#7
次の日の朝。決闘の朝。
日の出前、東の山際が淡く染まるころに目を覚ますと、ベッドのそばにはファルが立っていた。
「ファル、おはよう」
「おはようございます、リズさま。お水をお持ちしますか?」
「ええ、お願い」
ベッドの傍らに置いていたコップの上にファルが右手をかざすと、どこからともなく現れた水でコップが満たされた。
空気中の水分を集めている。私がファルに与えた腕輪――――【水】の聖剣の能力だ。
ベッドに腰かけ、ファルに渡されたコップに口をつける。冷たくて美味しい水が、私のぼんやりした微睡みを押し流してくれた。
「……昨日はあのエルフと戦ったそうですね」
「ええ。あの女の正体はユズリハ・イェルマー。『七聖剣』の第一席。なかなかの腕よ」
「殺しますか」
「いえ。私がノネット三姉妹との決闘に勝ったら、勇者のところまで案内してくれるそうよ。だから殺す必要はないわ」
「そうですか」
私がコップを返すと、ファルも自分の分の水を注いで飲んだ。
「そっちの収穫はどう?」
「何も。とりあえず、ノネット三姉妹が何か策を講じているのは間違いないようですが、罠のようなものを用意している様子はありませんでした」
「それが分かれば十分よ、ファル。ありがとう」
コップを置いたファルの手をつかむ。
ケガはしていないようだ。だけど市長の屋敷に獣人の使用人として潜入していたせいか、少し毛並みが乱れているような気がする。
優しく、ファルの手首から肘までを撫でる。ファルはくすぐったそうに体をぶるっと震わせた。
「ほら、座って」
私の隣をぽんぽん叩いて、ファルに座るよう促す。
ファルは一瞬迷ったようだったけど、すぐにその場へ腰を下ろした。
一人用のベッドでは、二人は重かったようだ。ギィとベッドの床板がきしむ。
「ファルには面倒ごとばかり押し付けてしまっている気がするの」
「いえ。ファルの命はリズさまのものです。何なりとご命令ください」
「じゃあ命令します。ファル、本心を言いなさい。ありのまま、本当の気持ちよ。このまま、私と一緒に復讐を続けたいかどうか」
ファルは床を見つめてうつむいてしまった。
しばらく手を遊ばせ足をぱたぱた、耳としっぽをぴくぴくさせて迷っていたファルは、ふぅと大きく息を吐いて呟いた。
「……複雑です」
「複雑?」
「お館さまも奥さまも、シンディお嬢さまもファルには本当の家族のように接してくださいました。卑しい獣人、ただの使用人で命なんて使い捨てのファルに、名前とほんとうの幸せを下さいました。だから、ファルも勇者のことは許せませんし、仇をとりたいと思っています。その気持ちに変化はありません。しかし……」
「しかし?」
「ファルはリズさまが心配です。以前、リズさまはファルのことを『自由だ』と仰いました。でもファルにはリズさまを一人置いて、どこかへ行く選択肢などありません。
リズさまが復讐をお止めになるのでしたら、ファルも勇者のことはきっぱり忘れます。リズさまが復讐をお遂げになりたいのなら、ファルはリズさまの剣となりましょう。『どこまでもリズさまと一緒に』。これがファルの本心です」
「ありがとう、ファル」
ファルの肩を抱き寄せて、強引にキスをした。
最初は驚いていたファルも、私に応じて体を預けてくれた。
思い出してしまったのだ。あの時、ユズリハが言っていた言葉。
ユズリハ・イェルマー。天路アキラにもらった名前――――
ファルの名前も私が与えたものだ。私たちの関係は、少し似ている気がする――――。ユズリハは、勇者アキラにどこまで忠誠を誓っているのだろうか。ファルはどこまで、私に忠誠を誓ってくれるだろうか。試したくて、聞いてしまった。
ファルがそうであるように、ユズリハもアキラのためなら何だってやる覚悟を決めているかもしれない。復讐を遂げる上で、ユズリハの存在は無視できないファクターだ。
あの太刀筋、敵に回したくない。では仲間に引き入れられるだろうか?
絶対に無理だ。いつかは、私はユズリハと互いの聖剣を手に、殺し合いをすることになるだろう。
刀身が折れて終わることなんてない、お互いの命の灯を消すまで続く、本気の殺し合いを。
いけない。
ファルとキスしながら、他の女のことを考えるなんて。
獣人のファルは、ふつうの人間よりも体温が少し高い。さっき冷たい水を飲んで潤んだファルの唇は、もう私よりずっと熱くて、甘くて。何もかもが融けてしまいそうだった。
ユズリハのことは、今は考えないでおこう。
約束の時間。市場の賑わいが収まる時間、津波の前に波が引いていくかのように、セントラル広場から人が消えた。
街行く人はいなくなったけれど、視線は感じる。みんな家に入って、窓の木製鎧戸の隙間からこっちを覗いている。決闘に巻き込まれたくはないけれど、結果は気になるようだ。
私は広場で一番目立つ街灯に背中を預け、ただじっとその時を、ナンシー・ノネットが現れるのを待っている。
聖剣の気配はする。が、方向が分からない。広場を一周、取り囲むように薄く感じる気配が、だんだんとその輪を狭めている。
やはりヒューマン族に擬態した姿のままでは、感覚の鋭敏さにも限界がある。ぎゅっと目を瞑り、私は竜の力を目だけ解放した。
瞼を開いた、私の目に飛び込んできた視界。
木の葉の揺れ、鳥の羽ばたき。風の流れが見える。広場の周囲、不自然にかき乱される空気と、その場に微かに残る、魔力の残渣。
左右を見て、その発生源を見つけることができた。残像を発するほどの高速で広場を走り回っているのはリンゼイ・ノネット。三姉妹の次女だ。
その手にはミストルティンが握られている。抜き身のまま、構えはなし。聖剣はリンゼイに、人間が感知できないほどのスピードを与えているようだ。
ミストルティンの使いまわし。それがリンゼイから聖剣のオーラを感じた理由か。
しかし、なぜ仕掛けてこない?
ノネット三姉妹は私の正体を知らないはずだ。まさか私がリンゼイの動きを追えているなんて、想像もしていないだろう。
だったら、そのスピードで私の心臓を貫いてしまえば決闘は終わりだ。なぜそうしない?
決闘らしく、遊んでほしいのだろうか。
だったら、乗ってやろう。私は背中からレーヴァテインを抜き、まっすぐ正眼に構えた。
力を込めて握ると、レーヴァテインは赤熱し、そして発火して炎を纏った。
軽く、振り上げたレーヴァテインを振り下ろす。魔法の炎が刃を離れ、広場を横断するように炎の壁を作った。
壁の前で、リンゼイは急ブレーキをかけて止まる。動きが止まったところへ、私は跳躍した。
「やべっ」
しゅっ、とリンゼイは影を残して消える。上空から大きく振り下ろしたレーヴァテインは、リンゼイのいた場所の地面に敷かれたタイルを砕いて吹き上げた。
「戦う気がないのかしら、リンゼイ・ノネット」
「……アンタ」広場に広がっていた気配が一つに集まり、私の背後でリンゼイの姿になった。「アタシが見えてるのか」
「ええ。そのスピードで速攻を仕掛けていればいいものを」
「こっちにも事情ってもんがあんだよ」
レーヴァテインを正眼に構え直した私に倣うように、リンゼイもミストルティンを正眼に構えて私と対峙する。
「リンゼイ・ノネット。コニール・ノネットの娘!」
「エリザベス・イラウンス。偉大なるイラウンス家の末裔」
「いざ尋常に」
「勝負ッ!」
横薙ぎにレーヴァテインを振るい、広範囲に炎を飛ばす。
リンゼイは持ち前のスピードでそれを避けたが、私の目的は彼女に攻撃することではない。
広場に火を放ち、リンゼイの動きを制限することだ。