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『パタヤ日本人殺人事件〜消えた線路の幽霊〜』タイ・トラベルミステリー・シリーズ  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー


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第七話 鎮魂の汽笛

タイ・カンチャナブリにある、泰緬鉄道の「地獄の切り通し」(ヘルファイア・パス)の深奥。酒井浩二が「一族の黄金」と信じて疑わなかった隠し場所の正体は、軍機保護を名目に焼却を命じられた、数百名の戦没者名簿と遺品が眠る「魂の保管庫」だった。八十年の時を超え、藤堂伍長ら英霊たちの憤怒が切り通しに渦巻く中、坂本は酒井の野望を挫き、崩落する岩盤から命懸けで名簿を救い出す。それは、私欲のために戦友を裏切った者たちと、誇りを守り抜いた男たちの決着の刻であった。霧の向こうに消えゆく英霊たちとの、涙の別れが描かれる。

1.夜明けの静寂(せいじゃく)

 

 ヘルファイア・パス――地獄の切り通しに、再び重苦しい静寂が戻る。


 舞い上がる土煙が月光に透かされて、まるで英霊たちの魂が粒子となって漂っているかのようだった。


 先ほどまでの硝煙と叫喚の地獄が嘘のように、冷たい夜気が肌を刺す。


「……坂本さん!」  


 瓦礫を掻き分ける音と共に、小林が駆け寄ってきた。


「坂本さん、怪我は? ……それから、藤堂伍長は……?」


 小林の問いに、坂本はすぐには答えなかった。


 彼はただ、自分の掌をじっと見つめていた。


 そこには、奈落へ落ちる酒井を引き上げた時の生々しい肉の熱さと、その自分を背後から支えてくれた、あの「泥まみれの掌」の凍えるような感触が、今も消えずに重なっている。

 

 あの時、確かに八十年前の兵士たちが自分と共に戦っていたのだ。


「……終わったよ。伍長も、もういない。金塊なんて最初からなかったんだな」  


 坂本の声は、喉の奥に張り付いた砂を吐き出すように低く掠れていた。


「マイちゃん……。マイッ!! 何処行っちゃんだよ、返事をしてくれ!!」


 背後で、山岸の悲鳴に近い叫びが響いた。  


 彼は血の滲む足を引きずりながら、マイが自ら飛び込んだ漆黒の深淵へと這い寄ろうとする。


 その震える肩を、銃をホルスターに収めたリサが力強く制した。


「だめよ、山岸。あそこはもう、生きてる人間が踏み込める場所じゃないわ」  


 リサの声はいつになく冷静だったが、その瞳にはやりきれない色が混じっていた。


 彼女は奈落の縁に立ち、月光さえも呑み込んでいる虚無の闇を見下ろした。


「……彼女、あんな真っ暗な穴の底に一体何を見たっていうのよ。金塊なんて、どこにもなかったのに…残念だわ」


「リサ、本庁に応援と救急車を。……それから、この場所の完全封鎖を頼む」

 

 坂本の指示に、リサは一度深く息を吐いてから無線機を手に取った。


 坂本は無言で、自分たちが引き上げられた足元のすぐ脇――激しい崩落のさなか、奇跡的に埋もれず口を開けていた小さな空洞に視線を向けた。


 坂本は小林から懐中電灯を受け取ると、その狭い洞の奥へと光を当てた。


 リサと小林、そして涙を拭った山岸も、吸い寄せられるようにその光の先を覗き込む。


 そこにあったのは、酒井が求めた金色の輝きではなかった。  


 湿った土の上に整然と並べられていたのは、錆びついて茶褐色に変色した数百の飯盒(はんごう)と、泥にまみれて固まった軍靴(ぐんか)の山だった。


「これが金塊……?そんなわけないですよね」  


 小林が絶句し、妙に納得した声を出した。


 懐中電灯の光が飯盒の一つを捉えた。

 

 そこには白いペンキで、風化に耐えた力強い筆跡が残されていた。


『泰緬鉄道・特別工区 戦友遺品保管所』



2.因果応報


 坂本は膝をつき、震える手で飯盒を開けた。


 中には厳重に防水された油紙の束――数百枚の兵士の「認識票」と、分厚い「戦没者名簿」が収められていた。


「しっかりと見るんだ、酒井。あんたが八十年、一族を呪縛し続けてきた『黄金』の正体を!」


 引きずり出された酒井が、狂ったように飯盒の中身をぶちまけた。


 だが、そこから溢れ出したのは、乾いた金属音を立てる認識票の把だった。


「……なんだ、これは。なんだっていうんだ!黄金はどこだ! 祖父が遺した莫大な金塊はどこにあるんだ!」  


 酒井の声が裏返り、震える。


 逆上した酒井は名簿を掴み、破り捨てようとした。


 だが、表紙をめくった瞬間、その手が金縛りにあったように止まる。


 最初のページに、彼の祖父である酒井中尉の直筆で、冷酷な命令が記されていたからだ。


《軍機保護ニ鑑ミ、全労務者並ニ戦没者ノ記録一切ヲ此ノ地ニテ焼却処分ニ付スベシ 酒井―蔵》

 (軍機保護のため、全労務者および戦没者の記録をこの地にて焼却処分すべし―酒井一蔵)


 「酒井さん、あんたの祖父、酒井一蔵中尉は、戦時中の混乱に乗じて軍資金を横領していた。だが、正義感の強かった藤堂伍長にその尻尾を掴まれた。焦った中尉は、部下だった山西の祖父、山西曹長たちを共犯に仕立て、口封じのために藤堂伍長を殺害したんだ。犠牲になった山西さんの祖父は、あんたの祖父に無理やり人殺しの片棒を担がされたんだ」


 ―坂本は続けた。


「藤堂伍長は死の間際、自分を殺そうとする男たちの『欲の塊(エゴ)』を見抜き、呪いをかけた。この名簿には黄金の隠し場所が記されているという“嘘”をな! あんたの祖父は、自らの罪の証拠を『黄金の地図』として死に物狂いで守り始めた。殺した相手に踊らされているとも知らずにな!」


 小林が冷徹に言い放つ。


「そして現代、山西さんは祖父が犯した罪を調べ上げ、一族の汚れた過去を清算しようとしたんだ。だからあんたは、祖父と同じように口封じで彼を殺したんだ!」


 かつて酒井の祖父が、戦時中に掠め取った軍資金は、戦後、戦犯追及を逃れる工作費と日本での起業資金にすべて転用され、とっくに消えていた。酒井は先祖が食いつぶした幻影のために殺人と破滅を重ねた、救いようのない因果応報の徒労に終わったのである。


 リサは冷笑し、酒井の耳元で氷のような声を浴びせた。


「山西さんの『失踪』もあなたの自演ね。架空の支店長を装い、彼を『山岸』という偽名にすり替え捜索願いを出した。そして山西さんを誘い出し殺害した。遺体が見つかった時の捜査を迷走させるための姑息な時間稼ぎね……」  


 酒井は顔を背け、絶望に壊れた笑い声を上げた。


「はは……ははは! そうだ、その通りだ! だがな、俺がこの『塵芥(がらくた)』のために、裏の組織にどれほどの資金を積み上げたと思っている!」


「裏の組織だと?」


 坂本の鋭い問いに、酒井は隠す気さえ失ったのか、吐き捨てるように自嘲した。


「タイに長く住めば分かる。私は、闇社会の武装組織『クロコダイル』へ多額の工作資金を投じ、物流、汚職官僚、マフィアを一本に繋ぐ『黄金の道』を再建するはずだった……。これさえ完成すれば、国家すら私に跪いたはずだ! 貴様らのような小役人には分からん世界だ!」


 酒井の背後には、エリート駐在員の立場を隠れ蓑にして築き上げた、『クロコダイル(武装組織)』との深い癒着と、政財界の裏社会とのネットワークが張り巡らされていた。


 酒井の狂った独白に、小林はただ絶句し、そのあまりに巨大で独りよがりな悪意に背筋を震わせた。


 リサは一切の揺らぎを見せず冷えた眼差しを向けた。


「国家が跪くって? あんたが作ったのは道なんかじゃない。悪の組織(クロコダイル)に寄生され、不正と汚職に利用されただけじゃないの!」


 坂本は重く、低い声で最後通牒を突きつけた。


「酒井……。あんたは八十年前、私欲のために戦友を裏切った祖父と全く同じだ。


 時代が変わっても、あんたのような男は結局、存在もしない幻影を追いかけて墓穴を掘る…悲しい(さが)だな」



 3.崩落の咆哮(ほうこう)


 その時、大気を震わせる不気味な地鳴りが再び轟いた。


 足元の岩盤が生き物のように(とどろ)き、切り通しの断崖から拳大の(がれき)が雨のように降り注ぐ。


「坂本さん、岩盤がまた動き出したわ! 崩れるわよ、急いで!」

 

 リサが叫び、小林の腕を掴んで走り出す。


 しかし、坂本は動かなかった。


 崩落の衝撃で、飯盒から投げ出された認識票が足元に散乱している。


「待て……これを、これを置いてはいけない!」  


 坂本は地面に這いつくばり、泥にまみれた鉄の札を無我夢中で掻き集めた。


 一つ、また一つ。それはただの金属片ではない。


 異国に果て、名前さえ忘れ去られようとしていた男たちの「命」そのものだ。


 頭上から巨大な岩塊が剥離し、重力に従って垂直に落下してくる。


「坂本さん!!」  


 小林の悲鳴が響く。


 坂本は死を覚悟し、認識票の把を抱きしめて目を閉じた。  


 轟音が耳の奥で遠くなる中、坂本は聞いた。


 数十、数百の軍靴が、岩盤を支えるために泥を深く踏みしめる。  


「……押せっ! 支えろっ!!こいつを死なせちゃならん!」  


 ―幻聴ではない。


 泥まみれの軍装の無数の男たちが、坂本を覆うように巨大な岩塊を肩で担ぎ上げ、崩落をその千切れんばかりの肉体で食い止めているのが見えた。  

 

 男たちは血走った(まなこ)を剥き、必死の形相で坂本の背中を外へと突き飛ばした。


 同時に坂本は酒井の襟首を掴み、強引に引きずり出した。


「……行けっ!坂本! 貴様は生きて帰れっ!!」


 坂本の鼓膜を叩く幾重もの兵士たちの声。


 一瞬後、先ほどまで彼らがいた空洞は、数千トンの土砂と共に完全に埋没した。

 

 背後で巻き上がる土煙は、まるで巨大な墓標のようにそそり立っていた……。



4.慰霊祭


 ―数日後。  


 現場は、タイ警察によって完全に封鎖され、日本大使館を巻き込んだ、大規模な国際犯罪捜査が始まろうとしていた。


 本格的な現場検証が行われるその一角で、細やかな慰霊祭が行われた。

 

 仮設の祭壇には、坂本が命懸けで持ち出した名簿と、飯盒が並べられ、タイの僧侶による読経が反響して空へと昇っていく。


 山岸は、肩を落としながら、マイが消えた奈落に向かって静かに花を供えた。


 彼女の正体が組織のスパイだったとしても、共に過ごした時間に一欠片(ひとかけら)の真実があったと信じることで、彼はようやく自分の心に区切りをつけようとしていた。


 リサがふと、かつて線路が敷かれていた先を見つめて呟いた。


「……坂本さん。今、聞こえなかった? 蒸気機関車の、汽笛みたいな音…」

 

 小林も頷く。


「はい……僕にも聞こえました。あれは確かに日本軍の蒸気機関車C56(シゴロク)の汽笛の音です」


 坂本の目には、はっきりと見えていた。  


 朝霧の向こう側、軍装を整えた藤堂伍長が、部下たちを率いて整列している。


 彼らはもう、泥にまみれてもいなければ、銃を構えてもいない。


 皆、遠い故郷の家族を想うような、穏やかで晴れやかな顔をしていた。


『坂本……。貴様には世話をかけたな。礼を言う。これでやっと仲間と一緒に帰れる。休暇も終わりだ、あとはお前に託すぞ』


 藤堂が坂本に向かって、満足げにゆっくりと敬礼を送る。


 坂本もまた一人の日本人として、背筋を伸ばし深く頭を下げた。  


 霧が晴れるとともに、兵士たちの姿は光の中に溶けていった。


 後には、穏やかな朝の鳥の声だけが残された。


 小林が、大使館の他の職員たちと遺品を整理していた時、


「あっ、これは?」と驚きの声を上げた。


「坂本さん、これを見てください……!」  


 一つの飯盒の中から、古びた一筋の肩章が見つかったのだ。 


 “赤地に金の縦線、そして中央に一つの金星”


 それは、今回の事件の始まり――あの、レムチャバン埠頭の倉庫でみつかった山西が、死の間際に犯人から毟り取り、その手に固く握りしめていたものと、寸分違わぬ藤堂伍長のもう片方の肩章だった。


「藤堂伍長の、もう片方の肩章だ……」


 八十年の時を経て、引き裂かれていた一対の肩章がついに再会を果たした。


 坂本は天を仰いだ。


「伍長……見てるか。あんたが命懸けで守ったものは、しかと預かりましたよ!」


 霧が完全に晴れ、眩い太陽の光が差し込む。  


 坂本の手の中にある“もう片方の肩章”は、まるで藤堂伍長の魂が宿ったかのように、黄金よりも温かく、力強く輝いていた……。


(第八話に続く)

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