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エリザ、修道女になる

 門番に修道女になりたいと伝えると、エリザは面会室に通された。この部屋までしか外部の人間は入れないそうだ。

 乗り慣れない馬車は揺れて、あともう少し遠かったら酔うところだった。エリザは勧められた椅子にぐったりと座った。

 彫刻もない削って磨いただけの木の机に椅子が四脚。窓はあるものの、すぐ外に生垣があり外の様子がうかがえない。すり減った板張りの床、漆喰の壁。部屋を飾る調度は何もなかった。――まさに『戒律の厳しい修道院』といった様子だった。

 人の声どころか物音ひとつしない。エリザは世界に一人取り残されてしまったような気分になる。

 不安感が馬車の疲れを越えそうになったころ、現れたのは老年の修道女だった。

 エリザが立ちあがろうとすると、彼女はそれを制して「はじめまして」と微笑んだ。優しそうな笑顔にエリザはほっとする。

「私はこの聖カオルコ修道院の院長です」

「はじめまして。エリザ・エレベルストと申します」

 エリザの正面の椅子に腰掛けた院長にそう挨拶すると、院長は「あら!」と驚きの声を上げた。

「エレベルスト公爵家の? もしかして王太子殿下の……」

「婚約は解消することになりました」

「あらあら! まあまあ、それはそれは!」

 遮るようにエリザが言うと、院長は目も口も大きく開けて驚いてから、何度もうなずく。

「それでこちらにいらしたのですね。詳しい事情は尋ねませんが、あなたが話したければいくらでも聞きますよ」

「ありがとうございます。今はまだうまくまとまらないので、いつか話したくなったら聞いていただけますか」

「ええ、もちろんです」

 そこで、院長は表情を改める。

「修道女になりたいということですが、間違いないですか?」

「ええ」

「この聖カオルコ修道院は他の修道院より厳しいのはご存知ですか?」

「はい、知っています」

「俗世に戻らない決意で誓願をたてる者ばかりなので、この修道院に入るのでしたらあなたにも同じ決意を求めます。身分も家名も捨て、ただのエリザとなっていただきます。その代わり、家からも国からもあなたを守ることを約束しましょう」

 どうされますか? と聞かれて、エリザは迷わずうなずく。

「こちらの修道院に入らせてください。よろしくお願いいたします」

「決意は固いのですね?」

「はい!」

 エリザは院長をまっすぐに見つめる。エリザの目は前髪で隠れていたけれど、院長には伝わったようだ。

 院長はゆっくりと首を縦に振り、

「わかりました。あなたを受け入れましょう、シスター・エリザ」

「ありがとうごさいます!」

 エリザは院長に促され、面会室の隣の小部屋に移動した。こちらは誓願室だそうだ。

 窓のない部屋の奥には祭壇があり、小さな女神像が祀られている。

「ここで女神ディーテに誓いをたてていただきます」

「誓いですか?」

 スプリング王国と周辺の国々は、愛の女神ディーテを祀るディーテ教を国教としている。エリザも生まれてすぐに洗礼を受けた。

 しかし、誓いと言われてもどうしたらいいのかわからない。

 戸惑うエリザに院長は微笑み、祭壇の前の床を手で示す。祈りを捧げる位置の目印なのか、そこには白線があった。

「誓いの言葉はそちらにありますよ」

 エリザは白線の前にひざまずく。そうすると、白線に書かれている文字が読めた。

『女神ディーテの教えに従い、愛を知り、愛を伝え、愛し愛される毎日を送ることを誓います』

(これが誓いの言葉?)

 恋愛から逃げて修道院にやって来たエリザは絶望的な気持ちになる。

「院長様、私は恋や愛がよくわからないのです」

「問題ありませんよ。わからないなら、これから知っていけば良いのです。そのために修道院にはたくさんの経典があります」

「そうなのですね!」

 エリザは目からウロコが落ちる思いだった。

 わからないなら勉強すればいい。

 確かにその通りだ。

 王太子妃教育だって、学園の授業だって、今までずっとそうしてきた。

(恋愛だって学べばいいのだわ!)

 エリザは姿勢を正し、頭を下げる。

「女神ディーテの教えに従い、愛を知り、愛を伝え、愛し愛される毎日を送ることを誓います」

 エリザは敬虔な気持ちで、女神に誓った。

「シスター・エリザに、女神のお導きがありますように」

 院長の言葉はじんわりとエリザの心に染み渡った。


 誓いをたてたあと、エリザはシスター・サマンサに引き合わされた。三十代半ばのサマンサは修道女のまとめ役だそうだ。

「エリザと申します。どうぞよろしくお願いいたします」

「私はサマンサよ。エリザというと女神の使徒のお一人ね。いい名前ね」

「ありがとうございます」

 女神ディーテの名前を付けることはしないけれど、使徒や眷属神の名前を付けることはよくある。エリザの名前も女神の使徒が由来なので、このスプリング王国には多い名前だった。

「さあ、中に入りましょう」

 サマンサに連れられて面会室や誓願室のある建物を出ると、また壁があった。その内壁の中に入ると、今までいたところが敷地のほんの入り口だったとわかった。

 内門から小道が続き、建物の姿は遠くにある。敷地の外側を囲む塀は見えないくらいだ。

 エリザたちが歩く小道の両側にはいろいろな植物が植えられていた。支柱が立てられていたり黒い網がかけられているものもある。

「これは畑ですか?」

「ええ、そうよ。修道院では野菜は自分たちで作っているの。聖女カオルコの方針で、トータン帝国などで食べられているコメも作っているわ」

「コメですか!?」

 トータン帝国は大陸の東端の国で、西端にあるスプリング王国からは遠い。ここ十年くらいでやっと交易が増えてきた国だ。しかし輸送に時間がかかるため、農産物はあまり流通していない。コメなんて貴重な食材は、エリザもトータン帝国の使者を迎えた王宮晩餐会で数回食べたことがあるだけだ。

 驚くのはそれだけではなかった。

 畑の境界になっている生垣の向こうは広場だった。石やレンガも敷かれていないむき出しの地面。もちろん芝生も花もない。騎士の訓練場のようだと思っていたら、サマンサが教えてくれた。

「ここは運動場よ」

「えっ、修道女が運動するのですか?」

「ええ。毎朝、聖女カオルコが始めた『ラディーオ体操』を皆でやるの」

「ラディーオ体操……初めて耳にします」

「この修道院の外には広まっていないものね。明日からシスター・エリザも参加してもらうわ。大丈夫、それほど難しくはないから、すぐに慣れるわよ」

 サマンサはにっこりと笑う。

 エリザはダンスのレッスン以外の運動などしたことがない。最近では勉強が忙しく、家の庭を散歩することもまれだった。

 不安になったものの、厳しい修道院を選んだのは自分だから、と思い直す。

(シスター・サマンサも難しくないっておっしゃっていたもの、きっと私でもできるわ!)

 運動場を囲むようにいくつか建物があった。礼拝堂、講堂、経典庫など、サマンサは丁寧に教えてくれる。

 次に案内された宿舎まで誰にも会わなかった。

「今の時間は経典読解の時間なの。皆、講堂にいるわ」

 聖カオルコ修道院は毎日の予定がきっちり決まっているそうだ。

 朝起きたらまずは礼拝。それから運動場でラディーオ体操。そのあとにやっと朝食。午前は畑仕事や掃除、洗濯など、週替わりで班単位で担当を変えて作業を行う。昼食のあとに、少しの自由時間。午後は経典を読む時間が長く取られていて、そのあとは、班ごとに分かれて保存食作りや裁縫、武術など様々な活動を行う。皆で稲刈りや経典の虫干し、大掃除などを行う日もある。早めの夕食を食べたら消灯までは自由時間だ。

 ただ、消灯時間は早い。起床時間ももちろん早い。それなのに、毎晩遅くまで勉強していた昨日までのエリザの睡眠時間より、修道院の睡眠時間のほうが長かった。

(今までの私は、修道院より厳しい生活をしていたのね……)

 サマンサの説明を聞きながら、エリザは内心で自嘲した。

 宿舎は三階建て。エリザの部屋は三階の二人部屋だそうだ。

「同室のシスター・オルガは、あなたより少し年上よ。良い先輩になってくれるわ。経典読解が終わったら部屋に戻るように言ってあるから、もうすぐ来るでしょう」

 オルガを待っている間に、宿舎内にあるリネン庫や倉庫の場所を教えてもらいながら、シーツや修道服、寝衣や下着、洗面道具や筆記用具などの必要なものを揃えていく。

 太めのエリザに合う服があるかと心配したけれど、修道女になってから痩せる人が多いため、サイズの大きい服は余っているのだそうだ。

(やっぱり戒律が厳しいから痩せるのかしら?)

 サマンサと手分けして持ち、部屋に行くとちょうどオルガも来たところだった。

 そこで、案内役はサマンサからオルガに交代になった。

「他の修道女には夕食のときに紹介するわ」

 そう言って出ていくサマンサに、エリザは礼をした。

 オルガはエリザを笑顔で歓迎してくれた。ここに来てから会った修道女は皆いい人で、エリザはほっとした。

「はじめまして、私はオルガよ。二十三歳。五年前からこの修道院にいるわ」

「はじめまして、エリザと申します。十八歳です。よろしくお願いいたします」

「そんな堅苦しい言葉使いはしなくていいわよ。役職についていない修道女は、皆同じ立場だから」

「そうなんですか。あ、ええと、そうなのね」

「そうそう。まあ、長い付き合いになるんだから、気楽にね」

「ありがとう」

 空いているベッドと机をエリザ用にして、まずは着替えだった。

 黒い修道服はコルセットも要らない。ドレスのように締め付けがなく、動きやすい。

「事情があって顔を隠しているのかもしれないけれど、修道院は服装が決まっているのよ」

 頭に被るウィンプルのつけ方を教えてくれたオルガが申し訳なさそうに言う。

「いいえ、特に顔を隠しているわけではないの」

「そうなの? 前髪を上げてもいい? 後ろ髪もまとめないとならないわ」

 椅子に座ったエリザの髪をオルガが整えてくれる。

「あ、肌荒れを気にしていたのね。大丈夫、聖女カオルコの教えを守れば自然と治ると思うわ」

 エリザの顔は、かさかさしているところがあるかと思えば、常にどこかにニキビがあったりで、ひどく荒れていた。

 しかし、気にしてはいたけれど、別に隠していたわけではなかった。

「髪の手触りもすぐに良くなるわ。私もそうなのよ。毎晩必須の美容の時間があるから、やり方を教えるわね」

 もっさりとしたエリザの髪を丁寧にとかしてくれるオルガに、エリザは試しに聞いてみたくなった。

「あのね、ちょっとあなたの意見を聞いてみたいのだけれど、私のさっきまでの髪型やドレスって私に似合っていた? かわいいと思った?」

「え? ええと」

「はっきり言ってちょうだい。義母は似合っていてかわいいと言ってくれていたんだけれど、元婚約者はそう思っていなかったみたいで……」

「えっ! それは、ちょっと! 待って」

 後ろで髪をまとめてくれていたオルガは、慌ててエリザの前に回ってくる。少し考えるようにしてから、

「私は、前髪は上げたほうがいいと思うし、ドレスももっと違うものにしたほうがいいと思ったわ。ねぇ……義母って実の母じゃないんでしょ? あなたもしかしていじめられていたの?」

「いいえ、義母は優しかったわ。亡くなった実母なんて話した記憶も数えるほどだったもの」

 エリザは義母がやってくれたことをオルガに話す。

 オルガは「うーん、それは微妙な……。本当に優しさだった可能性もなくはないけれど、そう見せかけて都合のいいように誘導していた可能性のほうがありそう……」と何かぶつぶつ言った。よく聞こえなかったエリザが聞き返すと、オルガは顔を上げた。

「あなたの義母がしてくれたこと、――夜食とか肉多めとか、髪型とかね。それは聖女カオルコの教えとは真逆なのよ。夜更かしや夜食が良くないっていうのは多少世間にも伝わっていると思うのだけれど……」

「まあ! そうなの? お義母様は知らなかったのね」

「そうね。あなたがそう思うなら、それでいいと思うわ」

 オルガはさらに言いにくそうに、

「ちょっと気になったのだけれど、元婚約者って? 逃げてきたの? あ、言いたくないならいいんだけど」

「婚約は解消したの。元婚約者は異母妹と婚約しなおすんですって」

「ええーっ! 異母妹って義母の娘ってことでしょ? いや、もう、ほんと待って。それはどうなの?」

 あっけらかんと話すエリザに、オルガが眉を寄せる。

「シスター・エリザ、いろいろ大変だったのね」

「いいえ、もういいのよ。私、愛とか恋とかよくわからなかったから仕方ないわ。ここで女神の教えを勉強するわ」

「ああ! それはいいと思うわ! 経典はどれも素敵な話ばかりよ。読解の時間になったら、私のおすすめを教えるわね」

「ええ、よろしくね」

 経典におすすめ? と疑問に思いながら、エリザはうなずいた。

 オルガが髪をまとめてくれたため、久しぶりにエリザの視界は明るくなった。ウィンプルを被って鏡に映すと、きちんと修道女に見える。

「いいじゃない! 似合うわよ!」

「私もそう思うわ!」

 エリザはもう王太子の婚約者でもないし、エレベルスト公爵家の娘でもない。

 気軽な言葉で話してくれるオルガとのやりとりは楽しい。

(そういえば、学園に入学したら何でも話せる友だちができるかもしれないって期待していたこともあったわね。……そんな友だちはできないままだったけれど)

 修道院に来なければ、エリザは肩書と身分に縛られた人間関係の中で一生すごすことになったはず。

 くるりと回ると修道服とウィンプルの裾がふわりと広がった。

 エリザがふふっと笑うと、オルガも笑い返してくれた。

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