序章 魔術師と魔王
――それはまるで、蝶の羽ばたきのようにかすかな気配だった。
遠くで灯った星明かりに、胸のざわめきは確信へと変わる。
そっと、返しかけていた踵を元に戻した。
そして彼方の光を見渡す。
扉は開かれ、道を阻む兵士の群れが割れていく。その人を中心に。
それはここにたどり着くはずもない、道端の石くずのような姿の旅人だった。
そしてその姿に、人々は驚嘆に目を開く。
でもこの心には最早、凪いだ水面のようにさざ波一つ立たなかった。
……その人だと知っていた。
獅子でも龍でもないその姿を、待っていた。ずっと待っていたから。
魔術師は困難を越え、ついにたどり着いた。
片手に明るい色の杖を携え、振り向きもせずひたむきにこちらへ歩を進めるその姿。
道は一つと知っているように、煤けた顔に輝くまっすぐなその瞳。
ああ。どうして。
知っていた。
納得しているはずだった。
誰よりその境遇に共感し、祝えるはずの姿だった。
なのにどうして。
睨んでいるだろう。この目は。
憎しみに満ちた光が、宿っているだろう。
波間に揺らぐ不確かな未来と、地深く刺さって燃え上がる過去を結ぶ、その瞳を射貫きたい。
不安を運ぶ朝も、終わりを刻みつける夜も、どんな恐怖にも刈り取れない、その勇気を砕きたい。
考えもしなかった。
その歩みを阻むのがこの手なんて。
一千年に一人の希望の光を、遮るのがこの手だなんて。
割れた兵士の群れの果て。
その最後に待つ獄炎の魔王。銀河の光が貫くべき、醜悪なこの姿。
その目にも映っているだろうか。
理性を超えてせり上がる、止めどない憎悪の波。
それに乗って繰り返される歴史の愚を、この身は体現していく。
そうと知っているのに。まるで悪魔のように。
……考えもしなかった。
兵士を越えてきた魔術師は、魔王の眼前で足を止める。
そして互いに瞳を見交わしたとき――。
さあ、ゆっくりと杖を掲げて。ここで相克を終わらせよう。
『そうである者』と『ない者』の、果てない運命の交錯。いつまでもひたっていたいとさえ思った、善き魔術師との邂逅。
でもこの一戦で決めよう。最早二人に、戻る道なんてないから。
ああ。どうして。
君が現れたあの日、ひび割れたものが修復できない。色が記憶に染み付いて、決して抜けることがない。
虚しい心に落ちた、小さな石がなくならないんだ。
互いの手にした杖の先に光が灯る。
魔術師に望みを託す者達が、固唾を飲んで勝負の行方を見守る。
君なら。君ならこの窮地を救うと、半々の希望に震えながら懸けている。
眩しくて……眩しくてまた狂う。
ここで倒れてはいけないと、君は切に願われているのに。
伸ばすこの手は、その命を散らそうとまた炎を放つ。
ああ。間違ってるって言ってくれ。
それはまるで、蝶の羽ばたきのようにかすかな気配だった。俺のすべてが崩れ去る、引き金の萌芽だった。
この世界に君がいる。それだけのことが、俺を変えてしまった。
それだけのことが、今はどうしても許せなくて。
善き魔術師と魔王の戦いは、『普通』ならどちらの勝利で終わるだろうか。
君を待ってた。ずっと待ってた。
この瞳が見てきた君は、きっとどんな憎しみにも囚われることはない。
運命が選んだ、銀河の魔術師。
永遠に輝く、人々の希望の光よ。
君の手で終わるなら。
この魔王の物語が終わるなら。
……互いの放つ光が、互いの真ん中で爆発する。すべてを無に帰すような、熱と風の乱舞。
その中に二人の姿は白く飲み込まれ、そして――。
お読みいただきありがとうございます。
まだ最序盤ですが、魔女と呼ばれる浮浪の魔術師が、不思議な女の子に助けられながら、ライバルとなる宮廷筆頭魔術師と仲良くなったり戦ったりするお話にしていきたいと思っています。
遅筆ですが、よろしければお付き合いのほどよろしくお願いいたします。




