第四話 鉄路の断罪
パタヤの豪邸で山岸が差し出した地図は、日本軍が略奪品を運ぶために築いた「不浄の鉄路」の計画書だった。藤堂伍長は、山岸の祖父がかつての裏切りの傍観者だと喝破し激昂する。マイの追手を伍長の戦術で退けた一行は、八十年の怨念が眠る「死の鉄道」の深淵、カンチャナブリの密林へと、財宝の始発点を目指し車を走らせる。
1.丘の上の豪邸
坂本は沿道のカフェの前でトゥクトゥクを止めさせた。
「マイさん、怖い目に合わせて申し訳ない。ここからは自由です。お気を付けてお帰り下さい」
驚く山岸を余所に、マイは不敵な笑みを浮かべて喧騒の街へと消えていった。
「彼女、泳がせて大丈夫なんですか?」
リサの問いに、坂本はミラー越しに遠ざかる背中を見つめた。
「彼女は直ぐにあの“上客”に情報を売るさ。マイが動けば、姿を消した酒井も利権を奪われまいと必ず姿を現すはずだ」
一行が向かったのは、パタヤの喧騒を眼下に見下ろす、マププラチャン湖の畔。
静謐な森を背負った高級住宅街の一角。
タイ外務省高官のリサの伯父が所有する豪邸。
豪華なシャンデリアの下、山岸は先ほどの銃声の恐怖が抜けないのか、ソファの脇で膝を抱えて震えていた。
「叔父さんは今、日本へ出張中なの…ここだと暫くは安心よ」
リサはそう言って、玄関脇の警報装置を慣れた手つきで確認した。
豪邸の広間には、坂本、リサ、山岸、そして大使館職員の小林の四人が集っていた。
小林がテーブルの上に、山西の部屋から回収したものを並べていく。
札束の詰まったダッフルバッグ、よれたノート、通話記録が残された携帯電話、そして山西の顔写真に巧妙にすり替えられた偽造パスポート…。
リサが、死んだ山西の携帯を手に取り、坂本の前で録音されていた音声を再生した。
「……坂本さん、これを聞いて。マイが呼びかけていたのは『ヤマ《《ギシ》》』じゃない、『ヤマ《《ニシ》》』よ!」
リサが指摘した繊細な音の違いに、坂本は目を見開いた。
「リサ、君の耳は確かだ。我々も気づかなかった。つまり、酒井は最初から山西を『山岸』に仕立て上げ、名前の一文字の違いを利用して、一人の日本人駐在員の失踪、そして変死として、タイ警察に処理させるつもりだったのだろう…」
小林がネクタイを緩めながら切り出した。
「亡くなった山西隆ですが…。酒井の会社の取引先で、駐在歴8年のベテランの物流部長とのことです。本社からの単身赴任で、タイ語は堪能で、港湾手続きや貨物輸送業務が専門です。実は今朝、無断欠勤を不審に思った会社から連絡がありました。それから例のノートの件ですが…」
小林が続けようとした時、リサが手を上げて小林を制した。
「ちょっと待って!この通話記録の音声、雑音がひどいですが……“コンテナ”とか“金は渡さない”とか……それと“黄金の道”という言葉を繰り返していますね」
「黄金の道って……?」
坂本の脳裏に、陽炎の中に消えた藤堂伍長の言葉が蘇った。
“彼が戦時中に敷いたという地図にない「線路」のことか?”
坂本は、山西のノートをめくり直した。
「この地図のどこかに、その“黄金の道”が描かれているということなのか…?」
小林が頷き、地図上の赤い線を指して続けた。
「ここに記されているのは、タイ国鉄の《サタヒープ線》です。バンコクから南東へ延び、終着の軍港までを繋ぐローカル路線です。……ですが、物流のプロである山西が目を付けたのは、この本線ではありません」
小林の声が一段と低くなる。
「山西が狙ったのは、レムチャバン国際港へ繋がるコンテナ貨物専用の支線です。パタヤの手前に、旅客用の路線図には載らない、巨大なコンテナヤードへの引込線。彼はこの入り組んだ『五線譜』のようなレール、つまり、“黄金の道”の先に、何かが眠っていると確信していたのでしょう」
坂本はペン先で机を軽く叩きながら、
「だが、やはり時代が合わない。国際港の完成は1991年……戦後だ」
坂本は呟き、拭い去れない違和感に眉をひそめた。
「小林さん、一つ確認だ。サタヒープの本線自体、開通したのはいつだ?」
「1926年、戦前には既に軍港まで通っていますが……。それが、今回の事件と何か関係でも?」
「……やはりな。だとすれば、これは近年の産物じゃない。戦時中から横たわる、我々の想像を超えるほど古い闇かもしれない……」
2. 山岸の地図
「そんな昔のこと、今さらどうだっていいだろっ!」
坂本の言葉を遮り、ソファで膝を抱えていた山岸が、耐えきれず声を荒らげた。
「その金は、僕が地図を売って受け取るはずだったんだ! 山西がネコババしたせいで……! あの地図さえ売れれば、僕はマイちゃんとモルディブで遊んで暮らせたのに!」
深刻な推理を切り裂くような、浅ましい叫びだった。
小林が氷のような視線を向ける。
「山岸さん、落ち着いてください。その地図には、それほどの価値があるのですか?」
核心を突かれ、山岸は急に口を噤んだ。
視線を泳がせ、クッションを強く抱きしめる。
「……正直に話してください。あなたが持っている地図にこそ、“黄金の道”が記されている。そうですね?」
坂本の拒絶を許さない声に、山岸は喉を鳴らし、ようやく重い口を開いた。
「山西さんが言ったんだ……『酒井社長には内緒で、地図を売ろう。成功すれば一生遊べるぞ』って。だから僕は、まず港の図面だけを渡して、前払いの金を受け取る約束だったんだ」
「……なるほどね」
リサが冷ややかな声を出す。
「山西は最初から酒井を裏切るつもりだった。でも、山岸さんも彼を信用せず、肝心の“黄金の道”の場所は教えなかった。そういうことね」
「そうだよ! なのにあの野郎、全額払う前に酒井に殺されやがって! 僕の取り分はどうなるんだよ!」
身勝手な怒りに震える山岸を、小林が射抜くような視線で見据えた。
「酒井は、山西を拷問して全てを吐かせたはずです。 “黄金の道”の地図をまだあなたが握っているということも。山西をあなたの身代わりとして消した今、彼らは何の憂いもなく、あなたを狙いに来るでしょう」
山岸は、幽霊でも見たかのように青ざめ、力なく縮こまった。
「マイちゃん……信用してたのに。愛してたのに。僕、騙されちゃったのかなぁ……」
そのうわ言のような泣き言に、坂本が最後の一撃を放った。
「山岸さん、さらにマイに唆されてパスポートを売ったんですね?」
山岸は顔を覆い、泣き声で答えた。
「……はい。マイちゃんとずっと一緒にいたかったし、山西からはいつまで経っても金が支払われないし……。あのパスポートを売れば、その金でまだ、彼女と会えると思ったんです……っ!」
リサが冷たく言い放つ。
「馬鹿ね……。マイは酒井と通じていたのよ。最初から、あなたのパスポートが目的だったの!」
「少し甘い顔をすれば、自分だけは特別だと勘違いして、身ぐるみ剥がされるまで金を貢ぎ続ける……。タイの夜に沈む、典型的な『カモ』の日本人と同じだったのよ」
「そんな……。マイちゃんのあのキスも、全部、金のためだったのか……っ!」
顔を覆って泣き崩れる山岸を、坂本が冷徹に一喝した。
「泣き言はそこまでだ、山岸さん。酒井が欲しがっているのは地図だけで、君の生死なんてどうでもいいんだ。生き残りたければ、その地図をこちらに出してください。そうすれば、我々警察もあなたを守ります」
その時だった。
3.血脈の共犯者
豪華なシャンデリアが激しく明滅し、部屋全体に湿った土の匂いと、苦辛い煙草の香りが一気に立ち込めた。
軍靴が床を叩く硬い音が響き、セピア色の霧を切り裂くようにして藤堂伍長が姿を現した。
『……坂本! 貴様の目は節穴かっ! ぬるい推理で悦に浸りおって、呆れて物も言えんわ!』
腰の軍刀に左手をかけ、右手をまっすぐに伸ばして坂本を指差す。
その怒声はロビーの空気を芯から凍らせるが、坂本以外の者には聞こえていない。
藤堂は次に、クッションにしがみつく山岸を指差し、上方へ跳ね上げた。
すると、山岸が必死に抱えていたクッションが、目に見えぬ力で剥ぎ取られ、天井近くまで吹き飛んだ。
「ひっ、……あ、ああ……!」
山岸が超常現象だと悲鳴を上げる。
藤堂の冷徹な眼光に射すくめられ、彼は逃れるように、首に掛けていた色褪せたお守り袋を慌てて外した。
震える指で袋を裂くと、中から飴色に焼けた極薄の和紙――
古びた和紙には、切り立った岩山の洞窟へと消える、真の「黄金の道」が刻まれていた。
「 “黄金の道”……って、結局なんなの?」
リサがバンダナを結び直しながら問いかける。
山岸はうなだれたまま、消え入りそうな声で白状した。
「……戦争に行った僕の祖父が、死ぬ間際まで『金塊の輸送路だ』と信じていた地図なんです。極秘任務で仲間とあの鉄路を敷いた、と。僕はその話をマイに……『いい儲け話がある』と漏らしてしまった。それが、すべての間違いだったんだ……」
「金塊……?」
坂本が、手元の図面と山岸を交互に見た。
「まさか、日本軍が南方各地で略奪し隠したという、都市伝説にもなった金塊のことか。当時、莫大な金塊がビルマから運び出され、一部はタイの密林奥地へも埋蔵されたという……その金塊の埋蔵場所なのか?」
『その通りだ、坂本……』
藤堂と山岸が同時に頷いた。
『わしら大日本帝国陸軍の工兵は、昭和十八年には既にあの場所に埠頭を築いていた。貴様らの言うサタヒープ線の支線――あれはな、日本軍が隠した金塊を隠密に運び出すための積出港にすぎん。地図にも載らぬ不浄の鉄路だ。だが、金塊が眠る場所はそこではない』
「では、金塊が埋蔵されているのは、この地図の……」
『左様、その地図の中だ』
藤堂は遠くを見つめる眼差しで、八十年前の凄惨な記憶を辿った。
『軍規を犯して金塊を運び出そうと企んでいた酒井中尉と山西曹長……わしはそれを師団長へ告発しようとした。そしてあの晩、奴ら卑劣漢どもは躊躇いもなくわしの背中を撃ち抜きやがった』
藤堂は悔しさのあまり、軍靴で床を踏み揺らした。
『わしが血を流して倒れるのを、陰に隠れて見ていた下っ端がいた。酒井に媚び、山西に脅され、ただ自分の命だけが惜しくて真実を闇に葬った腰抜けがな。それがこの小心者が山岸の祖父というわけか。八十年経っても臆病者の血は争えんものよ』
藤堂は腕を組み、泥の中を這いつくばる虫を見るかのような眼差しで、山岸を凝視した。
坂本が息を殺して図面を広げると、小林が手元をライトで照らす。
そこには、細い筆と墨で引かれた精緻な線が走っていた。
等高線は等間隔に刻まれ、密林の沢や岩場が「工兵の眼」で克明に捉えられている。
何より目を引くのは、中央をのたうつ黒い一筋の線――「鉄路」だ。
「死の鉄道」の異名を持つ泰緬鉄道の本線から不自然に分岐したその蛇のような軌道は、密林の果ての断崖で行き止まり、赤い顔料で歪な円が描かれている。
傍らには、掠れた文字でこう記されていた。
――『昭和十七年十月 極秘路 設営着手』
小林が息を呑む。
「橋の耐荷重、トンネルの深度……すべてが、重量物を運び出すために計算された“簒奪”の計画図じゃないですか!?」
『そうだ。それがわしら工兵を殺してまで、酒井や山西らの悪党どもが築き上げた背徳の証だ』
藤堂の透ける指が、地図上の赤い円をなぞる。
『山西が掴んでいた埠頭の地図は、あくまで金塊の運び出しの「終着点」に過ぎん。……だが、こやつの地図の赤印こそが、密林の奥底に埋めた「始発点」なのだ』
藤堂の声と共に、和紙に吸い込まれていた八十年前の熱気と硝煙の匂いが、現世のロビーに微かに溢れ出した。
その時だ。
ビーッ、ビーッ、ビーッ! 甲高いアラームの音が広間に響き渡った。
4. 怨念の始発点へ
静まり返った丘の上の豪邸に、不快なスキール音を立てて数台の黒いベンツが停まった。
「……マイの『上客』さん達が来たようね」
黒尽くめの男たちが小銃を構え、垣根を越えて庭に侵入してくる。
リサが腰の銃を引き抜き、鋭い視線で窓の外を睨んだ。
「坂本さん、小林さん、伏せて! 襲撃よ!」
闇を切り裂いて、正面玄関に数発の銃弾が撃ち込まれた。
突如、リビングの巨大な強化ガラスが粉々に砕け散る。
「ヒッ、嫌だぁ! 死にたくないぃ!」
山岸は文字通り床を這いずり回り、柱の陰に亀のように縮こまった。
小林は必死にテーブルの下へ潜り込み、坂本も不格好に頭を抱えて這いつくばった。
『坂本ッ! 何だその無様な格好は! 貴様、それでも日本男児か! 七生報国の志はどうした!』
弾丸が飛び交う中、藤堂伍長は直立不動のまま、坂本の背中を軍靴で蹴り飛ばそうとするが、その足先は虚空を泳ぐ。
『大和魂だ! 敵の弾丸など恐れるに足らず! 尻を突き出して震えるとは、皇軍の面汚しも甚だしいぞ!』
「う、うるさい! そもそも今は令和の時代なんだ、てか皇軍ってなんだよ!」
坂本が床に頬を押し付けながら虚空に言い返すと、リサが怪訝な顔で振り返った。
「坂本さん、今はそれどころじゃないでしょ!」
「……伍長が横でうるさいんだ!」
「知らないわよ! どうでもいいから応戦して!」
『坂本! あの女兵に伝えろ! 敵は庭の中央にある噴水の影を遮蔽物にしている。あそこの彫像の台座を狙って粉砕せよ! 水を噴き出させれば、水煙が即席の煙幕となる。一気に敵中突破だ!』
「リサ、庭の噴水の台座だ! あそこを撃てば水煙がカーテンになる!」
「噴水!? 壊しちゃっていいのね! 伯父さんごめん!」
リサの放った正確な数発が彫像を粉砕した。
制御を失った水が、ライトを反射させながら巨大な水の壁となって噴き上がり、男たちの怒号が上がる。
「やったわ、完璧なカーテンよ! 坂本さん、たまには役に立つのね!」
「……俺じゃなくて、伍長の戦術だ」
『ふん、教えてやったのはわしだ。礼の一つも言えんのか、この女兵曹は!』
一行は混乱に乗じて地下ガレージへ滑り込み、リサが四輪駆動車のエンジンを轟かせた。
門扉を強引に突き破って車が飛び出す。
バックミラーの中、噴水の水煙から這い出してくるギャングたちが、点となって消えていく。
パタヤの喧騒を離れた車は、街灯ひとつない暗い一本道を北西へひた走った。
後部座席では、限界を迎えた山岸が泥のように眠り込んでいる。
車内に響くのはエンジンの唸りと、切り裂くような風の音だけだ。
その時、不意に野太く、朗々とした歌声が響き渡った。
「……伍長だ」
眠る山岸の隣に端座した藤堂が、闇に溶ける車窓を見つめ、陸軍工兵歌を口ずさんでいた。
道なき方に道をつけ 敵の鐵道うち毀し
雨と散り來る彈丸を 身に浴びながら橋かけて
我が軍渡す工兵の 功勞何にか譬うべき
『いい歌だろう、坂本。……だが、あの鉄路が人間の欲に塗れ、不浄に染まったあの日、わしの誇りもまた、あの泥濘の底へと沈んだのだ』
フロントガラスを叩く夜霧が急激に冷たさを増す。
タイヤが刻む走行音だけが、深夜のハイウェイに虚しく響く。
八十年前の怨念を飲み込んだ、カンチャナブリの密林に眠る泰緬鉄道の軌跡が、静かに坂本たちを引き寄せ始めていた。
(第五話に続く)
「泰緬鉄道」とは、第二次世界大戦中に日本陸軍がタイ(泰)とビルマ(緬)を結ぶために建設した軍用鉄道です。海上輸送路を避けて物資を運搬する目的で1942年に着工。密林や断崖といった難所をわずか1年余りで開通させましたが、過酷な労働環境と病気により、多くの連合軍捕虜やアジア人労働者が犠牲となりました。その凄惨さから「死の鉄道(Death Railway)」の異名で知られています。




