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聖カオルコ修道院の暮らし

 翌朝、エリザはオルガに起こされた。

 日の出直後の窓の外は、まだ薄暗い。

 起床時間を聞いたときは起きれるのかと心配したけれど、消灯直後にすとんと寝落ちたエリザは、寝起きもすっきりだった。

(よほど疲れていたのね……)

「おはよう、オルガ」

「おはよう。エリザがすんなり起きてくれてよかったわ」

「私もびっくりしているの。こんなに早起きしたことなかったから」

 昨夜の自由時間、オルガが手先の器用な修道女に頼んでくれて、エリザは髪を切ってもらった。前髪は眉のぎりぎりまで短くしてもらい、後ろ髪の痛んでいる毛先を切って整えてもらって、かなりすっきりした。

 戒律で決められた美容の時間は、特製の薬草水を顔に塗ったり、支給品の櫛で髪をとかしたりする。顔や身体のマッサージ、ベッドに座って身体を伸ばしたりひねったりする運動もする。

 マッサージは婚約して王宮の夜会に出るようになったばかりのころ、王宮のメイドがやってくれたことがある。義母の勧めで夜会の支度を公爵家で整えるようになってから、マッサージしてもらうことはなくなったけれど、王宮のメイドの腕は確かだった。

(すごく気持ちよかったのよね。毎回、寝てしまっていたわ……)

 聖女カオルコの教えは、絵と言葉でわかりやすく描かれた手順書があり、初めてのエリザでも難なくできた。毎日こなしているオルガは手順書なしでもできるそうだ。

 ウィンプルの下のオルガの髪は、輝くような銀色でさらさらと滑らかな直毛だった。

「灰みたいだってずっとけなされていて、自分の髪が嫌いだったんだけど、教え通りに毎晩とかしていたらすごくつやつやしてきたの」

「灰だなんて! 綺麗な銀色じゃない!」

「ありがとう。今は自分でもそう思えるわ」

 オルガはそう言って笑った。

 いろいろな話をして、一晩でエリザとオルガは呼び捨てで呼び合う仲になった。

 そんなオルガに連れられて、着替えたエリザは礼拝堂に向かう。

 席順は自由なので、エリザはオルガの隣に座った。昨夜の夕食のときにオルガを介して仲良くなった修道女たちも近くに座る。

 院長が挨拶をしたあと、聖典の一節を読む。

 それから、女神に祈りを捧げた。

(女神ディーテ、今日からよろしくお願いいたします)

 礼拝が終わるとラディーオ体操をするため、皆で運動場に出た。

 今、修道女は五十人近くいるそうだ。

 夜会や茶会では色とりどりのドレスの女性がひしめくけれど、ここでは皆が同じ修道服できっちりと列に並ぶ。その様はなかなか迫力があった。

 女性の教会騎士と料理人は戒律がいくつか免除されている準修道女で、彼女たちはラディーオ体操は自由参加だったけれど、だいたい皆参加しているそうだ。服装が違うのでわかりやすかった。

「前のシスターを見て真似するといいわよ」

 オルガに言われて、エリザはうなずく。

 初めてのラディーオ体操に緊張と同時にわくわくする気持ちもある。

 前にシスター・サマンサが立って挨拶をしたあと、「それでははじめましょう」と号令をかける。サマンサが脇にあるワゴンの上に載った蓄音機を操作すると、軽快な音楽が流れ出した。

 音楽に合わせて、手や上体を動かしたり、ジャンプしたり。

 エリザは必死に皆に合わせて動いたけれど、早くてなかなかついていけない。

 サマンサの隣では院長も涼しい顔で体操をしている。

「腕を大きく動かして!」

「はい、深く吸ってー、大きく吐いてー」

 サマンサの掛け声も響く。

 あわあわしているうちに、ラディーオ体操はあっという間に終わってしまった。

 エリザは肩で息をする。

「どうだった?」

「む、難しいわ」

「絵付きの教本が宿舎の談話室にあるから、休憩時間におさらいするといいわよ。修道服じゃ足の動かし方はわからないしね」

「そ、そうね。え、足? 皆は足も動かしていたのね……」

「すぐに慣れるわよ」

 オルガに励まされて、エリザは「がんばるわ」と拳を握った。


 そして、午後。待ちに待った経典読解の時間がやってきた。

 講堂に集まり、自由に席に着く。

「この棚から好きな経典を選んで読むのよ」

 講堂の壁は書棚になっており、びっしりと本で埋まっていた。

「これが経典? 本屋で見たことがあるものもあるけれど……」

 エリザは時間がなくて読めなかったけれど、流行りの小説は社交の話題のためにあらすじだけ把握していた。

「愛の女神ディーテの教えは、恋愛小説から学ぶのよ。新しいものもあるけれど、昔の名作もたくさんあるわよ」

 オルガが棚から一冊取り出してエリザに渡してくれる。

「これが私のイチオシ」

 本のタイトルは『茜空に舞う蜻蛉のように』とある。

「二十年くらい前の流行なんだけれど、読んだことある?」

「いいえ、ないわ」

「全二十巻の大作だから、読むなら心して読んでね」

 エリザは物は試しと、オルガのイチオシを読むことにした。

 純粋に娯楽として物語を読むのはいつぶりだろう。――いや、経典なのだから娯楽と言ってはいけないのかもしれない。でも、文学や語学の課題で読むのとは心構えが違った。

 そして、エリザは一気に物語の世界に引き込まれた。

 オルガに肩を叩かれて、はっとしたときには、経典読解の時間はもう終わっていた。

「どうだった?」

「おもしろすぎよ! 今、主人公のパメラが実家を追い出されて冒険者になったところなの」

「じゃあ、まだレジーには再会していないの?」

「ちょうど再会したところよ。ギルドの掲示板で同じ依頼票を取ろうとして手がぶつかって……!」

「ああ! あのシーン! 喧嘩するのよね!」

「お互いに気になっているのに!」

 エリザとオルガは手を握り合う。

「でも、このあと……」

「待って、言っちゃだめよ。私はまだ読んでないんだから」

「あっ、そうよね。語り合いたいから早く読み終わってね」

「ええ、がんばるわ」

 エリザは力強くうなずく。

「部屋に持って行って自由時間に読むことはできるの?」

「それは禁止されているわ」

「そうなの、残念だわ……」

「消灯時間を守らなかったり、美容時間を削ったりする人がたくさん出るからじゃない?」

「そうね。気持ちはわかるわ」

 エリザは睡眠時間を削って勉強していた前科がある。きっと寝ないで読み続けるに違いない。

 そこでオルガとは逆隣に座っていたマギーが話に加わった。マギーも二十歳前後で年が近い。

「エリザは、パメラに成り代わってレジーと恋愛したいって思う?」

「え? いいえ、それはないわ。パメラとレジーの恋愛だから楽しめるのよ」

「なるほど。そっちのタイプね」

「そっちって?」

「好きな登場人物と自分が恋愛したらどうする、って想像するのが好きって人もいるから」

「まあ」

 エリザは経典を読んでも、自分と恋愛が結びつかなかった。

 それなのに、恋愛小説がこんなに楽しいなんて。

 自分にとって恋愛は、自らするものではなく、第三者の立場で見て楽しむものなのでは?

 婚約解消を求められたとき、パトリックとローズのなれそめが気になったのは、この嗜好のせいかもしれない。

(惹かれてはいけないと思いながら、異母姉エリザの婚約者パトリックに恋してしまう主人公ローズ。パトリックはエリザに愛想を尽かしていたけれど政略上関係を断てない。しかし、ローズの健気な思いに触れて次第に心を移していく。禁断の恋の行方は……! という感じかしら)

 そうやって客観的に見たらおもしろそうだ。

 自分がその「愛想を尽かされた婚約者」ってところが問題だけれど、とエリザは自嘲する。

 こうして、エリザは経典読解の時間を楽しんだ。

「俗世では、聖カオルコ修道院は戒律が厳しいから一度入ったら出られないって言われているけれど、実際のところは、経典読解が楽しすぎて俗世に戻らない人がほとんどなのよ」

 オルガの言葉に、エリザは心底納得したのだった。


 こうして、修道院で過ごすうち、エリザはすっきりと痩せた。

 今までは何だったのだろうと思うくらいだった。

 ラディーオ体操も覚え、日焼け対策を万全にした畑仕事も楽しくこなし、毎晩の美容時間も守っている。

 たまに巡ってくる武術の棒術では指導してくれる女性騎士に「体幹がしっかりしている」と褒められたりした。――カーテシーなど姿勢に気を遣う淑女教育の成果かもしれない。

 美と健康が愛につながるという信念のもと、聖女カオルコの教えは美と健康を目指すものが多かった。

 修道院の夕食はコメが主食で、聖女カオルコ秘伝の製法による発酵食品『ナットゥー』が出る。豆なのだけれど、独特の匂いがあり糸を引いている。どうしても苦手なら食べなくてもいいと言われたけれど、エリザは意外に平気だった。

 ディーテ教は食材の制限がないため他の修道院では肉も多いが、聖カオルコ修道院では脂身の少ない部位が選ばれており、畑で収穫された新鮮な野菜がどの献立にも並んだ。夜の自由時間に間食することも禁止されていた。

 オルガが言ったように義母の気遣いが的外れだったのは確かで、戒律に従うようになってからエリザは肌荒れも改善した。寝不足もなく身体も軽い。

 髪もまとまりがよくなったため、もっさり重い見た目だったのが、自然な巻髪に見えるようになった。

「今のあなたのほうが、ここに来たばかりのころよりもずっとかわいいわよ!」

 オルガもそう言ってくれる。

 エリザ自身も今の自分のほうが好きだ。

 修道院に来て本当に良かったと、エリザは心から思った。

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