エリザ、経典の翻訳を始める
今日は経典庫の虫干しの日だ。
朝食のあとから皆で行う大仕事だった。
日課と違う作業をするのが初めてのエリザは、朝から楽しみだった。しかも、憧れの経典庫。
エリザは王太子妃教育で鍛えた集中力を活かして、講堂の経典を読みあさっていた。オルガのイチオシ経典『茜空に舞う蜻蛉のように』全二十巻もとっくに読み終えていた。
経典庫は修道院が開かれた当初からの貴重な資料が収蔵されているらしい。虫干し中に読むことはできないが、タイトルを見るだけでも楽しめると思う。
講堂に修道女全員が集合する。
院長が奥にある重厚な扉を開けると、その先が経典庫だった。
年かさの修道女を班長に、五人ずつで班分けして担当の棚の本を講堂に運び出す。布を敷いた講堂の机に経典を並べていく。ページを繰って中を確認するのは院長など役職付きの修道女の仕事だ。
広い講堂でも全ての経典を並べることはできないため、虫干しは三日かけて行う。
講堂の書棚に並ぶのは近年印刷された軽い本だが、経典庫に収められているのは革表紙の大きな本が多い。外国語の平綴じの冊子や巻物もあった。手書きのものがほとんどだと言う。
「まあ、『サライズ・オータム伝』? これってもしかして隣国のオータム王国の第五代国王のお話かしら? 王妃を十人娶った有名な王よね?」
机に並べた本のタイトルをエリザが読み上げると、近くにいた中年の修道女が驚いた顔でエリザを振り返った。
「シスター・エリザ! これが読めるのですか?」
「え? はい。読めます。大陸古語ラザニアーズ語ですよね」
「大陸古語……? では、これは?」
「これは、古語でももう少し下った時代のアンシェルジェンダ語ですね。『あなたに捧げる偽の原っぱ』? 『偽りの庭園』のほうがそれらしいかしら? どういうお話でしょうね」
「シスター・エリザ。こちらは?」
別の修道女が本を差し出す。
「これは、トータン帝国の言葉ですよ。縦書きなのです。このタイトルは『青いドレスの女の幽霊』ですね。まさか幽霊と恋愛するのかしら?」
「それでは、こちらもトータン帝国ですか?」
「ああ、いいえ。これはおそらくトータン帝国のさらに東にあるヤマタ王国の言葉です。似ている文字が違う意味だったりするので少しややこしいんですが……。これは『春に出会った女の話』です」
エリザが次々読み上げると、周りにいた修道女はふるふると震えた。
「院長様! 大変です!」
「シスター・エリザが、こちらの経典を読めるそうです!」
彼女たちが大きな声で院長を呼ぶと、他の修道女も「ええっ!」「まさか!」とざわざわする。
そんなに驚かれるとは思わず、エリザは注目されて身を小さくした。
そんなエリザを院長が手招きして、エリザは講堂の隅に連れていかれた。
シスター・サマンサが「皆は作業を続けるように」と声を掛けると、他の修道女は作業に戻る。
「院長様、お騒がせして申し訳ありません」
「いいえ、あなたは何も悪くありません」
院長は微笑んで、エリザの腕に手を添える。
「すっかり忘れていましたけれど、誓願前のシスター・エリザの立場なら他国の言葉は読めますよね。古語も読めるのですか?」
「はい……」
交易のある国の言葉は王太子妃教育で習った。読めるどころか、書けるし話せる。また、エリザは学園の文学の授業で最難度クラスに所属していたから、周辺国の古語も読める。
「他に読める方はいなかったのですか?」
「ええ、そうです。高位貴族の出身者はずっといませんでした。いても、あなたほど語学に堪能な者ではなかったので、古語で書かれた経典などは長い間誰も読めなかったのです」
「もったいないです! 本自体が貴重な資料ですが、物語は読んでこそですわ!」
「ええ、そうですね」
院長は少し考えて、
「試しに一冊翻訳してみませんか?」
「え? いいのですか?」
「経典読解の時間を使って作業してもらうことになるので、あなたの読解時間を削ってしまいますが、それでもよければ」
「はい! ぜひ、やらせてください。古語の経典は私も読みたいですから問題ありません」
どれでも好きな本を選んでいいと言われて、エリザは最初に気になった『サライズ・オータム伝』を選んだ。
サライズ・オータムと言えば、隣国オータム王国の第五代国王だ。十人の王妃との恋愛が描かれているのか、王妃とは別の相手との恋愛が描かれているのか、非常に気になる。
虫干しが終わった次の日から、エリザは早速『サライズ・オータム伝』を読み進めた。
現代語に訳しながらだから少しゆっくりだ。
数日経つと隣に座ったオルガがエリザが書き留めた訳文を読み始めた。
「十人の王妃なんてどんな浮気者かと思ったら、どの王妃との恋愛も素敵じゃない! 王妃同士の争いや友情もあって、そちらもそちらでおもしろいし! 特に第三王妃と第五王妃なんて、これはこれでちょっと特別な関係よね」
「このころ、オータム王国の北の平原で少数民族が集まって国を興したの。オータム王国では警戒していて、国境辺りでは小競り合いもあったのよ」
「ああ、第三王妃が『我が一族』って言うのは、その新興国の一族ってことなのね?」
「ええ、そうよ。この経典が実話なのかはわからないけれど、史実に即しているなら補足があったほうがわかりやすいかしら?」
「補足、ぜひいれてちょうだい! 歴史なんて全然わからないもの」
エリザが訳したところまで読み終えたオルガはため息をつく。
「はぁー、エリザが訳してくれなかったら、私はこの物語を知らずに一生を終えたのね……。エリザに感謝を捧げるわ」
「大げさよ。古語が読めるのは私だけじゃないんだから」
学園にはもっと成績のいい人なんていくらでもいた。
「今この修道院にはエリザしかいないじゃない。自分に置き換えて考えてみてよ。もし古語が読めなかったら、虫干しのたびに『なんて書いてあるのかしら』って思うだけだったのよ? サライズ・オータムと十人の王妃の恋愛模様を知らないままなんて耐えられる?」
「それは……つらいわ……」
「古語を読めたことに感謝したくなるでしょう?」
「なるわね」
オルガに言われて、エリザもうなずいた。
婚約解消になったとき、王太子妃教育や学園の勉強は無駄になったと思っていたけれど、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。
(人生ってわからないものだわ)
エリザは深くため息をついた。
歴史的な補足も入れて読みやすくした『サライズ・オータム伝』を院長に提出して少しあと、エリザは院長室に呼ばれた。
その日は朝から皆が浮足立っていて、何かと思っていたら、中央教会の司祭が視察に来る日なのだそうだ。
教会は一般信者が礼拝に訪れたり、子どもに洗礼を行ったりする。中央教会は王都にある、国で一番大きな教会だ。
修道院は修道士や修道女の修行の場で、基本的に一般信者は入れない。聖カオルコ修道院がそうであるように独自の戒律を設けている修道院もある。それでも教会の組織の一つなので、司祭の視察がある。
聖カオルコ修道院は王都の端っこにあるため、中央教会の管轄だった。
「ハリー司祭様って、二十代半ばの若い方なのだけれど、経典の登場人物かっていうほどの美男子なのよ!」
オルガが力説すれば、マギーも、
「自分が主人公になりたい系の修道女は、皆、あの方との恋愛を夢想するのよ」
「まあ」
「美麗なお顔なのに、やり手なんですって」
「やり手? 何の?」
「資金集め。中央教会の上層部からも目をかけられている幹部候補ってわけよ」
そのハリー司祭が今エリザの目の前にいた。
細身で中性的な美貌。聖職者は髪を伸ばしている人が多いが、ハリーも青みのある長い黒髪を後ろで編んでいた。
彼の上品な容姿と仕草を目にして、エリザは思った。
(この方も元は貴族なのではないかしら? 私はお会いしたことがないと思うけれど……。もし会ったことがあっても、今の私は見た目が変わっているし、気づかれないわよね)
初めて入った院長室は、面会室と同じくらい飾り気のない部屋だった。美と健康を目指す聖女カオルコは、飾るよりも飾らない美しさを推奨していた。内装も同じ方針らしい。
ハリーの座るソファの正面に院長が座り、エリザはその隣に座った。
彼の後ろには教会から一緒に来たのか、男性の教会騎士が立っている。ハリーと同年代の騎士はがっしりとした体格で、エリザは久しぶりに男性を見た気分になった。
「はじめまして、シスター・エリザ。中央教会のハリーです」
「はじめまして。エリザと申します」
二人が挨拶を交わすと、院長がテーブルに『サライズ・オータム伝』を置いた。
「ハリー司祭様にシスター・エリザが翻訳した経典をお見せしたのですよ」
「まあ、つたない翻訳でお目汚し失礼いたしました」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。歴史的な補足も含めて、とても良く書けていました」
「私が書いたわけではないのですが、ありがとうございます」
エリザは素直に礼を述べる。
ハリー司祭はにっこりと笑みを浮かべて、
「聖典などを印刷している出版部に持ち込んだら、乗り気になってくれて、この『サライズ・オータム伝』を出版することになりました」
「ええっ! 本になるのですか? これが?」
「はい。本になって、販売されます」
「まあ……!」
エリザは両手で紅潮する頬を押さえた。
「素晴らしい経典ですもの、たくさんの方に読んでいただけるのは良いことだと思います! 経典は一夫一妻を描いたものが多いでしょう。ですから、このような一夫多妻の愛に触れるのは滅多にないと思います。女神ディーテの愛は多様です。女神の教えを広めるのにこの経典はぴったりですわ」
「その通りですね。でも、現代は我が国も周辺国も一夫一妻制です。いきなり例外を出すと皆様が驚かれるのではないかと思いませんか?」
ハリーに聞かれ、エリザは「そうですね」とうなずく。
「古語で書かれた経典の中に一夫一妻の話はありませんでしたか?」
「ええ、まだ読みかけですが、今訳しているものは一夫一妻です」
「同性同士の恋愛や友情に近い親愛ですとか、悲恋を描いたもの、いとしさが憎しみに変わるようなものなども、いずれ出版したいと思っています」
「はい、そうですね。それは素敵だと思います」
経典庫にはたくさんの本が収蔵されていた。探せばきっとそういう話もあるだろう。
ハリーは美麗な顔を笑顔で彩ると、
「シスター・エリザが引き受けてくれて良かったです」
「え? 引き受けてって、私が翻訳するのですか?」
「ええ、もちろんですよ。シスター・エリザが翻訳したものを、私が出版します」
「え? あの、え? 本当に? 他にどなたかいらっしゃらないのですか?」
エリザは困って院長に助けを求める。
院長は首を振った。
「あなた以外の修道女が古語や他国語を読めないのは、シスター・エリザも知っているでしょう? 外部の者に大切な経典を触らせることはできないのです。翻訳のために誓願してもらうわけにもいかないですから」
「そうですね……」
院長は申し訳なさそうに眉を下げた。
そこでハリーがエリザに声をかける。
「シスター・エリザ。誓いの言葉を思い出してください。あなたは経典を読み、愛を知りました」
「まだまだ、途中です」
「ええ、でも同時進行で良いのです。次は何ですか?」
エリザは誓願の言葉を思い出す。
『女神ディーテの教えに従い、愛を知り、愛を伝え、愛し愛される毎日を送ることを誓います』
そうだった。
「愛を知ったら、愛を伝えるのですね」
「はい、その通りです。一緒に愛を伝えませんか? あなたが翻訳しなければ、経典庫の愛の物語は誰にも伝わらないのです」
ハリーにそう言われて、エリザはオルガの言葉を思い出した。
経典を読めないまま終わる人も悲しいけれど、誰にも読まれない経典も悲しい。
エリザは意を決して、ハリーを見つめる。
「わかりました! 私が翻訳します!」
こうして、エリザは愛を伝える役目を得たのだった。