


「何を馬鹿な——」


「私が、その持ち主です」


 静寂。


「そして、あなたの頭上に浮かぶ数字は——一万二百四十八」


 会場がどよめいた。


 ヘルムートは笑った。余裕を装って。


「荒唐無稽な作り話だ。婚約破棄されたのが悔しくて、頭がおかしくなったか?」


 数字が増えた。


「今、一つ増えました。一万二百四十九」


「……何?」


「嘘をつくたびに増えるのです。今の言葉も嘘でしたから」


 会場の空気が変わった。まだ半信半疑だが——エルヴィラの言葉には、奇妙な説得力があった。


「数字だけでは信じていただけないでしょう。ですから、証拠をお持ちしました」


 テオドールが書類の束を手渡す。


「312番目の嘘——これは婚約の日です。あなたは私に『君を愛している』と言いました。あの瞬間、あなたの数字は312から313に増えました」


 私は帳簿の写しを掲げた。


「そしてこちらは、婚約直後から始まった持参金の横領記録です。リヒテンフェルト伯爵家からの持参金のうち、三割が不正にドラッヘンブルク家の個人口座に流されています」


 会場がどよめく。


「1,024番目の嘘は——『今日は友人と狩りに行っていた』。実際にはベルクハイム伯爵令嬢と密会していました」


 証人が名乗り出た。ヘルムートのかつての従者だ。


「私は旦那様の従者でした。週に二度、お忍びで伯爵令嬢のもとに通っておられました」


 ヘルムートの顔色が変わり始めた。


「5,891番目——宮廷への功績報告。辺境伯領との交渉成功。あれを実際にまとめたのは、ヴェーバー事務官です」


 壮年の官僚が進み出た。


「あの交渉は私が三ヶ月かけてまとめました。ドラッヘンブルク卿は署名の場にいらしただけです」


 一つ、また一つ。


 私は数字と証拠を対応させながら、静かに読み上げていった。


 会場は凍りついていた。誰も口を挟めなかった。


 ヘルムートの顔から、完璧な笑顔が剥がれていく。最初の余裕が消え、焦りに変わり、そして——恐怖に変わった。


「やめろ……やめろ!」


「やめません」


 私は微笑んだ。六年間、ずっと見続けてきた笑顔——けれど、今夜の笑顔は違う。


「一万二百四十七。それがあなたの嘘の数ですわ、ヘルムート卿」


 会場が息を呑んだ。


「六年間。婚約してからの六年間で、あなたは一万近い嘘を重ねました。一日に四回から五回。朝起きてから夜眠るまで、あなたは嘘を吐き続けた」


「黙れ……! そんな数字など存在しない! でたらめだ!」


 ヘルムートが叫んだ。


 私は静かに言った。


「——今、一つ増えましたわ。一万二百五十」


 会場がざわめいた。


「『でたらめだ』——これも嘘でした。あなた自身が、一番よくご存じでしょう?」


 ヘルムートの顔が蒼白に変わった。


 嘘をついた瞬間を指摘される。これは反論の方法がない。嘘で否定すれば数字が増え、沈黙すれば認めたことになる。


「最後に——もう一つだけ」


 私は新しい婚約者であるカロリーネ嬢に目を向けた。彼女は震えていた。


「先ほど、ヘルムート卿は『彼女を心から愛しています』と仰いました。あのとき——数字が一つ増えました」


 カロリーネ嬢の顔から血の気が引いた。


「カロリーネ様。あなたのことは存じ上げませんが、どうかお気をつけくださいませ。この方の愛の言葉は——数字が証明しているように、嘘です」


 カロリーネ嬢がよろめいた。侍女が駆け寄り、支える。


「312番目は——『君を愛している』。あれも嘘でした」


 私はヘルムートに向き直った。


「六年間、あなたの嘘を見続けました。一つ残らず。けれど今日まで黙っていました。証拠がなかったから。『数字が見える』と言っても誰も信じてくれなかったから」


 声は震えなかった。六年分の覚悟が、私の声を支えていた。


「でも今は——証拠があります。数字と、それを裏付ける文書が」


 ヘルムートは何か言おうとした。口が開いた。


 けれど——何も言えなかった。


 何を言っても嘘になる。嘘をつけば数字が増える。増えれば私が指摘する。


 一万二百五十の嘘に囲まれた男は——初めて、黙った。




 その後のことは、あっという間だった。


 王室監査官が証拠書類を受理し、ヘルムート・フォン・ドラッヘンブルクは横領、詐称、公文書偽造の罪で拘束された。


 ドラッヘンブルク侯爵家は連座を問われ、ヘルムートの爵位は剥奪。財産は没収。社交界からの追放。


 カロリーネ嬢との婚約は、即座に破棄された。


 シュテルン王国の社交界は震撼した。「あのドラッヘンブルク家が」「侯爵嫡子が横領を」——大舞踏会の翌日から、王都のサロンは噂で持ちきりだったという。数字の多い貴族たちは内心穏やかではなかっただろう。自分の頭上にも見えない数字が浮かんでいると知って、怯えた者もいたに違いない。


「真実の瞳」の存在は、社交界に大きな波紋を呼んだ。嘘が見える人間がいる——その噂は、瞬く間に王国中に広がった。


 けれど、私はそんなことにはもう興味がなかった。




 辺境伯領に戻ったのは、大舞踏会から一週間後のことだった。


 森の匂いがする。清流の音がする。王都の喧噪けんそうはどこにもない。


 そして——数字に怯えなくていい場所が、ここにある。


 庭園のベンチに座って、私はテオドールの隣にいた。


 彼の頭上の数字は——相変わらず「3」だった。


「ねえ、テオドール」


「……ん」


「あなたの3つの嘘。教えてくれませんか?」


 テオドールがきょとんとした。それから、照れくさそうに頭を掻いた。


「……大した嘘じゃない」


「聞きたいのです」


「……1つ目は、五歳の頃だ。雷が怖くて泣いた夜、母さんに『怖くない』と言った」


 私は目を閉じた。五歳の男の子が、母を安心させたくてついた嘘。


「2つ目は——友達と喧嘩して、転んで膝を擦りむいた。友達が泣きそうな顔をしていたから、『痛くない』と言った」


 友を傷つけまいとした嘘。


「3つ目は……父が国境の遠征に出る日だ。半年は帰れないと言われて、でも『寂しくない』と言った。……あれは、嘘だった」


 父を送り出すためについた嘘。


 三つとも——誰かを守るための嘘だった。


 一万二百五十の嘘を見続けた後で、この「3」の中身を知ったとき。


 私の目から、涙がこぼれた。


「……エルヴィラ?」


「ごめんなさい。……嬉しいのです」


「嬉しい?」


「嘘が全部——優しかった。あなたの嘘は、全部、誰かのためだった」


 テオドールは黙って、私の涙が止まるのを待ってくれた。


 やがて、ぽつりと言った。


「……数字を見なくても、俺のことは信じてほしい」


 少し間があった。


「……いや、見てくれてもいい。俺は——増やす予定がないから」


 不器用な言葉。けれど、嘘のない言葉。


 私は涙を拭いて、笑った。心からの笑顔だった。六年ぶりの——いや、もしかしたら生まれて初めての、心からの笑顔だったかもしれない。


「世界は——こんなにも静かだったんですね」


 嘘の数字がない世界ではない。


 けれど、隣にいる人の数字が「3」であること。その3つが全て、優しさから生まれた嘘であること。


 それだけで——世界は十分に、静かだった。


 辺境の風が、庭園の木々を揺らしていた。


 テオドールの手が、そっと私の手に重なった。


 温かかった。


 嘘のない温もりだった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今作は「知略型・数値可視化」の独自設定ストーリーです。「嘘をつくと数字が増える」という世界のルールを、ざまぁの武器として使うことに挑戦しました。エルヴィラが持つのは剣でも魔法でもなく「数字が見える目」だけ。でも、六年間見続けた一万の嘘の記録と、それを裏付ける証拠があれば、どんな仮面も剥がせる——そういう物語を書きたかったのです。


 テオドールの「3」は、この物語の裏の主役です。一万二百四十七の嘘を見続けたエルヴィラにとって、「3」がどれほど衝撃的だったか。しかもその中身が「母に怖くないと言った嘘」「友達に痛くないと言った嘘」「父に寂しくないと言った嘘」——全部、誰かを心配させないための嘘だった。嘘の「数」ではなく「質」が、人の本性を映す。信頼できる相手を数字で確認できるのは便利かもしれませんが、逆に言えば「数字を見ないと信じられない」という切なさもある。テオドールの「数字を見なくても、俺のことは信じてほしい」という言葉が、エルヴィラの呪いを少しだけ解いてくれたのだと思います。




◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇




婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。




▼ 公開中


・「お前は道具だった」と笑った〜【知略型】

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・「毒杯を捧げなさい」と命じた〜【断罪型】

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― 新着の感想 ―
言葉にしなければ、嘘のカウントにならないなら、抜け道ありそう  イヤイヤ期とかで、増えない? ある程度の知能や善悪の判断に左右される? 正しくない事を本人は正しいと思ってる場合は?
自分が確認した数字に関連する出来事を全部記憶してることのほうが、真実を見通す目よりも稀有な能力だったのかも。 この記憶力が無ければ調べることも出来なかったでしょうね。
ほんの3ヶ月、たった2人で調べただけで突き止められる程度の証拠を6年間放置した。 それは『何も出来なかった』のではなく『何もしなかった』のでは? 『嘘が見えるのに、止められない。知っているのに、誰にも…
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