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『パタヤ日本人殺人事件〜消えた線路の幽霊〜』タイ・トラベルミステリー・シリーズ  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー


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第五話 クウェー河の慟哭

パタヤでの死闘を辛くも生き延びた坂本啓介たちは、幽霊の藤堂一馬伍長の導きにより、カンチャナブリの密林の奥深くに隠された禁忌の領域――「黄金のサパーン・トーン」を目指す。しかし、背後からは冷酷な知略家・酒井の息がかかった武闘派マフィア「クロコダイル」の追撃が迫っていた。

 歴史の闇に葬られた怨念が渦巻くクウェー河を舞台に、時を超えた混成部隊の決死の行軍が、今始まる。

1.混成部隊の朝食

 

 パタヤから北西へ約三百キロ。  


 夜明け前の低い霧が立ち込める中、リサが運転する車は「死の鉄道」と呼ばれた泰緬鉄道(たいめんてつどう)の要衝、カンチャナブリへと入った。


 第二次大戦中、日本軍がビルマ(現ミャンマー)への補給路として建設した泰緬鉄道。


 苛烈な環境と飢餓、労役により数万人の捕虜や労働者が命を落とし、枕木一本に一人死んだと言われるその鉄路は、別名「死の鉄道」と呼ばれた。


 窓の外には、深い藍色の闇に浮かび上がるクウェー川の鈍い光が見える。

 

 その上を跨ぐ鉄橋――映画「戦場にかける橋」として知られるその鋼鉄の骨組みは、まるで巨大な怪物の死骸のように、まったりと流れる川面を見下ろしていた。

 

「……着いたわね。ここが、あなたの祖父さんが地獄を見た場所よ」

 

 リサがハンドルを握ったまま、後部座席でようやく目を覚ました山岸に冷たく言い放つ。

 

 山岸は寝ぼけ眼で外を眺めたが、歴史の重みに圧し潰されたのか、すぐに顔を背けた。  


 車内には、いつの間にか強烈な「湿った鉄の匂い」が充満していた。


『……変わらんな。この川の音、まとわりつくような湿気。すべてがあの日のままだ』

 

 助手席の坂本の真後ろから、藤堂伍長が低く呟いた。

 

 その輪郭は、朝もやの光に溶け、今にも消えてしまいそうなほど淡い。


「伍長、例の『黄金の道(サパーン・トーン)』の始発点は……ここから近いのか?」


 坂本が囁くように問うと、伍長はゆっくりと首を振った。


『いや、ここからさらに上流、ジャングルの深奥部だ。本線が断崖に突き当たる「地獄の切り通し(ヘルファイア・パス)」付近に、奴らが秘密裏に築いた偽装分岐点がある。そこから先は、地図にも、そして日本軍の公式記録にも存在せぬ禁忌の領域だ』


 坂本は、山岸から押収した和紙を広げた。


 墨で書かれた精緻な線の先、赤い円で囲まれた場所を地図アプリと照らし合わせるが、そこは深い密林が広がるだけの空白地帯だった。


簒奪(さんだつ)」の始発点……。そこに、酒井たちが追っている金塊が眠っているんですね」

 

 小林がタブレットを叩きながら眉をひそめる。


「坂本さん、やはりこの地図が示すルートは、この道では到底辿り着けません。夜が明ける前に突破しなければ、酒井の息がかかった地元警察の検問に捕まります」


『案ずるな、奴らはそう簡単には辿り着けん。……それより坂本、わしは腹が減ったぞ』

 

 藤堂が窓の外、開店準備を始めた朝市の明かりを眺めながら言った。

 

 その口調には、不思議と戦を前にした武人のような落ち着きがあった。  

 

 リサが伍長の声に同調したかのように、郊外の川沿いの朝市の駐車場に車を滑り込ませた。


「ここから先は補給もままならないわ。今のうちに何か食べておきましょう。あそこの屋台、美味しそうだわ」


 藤堂は鼻を鳴らした。


『ほほぉ、なかなか気が利く女兵曹よ、ますます気に入ったぞ! 腹が減っては戦ができぬ。さあ、参るぞ!』


「幽霊のくせに腹が減るのかよ……」  


 坂本が呆れたように呟くと、藤堂はムッとして睨みつけた。


『坂本! 貴様はいつも一言多い! 幽霊が腹を減らして何が悪い! わしは「魂」で味わうのだ!』


 藤堂は不機嫌そうに、しかし足取りは軽く、坂本とリサの後を追って車を降りた。



2.ケチャップの絆


 朝市の喧騒の中、リサが注文したのはこの地方の名物料理『ゲーン・パー(森のカレー)』だった。


 ココナッツミルクを使わず、唐辛子とハーブで野生のシカの肉を煮込んだそのスープは、立ち上がる湯気だけで鼻の粘膜を焼くような刺激を放っている。


「うっ……! 何だこの殺人的な辛さは……!」  

 

 坂本が一口食べ、あまりの辛さに悶絶する横で、藤堂伍長もまた、皿を覗き込んだまま石のように固まっていた。


『……坂本。この赤や緑の実(プリック)は、本当に兵器ではないのか? 毒ガス攻撃を受けている気分だぞ』


「伍長……あんた、さっきまで『魂で味わう』とか言ってたじゃないか」


『……うるさい。山形生まれのわしには、この国の「辛み」は高度すぎて理解できん』


「……小林さん、あなたは平気なのか?」  


 坂本が問いかけると、秋田県警から出向中の小林は、真っ赤な顔をして小刻みに震えながら、白飯を口に詰め込んでいた。


「……いえ。秋田の人間も、辛いものには滅法弱いんです。だから、こっそり卵焼きを頼んじゃいました」


 情けなく顔を背ける藤堂の横で、小林が自分専用に注文した『カイ・ジィアオ(タイ風卵焼き)』((注1)に、テーブルのケチャップをこれでもかとかけ始めた。


 じゅわっという油の音と、ケチャップの甘酸っぱい香りが広がる。


『……坂本。その、小林が食べている赤い泥のようなものは何だ。実に美味そうではないか』


 藤堂が身を乗り出した。


 その時、ケチャップの香りに誘われたのか、あるいは東北人同士の食の執念が共鳴したのだろうか。


 小林の眼に、羨ましそうに眺める藤堂の姿がはっきりと見えた。


「……あ、あの。もしかして、藤堂伍長殿……ですか?」


 小林が手に持っていたスプーンとフォークを止めて震える声で尋ねると、藤堂が目を見開いた。


『貴様、わしが見えるのか……!?』


「はい、なんとなくぼんやりと……。伍長殿も、ケチャップ……お好きなんですか?」


『……ケチャップなどという洒落たものは、わしの頃には洋食屋にしか無かった。だが、その卵の焼き加減といい、その赤いソースの照りといい……。小林と言ったな、貴様、なかなかの目利きだ』


 「伍長殿、これ、最高に美味いです。東北の人間にとって、この甘みは救いですから……どうぞ。匂いだけでも……。あぁ、それといつも坂本がお世話になっております!」


 小林が皿を押し出すと、藤堂は満足げに頷きクンクンと鼻を鳴らした。


『うむ、上等だ! 小林、貴様のその「粘り腰」な食いっぷり、気に入ったぞ。……坂本、見ておれ。公安の貴様より、この秋田の男の方が、よほど軍人としての素質があるわ!』


「……はいはい。ケチャップ一つで部隊の結束が固まったなら、安いもんだよ」


 激辛カレーに涙する坂本を余所に、藤堂と小林の間に、ケチャップの赤色よりも濃い「東北人の絆」が芽生えていた。


 リサは呆れたように溜息をついた。


「あぁ、これで小林さんまでも“藤堂伍長”さんが見えるようになっちゃったわけね……」


 このひとときの平穏が、これから向かう「地獄の切り通し(ヘルファイア・パス)」の厳酷さを、かえって際立たせていた。



3.工兵伍長の逆襲


 四輪駆動車が再び深い山岳地帯へと走り出して数分。  


 バックミラーを注視していたリサが、鋭い声を上げた。


「おかしいわ……。市街地で撒いたはずなのに、あの大型SUV、ずっと後ろに張り付いている」


 後方数百メートル――ヘッドライトの光を消し、月明かりだけを頼りに執拗に追随してくる影がある。

 

 タイ人マフィア「クロコダイル(チャラケー)」の車列だ。


「クロコダイル……カンチャナブリからミャンマー国境にかけての密輸ルートを牛耳る武闘派組織ね。酒井は、地元の警察さえ手を出せない連中の『資金力』と『重武装』を、金塊という餌で買い叩いて手駒にしたんだわ」


 リサが忌々(いまいま)しそうに吐き捨てる。


「坂本さん、車内に何か付けられていない? 磁石式のGPSとか、発信機の類よ!」


 坂本と小林が必死にシートの下やダッシュボードを探るが、それらしいものは見当たらない。


 その時、坂本の目が、後部座席でうずくまる山岸の手元に止まった。

 

 彼は、手垢のついた小さな熊の縫いぐるみをお守りのように握りしめていた。


「山岸さん、それ……どこで手に入れた?」


「え? これ……これですか? パタヤを出る時、マイが『愛の証に』って、僕の鞄に付けてくれたんです……」


 坂本はひったくるようにそれを取り上げると、ナイフで腹を裂いた。


 綿の中から最新型の超小型GPS装置が転げ落ちた。


「愛の証どころか、追跡タグだ。山岸さん、あんたはあの子にしてみれば、タグを打たれた家畜と同じだったんだよ!」


「嘘だ……マイが、そんな……っ!」


 絶望する山岸を嘲笑うかのように、背後のSUVから銃弾が放たれた。

 

 ガガガッ!  後部ウィンドウを貫通し、激しい体当たりが車を揺らす。


 ガラスを貫通した銃弾が、坂本のすぐ耳元をかすめた。


『坂本! この馬鹿者に説教してる暇はないぞ! 敵が左右から回り込んでくる。包囲される前に突き抜けるのだ!』


 藤堂伍長の声が、坂本の脳内に響いた。

 

 坂本は、窓から山岸の熊の縫いぐるを投げ捨てて叫んだ。


「リサ、左の獣道へ突っ込め! 十秒後に道が分岐する。そこを右だ! ぬかるみの下に古い鉄道の路盤が残っている。あそこなら加速できる!」


「坂本さん、どうしてそんなことがわかるの!?」


「俺じゃない! 伍長がそう言ってるんだ、信じろ!」


 四輪駆動車はアスファルトを離れ、深いシダの茂るぬかるみへとダイブした。


 八十年前に戦勝国によって鉄路を剥ぎ取られ、密林に埋もれていた土色の廃道を矢のように加速した。


 藤堂伍長がフロントガラス越しに指を差す。


『わしら工兵が、命を削って石を砕き、枕木を並べた道だ。たとえ草木に覆われようとも、わしには今も鮮明な鉄路が見える。……もう一度この目で確かめてやらねば死んでも死にきれん!』


 深い霧が立ち込めるカンチャナブリの密林。


 背後からは、マフィアのSUVが猛烈な勢いで迫っていた。


 銃声が密林の静寂を切り裂き、リサが操る車のボディに火花を散らす。


『坂本、リサのハンドルに手を添えろ。わしの感覚を流し込むぞ!』


 藤堂の声と共に、坂本の視界が青白く発光し、暗闇に沈んでいた密林の中に、かつての鉄路が浮かび上がる。


「リサ、そのまま直進だ! 茂みの奥に、当時の給水塔の土台がある。その脇をすり抜けろ!」


「そんな、ただの藪よ!? 激突するわ!」


「信じろと言っただろ! 行けッ!」


 リサが覚悟を決めてアクセルを踏み込む。


車は激しく枝を跳ね除け、闇の中へと突っ込んだ。


 直後、ガツンという衝撃と共に、タイヤが確かな硬い地表を捉えた。


『……ふん、追っ手の若造どもめ。坂本、左だ! 切り通しの出口に土留め壁(どどめへき)がある。そこを揺さぶってやれ』


 坂本は藤堂の意志に導かれ、胸のホルスターから銃を取り出した。


「あそこの岩壁の継ぎ目だ!」


 窓から身を乗り出し狙いを定め放った銃弾が、藤堂が指し示した「壁の急所」を射抜いた。


 八十年の風化に耐えていた土留め壁が、轟音を立てて崩落した。


 ズ、ズザザザザッ!!


 大量の土砂と岩石がマフィアの先頭車両を飲み込み、急ブレーキをかけた後続車が次々と衝突していく。


 土煙の向こう側、坂本はミラー越しに、満足げに腕を組む藤堂伍長の姿を見た。


『……工兵を敵に回して、我が皇道を通れると思うなよ』



4.同志の誓い


 ようやく追撃を振り切り、密林の奥で一息ついた車内で坂本が口を開いた。


「……そういえば、伍長。お互い、きちんと名乗っていなかったな…」


 坂本は少し照れたように、居住まいを正した。


「俺は坂本啓介。警視庁公安部、外事第一課だ。普段はスパイを追っている。……この事件で、まさか八十年前の日本兵の幽霊に助けられるとは予想外だったよ」


 藤堂一馬は眉を上げ、ふっと口角を上げた。


『公安か……。わしの時代なら憲兵(けんぺい)といったところか。……よかろう、わしも改めて名乗らせてもらおう』


 藤堂は軍帽に手をかけ、直立不動の姿勢をとった。


『わしは大日本帝国陸軍、南方軍交通部、野戦鉄道隊所属。工兵伍長、藤堂一馬だ。……昭和十八年、黄金の道の特務に従事し、わしが築いた鉄路の底に、酒井中尉らの手で封じられた。わしが守りたかったのは金塊ではない。この道を敷くために散っていった、わしの部下たちの名誉だ』


 坂本は、車外を警戒する二人に目をやった。


「彼女はリサ・スリウォン。タイ公安警察の警部補だ。日本語の通訳も兼ねているが、腕っ節は俺より強い。……そして…」


 坂本が小林に視線を向けると、小林はネクタイを締め直し、見えない藤堂へ向かい背筋を伸ばした。


「秋田県警より出向、大使館警備班、小林大吾です。……伍長殿、先ほどは失礼いたしました!」


 小林が深く頭を下げると、藤堂は力強く右手をこめかみへ掲げた。


『秋田の粘り腰、小林大吾。貴様の「東北魂」、しかと見届けた。日本の憲兵、タイの女兵曹…、坂本、わしらはもはや同じ敵を追う混成部隊だ』


 坂本が後部座席の男を指差そうとしたが、藤堂が遮った。


『―そいつはもうよい! 名を聞く価値もないクソったれ野郎だ! わしの部隊には不要である!』  


 山岸は顔を伏せ、藤堂はきりっと前を向いた。


「藤堂一馬伍長。目的地まで、俺たちに協力してくれ」


 坂本が差し出した手は、当然のように伍長の体を通り抜けた。――その直後だった。


 車が悲鳴のような音を立てて突然停止した。


「……嘘でしょ、こんなところで!?」  


 リサが何度もキーを回すが、計器類は狂ったように針を振らせるばかりで、車は二度と息を吹き返さなかった。


『……ここから先は、車では通れん。いや、通してはくれんのだ』


 藤堂が険しい表情で外へ降り立った。


 視線の先には、垂直に切り立った岩壁―


地獄の切り通し(ヘルファイア・パス)”が、黒い口を開けていた。


『坂本、ここからは同志として頼むぞ。ここから先は、欲に目が眩んだ生者よりも恐ろしい「死者たちの領域」だ』


 一行は車を捨て、懐中電灯の光を頼りに、歴史の傷跡が残る岩の裂け目へと足を踏み入れた。


(第六話に続く)


脚注(注1):カイ・ジィアオはタイの卵焼き(タイ語 ไข่เจียว)

卵をナンプラーで味付けし、多めの油でふわっと揚げ焼きにする屋台定番料理。

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