エリザ、中央教会に行く
エリザは今、中央教会の礼拝堂にいた。
目の前には大司教がいる。
「聖カオルコ修道院のシスター・エリザを伝道師に任命する」
ひざまずいたエリザの首に大司教がメダルをかけてくれた。
これが伝道師の証になる。普段は身につけなくてもいいが、式典などでは必須らしい。
(これからも式典に出ることがあるのかしら?)
エリザは少し不安になりながら、大司教に「女神に誓いを」と促されて、女神像の前に移動した。
中央教会の女神像はさすがに大きい。
愛の女神は美しさの象徴でもあった。
微笑みを湛えて、エリザを見下ろしている。
「女神ディーテの教えに従い、愛を知り、愛を伝え、愛し愛される毎日を送ることを誓います」
居並ぶ聖職者たちから拍手が起こった。
エリザと付き添いのシスター・サマンサは、中央教会併設の女子修道院に二泊する予定だった。
聖カオルコ修道院の修道女から本場のラディーオ体操を習いたい、と要請があったからだ。
「聖カオルコ修道院は外と交流しませんでしょう? この貴重な機会を逃すべきじゃないと皆で意見が一致したのです」
中央女子修道院のまとめ役だという中年の修道女、シスター・ジャクリーンが微笑んだ。
中央教会には貴族出身者が多く、ジャクリーンも元侯爵令嬢だそうだ。
もしかして、エリザを知っている者がいるかもしれないと心配したけれど、エリザの見た目が変わっているのとありふれた名前のせいで気づかれていないようだった。
中央女子修道院の日課は、起床したら礼拝、そのあとは教会の前庭や礼拝堂など一般信者も訪れる場所の清掃。そして朝食となる。修道院の敷地外での活動は男子修道院の修道士と合同で、エリザはやたらに話しかけられて戸惑った。
修道女になって長いシスター・サマンサは、「こんなにたくさんの男性を見たのは二十年ぶりくらいだわ」と驚いたような呆れたような声を上げていた。
ラディーオ体操は午前の時間に女子修道院のホールで行われた。中央教会の修道院ではダンスを習う時間があり、そのためのホールらしい。
「女神ディーテの愛を知るためには、ダンスも必要ですから」
シスター・ジャクリーンは「わかるでしょう?」という様子でウィンクしたけれど、エリザにはよくわからなかった。うなずいていたサマンサも、あとで聞いたらよくわからなかったらしい。
「戒律は修道院ごと違いますから、こちらにはこちらの戒律があるのでしょう」
「そうですね」
ラディーオ体操の音楽は聖カオルコ修道院に楽譜があったので、『聖女カオルコの教え』の経典に体操のポーズ集とともに収録されている。今日はピアノの得意な修道女が伴奏してくれるそうだ。――普段のダンスレッスンも生演奏なのだとしたら、淑女教育と変わらない。
ホールに集まった修道女たちの前にサマンサが立ち、エリザも手本として彼女の横に立った。
「まずは通してやってみましょう。シスター・エリザを見ながらわかる範囲で動いてみてください。そのあとで一つ一つの動作を解説、指導し、最後にもう一度通します。覚えやすい動作ばかりですので、皆様も美と健康を目指してがんばりましょう」
普段から人前に立ち慣れているサマンサは、人数が増えてもさすがだ。
ピアノの伴奏が始まって腕を動かすと、エリザの緊張もほぐれてきた。
(今朝は体操しなかったから、なんとなくすっきりしなかったのよね。やっぱり毎日の日課って大切だわ)
昼食のあと、エリザはハリー司祭に呼び出された。サマンサはジャクリーンにマッサージの指導をするそうで、エリザは一人で面会室に行く。
「呼び出してすみません」
「いいえ、今日の私はシスター・サマンサの補佐みたいなものですから」
中央女子修道院の面会室は、聖カオルコ修道院のそれよりも豪華だった。
ふかふかのソファに座るとメイドが紅茶を出してくれる。――使用人がいることにも驚いた。
メイドが去って、部屋にハリーとジョージだけになると、エリザは、
「こちらは貴族向けなのですか。いろいろと驚くことばかりです」
「貴族女性が修道女になろうと思った場合はたいていこちらの修道院を選ぶので、自然と集まってしまうのです」
ハリーは意味ありげに笑うと、
「シスター・エリザのご存じの貴族女性がいましたか?」
「え?」
エリザは驚いて顔を上げる。
「ハリー司祭様は私の出自を知ってらしたんですか?」
「ええ。そうですね」
「もしかして、皆さん知っているのですか?」
「大司教様など老年の方々は気づいていらっしゃるかもしれませんが、近年のエレベルスト公爵令嬢しか知らない者は気づいていませんよ。中央教会に礼拝に来ていたエレベルスト公爵令嬢とシスター・エリザは見た目が全然違いますから」
「そうですよね。よかったです」
エリザはほっと息を吐いた。
ハリーは真顔になると、
「以前の知り合いには会いたくないですか?」
「確かに、会いたい人はいませんね。……私、家に帰りたくないから修道院に駆け込んだのです」
「そうでしたか……」
考え込むハリーに、エリザは「何か問題でも?」と尋ねる。
「いえ、今日これから中央教会の談話室で『経典読者の集い』があるのですよ。あなたが翻訳した経典の愛読者のご令嬢たちが集まります。良ければ参加しませんか、と誘いにきたのですが……」
「どなたがいらっしゃるのですか?」
「主催はミニッツ伯爵令嬢とヨッシュ伯爵令嬢です。あとは彼女と親しいご令嬢が何人か、毎回メンバーは少し違いますので、私もこれ以上はわかりません」
「ミニッツ伯爵令嬢とヨッシュ伯爵令嬢……」
ミニッツ伯爵家に令嬢は一人だけで、その人はエリザと学園で同級生だった。ヨッシュ伯爵家の令嬢は三人いるが、次女が同級生にいたからきっと彼女だろう。
学園に通っていたとき、休み時間は予習復習、放課後はすぐに王宮へ、という毎日だったエリザは、同級生たちと親しく話したことがない。
「シスター・エリザに手紙をくださった方々ですよ」
「まあ!」
正式にパトロンとなるなら別だけれど、俳優や歌手にファンレターを送るときは、令嬢のたしなみとして名乗らない場合が多い。エリザが読者からもらった手紙はイニシャルだけで名前が書かれていなかったから、元同級生とわからなかったのだ。
あの手紙の内容を思えば、直接会ってお礼を言いたいし、経典について語り合いたい。
(オルガやマギーと話すのと同じように話せるはず)
そう考えるとエリザは俄然、乗り気になってきた。
「皆さんがエレベルスト公爵家のエリザだと気づかなそうなら、参加したいです」
そして、ふと気になった。
「あの、今さらなのですが、エレベルスト公爵家のエリザはどういう扱いになっているのでしょうか? 私が修道院に入ったことは皆様ご存じなのですか?」
「いいえ。体調不良で領地で静養していることになっています」
「まあ!」
驚くエリザにハリーは「あなたが知りたいなら」と教えてくれた。
エリザ・エレベルストが体調不良で領地に下がったため、エリザと王太子パトリックの婚約を解消。代わりに妹のローズと婚約しなおす、と王家は発表したそうだ。
「それなら、私の素性はわからないかしら?」
「経典愛読者の方々ですから、シスター・エリザの素性に気づいても知らないふりをしてくださいますよ」
誓願前に交流があったとしても過去はなかったものとする、というマナーがあるため、きちんと淑女教育を受けた令嬢ならなおさら気を使ってくれるはず。
ハリーに後押しされて、エリザは読者の集いに参加することにした。
「そういえば、司祭様はどうして私の素性をご存じなのですか。院長様からお聞きしたのですか?」
「いいえ。会話から貴族だとわかりますし、髪の色が黒だと話題にしたこともありますよね。もしかしてと思ったので、エレベルスト公爵にカマをかけてみたのです」
「ええっ!」
エリザは誓願のあと書類に署名した。その控えと手紙を修道院から父に送ってもらっている。
「教会の人間なので私も知っていると公爵は思ったんでしょうね。簡単にひっかかってくださいました」
そこで、ハリーは目を細める。
「私は、シスター・エリザが顔を隠すようになる前にお会いしたことがあるのですよ」
「まあ、本当ですか? 申し訳ございません、私、記憶になくて……」
「いいえ。覚えていなくても仕方がないと思います」
ハリーはゆるゆると首を振ると、
「私は中央教会併設の養護施設で育ちました。シスター・エリザは……あのころ六歳くらいでしょうか。公爵夫人に連れられて慰問にいらっしゃった。王太子殿下の婚約者だというのに、子どもたち全員に手ずからお菓子を配って、一言二言お話してくれました。私には、黒髪が同じだとおっしゃいましたね」
「ええと、慰問は覚えているのですが、一人一人の方まではちょっと……」
「ええ。昔のことですから」
ハリーはもう一度首を振って微笑む。
「私は施設からそのまま教会に入りました。しばらく経って礼拝にいらっしゃった令嬢を遠目に拝見して、驚いたのです」
「ふふ、そうですね。驚かれるのも無理はないと思います」
エリザは笑う。
そこでハリーは真顔になり、
「殿下との婚約を解消したくて、わざとあのような格好をされていたのですか?」
「いいえ! まさか! あれは義母が、似合う、かわいい、と勧めてくれた格好なのですよ」
「義母? 現公爵夫人ですよね? 虐げられていたのですか?」
ハリーは気色ばむ。初対面のときオルガにも同じような心配をされた、とエリザは懐かしくなった。
オルガにしたのと同じように説明する。
「義母は夜食も用意してくれたり、私のためにいろいろしてくれたのです。今、思えば、聖女カオルコの教えとは真逆なのですが……。義母は知らなかったのでしょうね」
「そうでしたか……」
ハリーは考えるように言葉を切ったあと、にっこりと笑った。
「良いお母様だったのですね」
「ええ」
なんとなく含みがありそうな声音だったけれど、同意されることが珍しかったのでエリザは笑顔でうなずいたのだ。
そして、エリザはハリーに連れられて、経典読者の集いにやって来た。
中央教会の談話室も貴族仕様で、王宮のサロンと比べたら落ちるが、十分に豪華な部屋だ。
その部屋に、五人の令嬢がいた。
ミニッツ伯爵令嬢とヨッシュ伯爵令嬢は、確かにエリザの元同級生だった。他の三人も子爵家や男爵家の令嬢で、やはり元同級生だ。
令嬢たちからきらきらした目を向けられたエリザは、カーテシーではなく、胸に手をあて軽く頭を下げる礼をした。
「聖カオルコ修道院のエリザと申します」
元同級生たちはエリザの素性に気づいたのかどうかわからないが、それぞれ自己紹介してくれた。
(気づいていない可能性のほうが高そうね)
エリザはほっとしながら席につく。
「私のつたない翻訳を楽しんでくださって、感謝申し上げます」
「つたないなんて! とても素晴らしい恋愛小説ばかりですわ!」
「ええ、本当に。私は『あなたに捧げる偽りの庭園』のアラン様がとても好きなのです」
「シュゼット様、いきなりアラン様の話をされたらシスター・エリザ様も驚いてしまいますわよ」
「そうですわ」
「皆、好きな小説を語りだすと止まらなくなってしまいますのよ」
「まあ! うれしいです! 女神ディーテの教えが広まっているのを目にすると、私も報われる思いです」
それからは、修道院で仲間たちと話すように盛り上がった。
途中、一人の令嬢が、少し離れたところに座ったハリーと彼の後ろに立つジョージにちらちらと目を向けるのにエリザは気づいた。
「ハリー司祭様がどうかされましたか?」
「えっ!」
びくっと肩を震わせた令嬢は、それからおそるおそる、
「あの、失礼ですが、あちらの司祭様はもしかして『黒百合司祭シリーズ』のモデルの方でしょうか」
令嬢は初参加で、ハリーとも初対面だと言う。
主人公になりたい派の修道女たちが書いた「司教様と私」の経典は、数編を一冊にまとめて出版した。今は二巻まで出ており『黒百合司祭シリーズ』として人気だそうだ。
名前を伏せたものの、やはり本人を見ればモデルだとわかってしまうらしい。
(黒髪の司祭様が中央教会には他にいらっしゃらないみたいなのよね……。百年前の時代設定にしたから別人だと言い張ればなんとか、という感じかしら)
ちなみに当のハリーからは、「売り上げが上々なので、騒がれるのは構いませんよ」と言われているので、三巻の執筆も進行中だ。
エリザが返答する前に、ミニッツ伯爵令嬢が「そうなのですよ! すぐにわかりますわよね!」と前のめりになった。
「やっぱり! それでは、後ろの騎士様がもしかして黒百合司祭様の護衛の白騎士様のモデルの方ですか?!」
二巻に司祭と騎士の二人から愛を告げられる話があったのだ。もちろん白騎士のモデルはジョージだ。
今度もエリザが返答する前に、ミニッツ伯爵令嬢が「もちろんですわ!」と声を上げる。
「ああ! 本当ですの? まさか白騎士様にお会いできるなんて思いもよりませんでした! 私、今日、集いに参加できて本当に幸せですわ!」
「レティーシャ様は白騎士様のファンなんですの?」
「私は、黒百合司祭様と白騎士様のファンなのです!」
「あら、レティーシャ様はそちらですのね。ヒロインのバニラは不要だとする一派……」
「いいえ、不要とまでは言いませんわ。お話のスパイス程度には必要でしてよ?」
「まあ、私たち、一度突き詰めて語り合う必要がありそうですわ」
レティーシャと呼ばれた子爵令嬢とミニッツ伯爵令嬢が目配せしあう。
恋愛は見て楽しむ派にもいろいろいるようだった。
男爵令嬢のシュゼットもハリーと初対面だそうで、目を輝かせた。
「黒百合司祭様は作中では敵国からの刺客だったり亡国の王子だったりしますけれど、実際のお姿は?」
「中央教会の司祭、ハリーと申します。シスター・エリザとはパートナーのようなものですね」
「パートナー?」
令嬢たちがそろってエリザを見る。
(私が翻訳家なら、司祭様は編集者だもの)
エリザはうなずいた。
「私とシスター・エリザは修道院で出会いました。シスター・エリザが愛を知ったのも修道院です。そして今、私たちは愛を伝えることに全力を傾けているのです。『愛し愛される毎日』を目指して、努力しています」
ハリーは滔々と語った。彼が誓願の言葉を踏まえて話しているのが、エリザにはわかる。
そして、頬を染めてエリザとハリーを見比べる令嬢たち。
(女神ディーテの教えは着実に広まっているのね!)
エリザはその通りというように、令嬢たちにうなずいてみせた。
「修道院に入って、私にもやっと愛の素晴らしさがわかってきました。それでもまだ、愛について知らないことが多いのですが」
「シスター・エリザ、心配いりませんよ。私が知っていることなら、何でもあなたに教えてあげますから」
「まあ! 司祭様、ありがとうございます!」
エリザは両手を組んでハリーを見つめる。ハリーは笑顔を返してくれた。
令嬢たちは「きゃあ!」「素敵ですわ!」「今、目の前で『黒百合司祭シリーズ』が!」とそれぞれ盛り上がる。
経典読者の集いは終了時間がくるのが名残惜しいくらい、楽しかった。
読者の令嬢たちを見送って、エリザはハリーに女子修道院まで送ってもらっていた。
一般信者も入れる中央教会の前庭では、連れだって歩いている修道女と修道士が何組かいる。
「こちらでは、修道女と修道士が自由に交流できるのですか?」
エリザがハリーに尋ねると、
「女神ディーテは愛の女神ですからね」
ハリーの返答がよくわからず、エリザは首をかしげる。
「ほとんどの修道院は男子修道院と女子修道院が併設されていて、積極的に交流しています。教会に併設された修道院でしたら、一般信者との交流も推奨されているのですよ。どういうことかわかりますか?」
ハリーはからかうように笑う。エリザは首を振った。
「いいえ、わかりません」
「聖カオルコ修道院で『愛を知る』のは経典を読んで学ぶことですが、他の修道院では他者と出会って『愛を知る』のです」
「それは、恋に落ちる、とかそういう?」
「はい。『愛を伝える』相手はいとしい人ですね」
「まあ!」
エリザは目を瞬かせる。
(それは私には不向きだわ。駆け込んだのが聖カオルコ修道院で本当に良かった……)
「もちろん、交流したくない人はしない選択肢もありますよ。経典から愛を知ることもできます」
「それなら良かったです」
そこでエリザは「あ!」と思い出す。
「もしかして、こちらの修道院でダンスのレッスンがあるのは、修道士と修道女でダンスパーティーがあるということですか?」
「その通りです。貴族出身者が多いので、いつのまにか交流会が舞踏会になったようです」
ハリーは急に真剣な顔をする。
「シスター・エリザは『愛し愛される毎日』についてどう考えていますか?」
「誓願の言葉ですね? ええと、私は経典を愛しているので、経典から愛されるにはどうしたらいいか考える毎日です」
「経典ですか……。今のところ、シスター・エリザは経典に愛されているように思いますが」
「本当ですか? 本当ならうれしいです」
エリザは満面の笑みを見せたけれど、ハリーは呆れたような苦笑を返したのだった。