Epilogue
勇者天路アキラの消失から十年。
彼が死んだことを知るものは少ない。まず、彼に手を下した赤竜エリザベス・イラウンスとその従者ファルシア・ファーヴニル。
復讐劇を手引きした女神、蘇焙燐と、聖剣の力の消失が彼の死を意味することを知っていた、アスカとフィエル、そしてアイリスとオリヴィア。
そして、アイリスから彼の消失を伝えられた、グレースとベラナである。
王都レラスティード郊外。
魔王侵攻の爪痕は深く、人々で活気の溢れる中心街を外れると、王都といえども手つかずの自然が広がっている。
川原に面したウッドデッキにチェアを出し、一人の女はぼんやりと、川原から響いてくる、木刀の打ちあう音を聞いていた。
聞いていた、というのも、彼女は目が見えないので、川原の様子を知るには聴覚に頼らざるを得ないからだ。彼女こそ元七聖剣、【響】の聖剣「イシュメイル」を手にしていたグレース・ガレンその人である。
木刀を握って向かい合う二人。片方は落ち着いた構え、もう片方は落ち着きがなく、剣筋が乱れている。数回の打ちあいの後、前者が後者の腕を打ち、勝負はついたようだ。
イシュメイルを手にしていたころほど鮮明ではないが、グレースは音だけである程度周囲の情報を察知できるようになっていた。
落ち着きのない剣士のほうが、とことこ川原を走ってウッドデッキに上がり、グレースの側に駆け寄ってくる。
「こら! 待ちなさい! 修行の途中でしょう!」
後からやってきた、落ち着いた構えをとっていたベラナ・ブレンスティは声を張り上げ、グレースの方にのしのし近づいてくる。
幼い剣士は、母親の陰に隠れてベラナをやり過ごそうとする。
「ベラナ。あんまり厳しくすると嫌われますよ」
「しかし……いくらなんでも、グレース様はアユム様を甘やかしすぎです!」
「この子が死んだら、あの人……アキラさんの血は、絶えてしまうのですよ? 勇者の血統、最後の一人を大事にして何がおかしいんです?」
幼い剣士。その名を天路アユムという。
アキラが死の前にグレースとの間に為した、唯一の息子である。第一王子はユズリハが産む――――そんな暗黙の了解があった七聖剣だが、第一席ユズリハの死で轡は失われた。だがユズリハの死からアキラの死までの期間は短く、子を宿せたのはグレースだけであった。
「大事だからこそ、戦う力が必要なのです! 私やグレース様だけでは、アユム様を万全にはお守りできないのですから!」
グレースが椅子の横に手を出すと、アユムは自らその手に頭をこすりつけてきた。
アユムは言葉を発しない――――幼少期、魔物に襲われて喉を切られたせいで。
☆ ★ ☆
それは八年前の、嵐の夜だった。
ただならぬ物音を聞いて目を覚ましたグレースだったが、ベッドに縛り付けられたかのように体が動かない。声も出せない。
やっとのことでうめき声を上げたグレースは、何事かと部屋に駆けこんだベラナの悲鳴を聞いて、びくっと体を震わせた。
「アユム様がいません!」
金縛りの解けたグレースは慌てて両手で辺りを探ったが、ベッドの上でいつも一緒にいるはずの息子の姿が、そこにはなかった。
まさか一人でどこかに? 歩けるようになったばかりの子供が……? 焦燥の余り過呼吸になったグレースは、絶え絶えの声でベラナに息子の捜索を優先するよう命じた。
結果として、アユムはすぐに見つかった。
グレースとベラナが暮らす家から少し離れた、王都中心街へ向かう街道のほとり。喉から血を流して倒れていたのをベラナが救出したのだ。
ベラナは捜索に協力してくれた近所の住民たちに手厚く礼をいい、傷ついたアユムをグレースの元に連れ帰った。
回復魔法が間に合ったこともあり、アユムは一命を取り留めた。だが、喉に受けた傷は深く、彼は永遠に声を失ってしまったのである。
どうやってアユムは家を抜け出したのか。どんな魔物に襲われたのか――――アユムは何も語らない。
声を失った彼が、真相を「語る」日は、永遠に来ないだろう。
☆ ★ ☆
目の見えない母親に声を出せない息子。『転移者』の父親は行方不明、生まれも歪ならば家族としての様態も歪そのものである。そんな二人がどうにか生活できているのは、グレースの従者として献身的に尽くすベラナのお陰である。
「休憩にしましょう、ベラナ。貴女も疲れているでしょう?」
「いえ、そんなことは」
「今、王都の大広場に旅芸人が来ているそうなんです。アユムを連れて行ってあげてはもらえませんか。貴女も、少し羽を伸ばしてきてください」
アユムの小さな手、小さな体温が、グレースの手首を掴む。
目には見えなくても、声には出なくとも。アユムが母親に「楽」の感情を伝えようとしているのが分かる。
「しかしですね……」
「アユム、約束してね。戻ってきたら次は読み書きの勉強よ」
アユムの動きがピタッと止まった。勉強嫌いは父親似のようだ。
しばらく考えていたアユムが、グレースの手をぎゅっと握った。「わかった」……そう伝えたいらしい。
周囲の期待には応えようとする人間性もまた、父親似なのかもしれない。
ベラナに手を引かれてアユムが家から出ていくと、入れ替わりに一人の剣士がグレースを訪ねてきた。
グレースの背後に近づいた剣士の背中には、一本の長剣が鞘に収められている。形はかつての「グラム」に似ているが、何の異能も持たない、形だけ真似た模造品である。
「グレース」
「アスカさん」
低い、冷たい声。かつての天真爛漫だった天路アスカの面影は、もうそこにはない。
左手を失い、兄を失い、失意の果てにアスカは流浪の剣士となったとグレースは聞いている。
「何度いらしても私の意思は変わりませんよ。アユムは、貴女には渡しません」
「いい加減分かって。あの半端な鳥獣人だけでは、あの子は守れない」
「だからあの子を連れていくと? 貴女のもとのほうが安全だから?」
「あの赤竜は生きている。それを感じる……きっと、あの子を殺しに来る」
「エリーさんはそんな人ではありませんよ」
ぎりり、とアスカが拳を握る。
「アスカさん。私は貴女の復讐を応援できません。貴女の個人的な恨みに、アユムを巻き込まないでください」
「個人的? ふざけたことを言わないで。
お兄……アキラは、あの子の父親なの。個人的じゃない。あの子にとっても、赤竜は親の仇なの。父親を殺された恨みを、息子が晴らすのは当然じゃない?」
「私はエリーさんに言いました。復讐は身を亡ぼすだけだと。でもエリーさんは復讐を遂げてしまった」
「だから今から、私があの邪竜を滅ぼしに行くのよ」
「それではエリーさんと同じではありませんか、アスカさん」
アスカは何も答えなかった。言葉の代わりに、背中の剣を抜いて切っ先をグレースのうなじに向ける。
極力音を立てないように気をつけていたアスカだが。視覚に頼らず殺気を感じ取るのは、グレースの十八番である。
「その剣で私を斬りますか」
「……アンタには殺しても殺しきれないほど恨みがある」
「それは唯一、私だけがアキラさんの子供を産んだから、ですね?」
「分かってるなら話が早い。
お兄の赤ちゃん……私が産むはずだった。『あっち』の世界にいたときからずっと……私は、お兄のためだけに生きてきた!
ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっと想ってた……! 家にひきこもって、出てこなくなったお兄……周りに女の子が誰もいなければ、きっと私を女として見てくれるって、思ってたのに!
何なの⁉ 異世界転移⁉ お兄が死んだと思ったら、異世界で、女の子に囲まれて⁉
ユズ姉の次は私なの。第四席のアンタじゃない……第二席のッ、私がッ、お兄と子供を作るはずだったっ! それをアンタは、横入りして奪ったんだ!
赤竜はお兄の命を奪った。アンタは、私の夢を踏みにじった!」
「だから、アユムの喉を斬ったのですか。
あの子が自分の子ではなく、私の子だから」
剣先が震えるのが、グレースにも分かった。
「……何の話」
「簡単な推理ですよ。人間を捕食しようとした魔物が喉に食らいついたら、絶対に生き残れません。気管を潰されて、回復魔法でも助からないんです。
でもアユムは生きている。喉を切り裂かれながら――――そう、切り裂かれたんです。人間が使う、何らかの刃物に。
なぜアユムは真相を語ってくれないのか。なぜベラナは『魔物にやられた』といって詳細を隠そうとするのか。理由は簡単です。アユムの喉を切り裂いたのは、知り合いだったから。エリーさんに? まさか。エリーさんがアユムを狙うなら、喉だけ切って逃げるようなことはしません。エリーさんが本気なら、アユムは今頃胃袋の中か消し炭にされています。
アユムを傷つけたのは、私たちがよく知っていて、なおかつアユムを殺害することに躊躇があった人物。傷つけることはあっても、殺そうなどとは考えていない人物」
見えていない目で、グレースはアスカを振り返った。
「あなたです、アスカさん」
遠くの空から、旅芸人の囃子太鼓の音が響く。
グレースとアスカは、言葉も発さず、ピクリとも動かず、互いに鋭く相手を睨みつけていた。
「もうこんなことはやめましょう、アスカさん。復讐なんて果たしたところで、得られるものなんか何にもありませんよ」
「お兄の息子を勝手に産んだ、アンタにだけは言われたくない」
アスカは剣を収めた。
「いつかあの子も父親の死の真相を知れば、同じように赤竜を殺そうとするはず。その時にまた来る」
「アスカさん……アユムが、なぜ今も貴女のことを黙っているんだと思います?
貴女は、アユムに話したんじゃないですか。アユムはアキラさんの息子で、自分はアキラさんの妹だって。だからアユムは黙っている……自分を傷つけたのが貴女であることを、知られてはいけないと思っているんです。
私は、優しいあの子を誇りに思います……一生治らない傷をつけられてもなお、貴女のことを思いやれる、アユムのことが。
復讐や報復なんか考えず、明日に向かって生きている、あの子が」
グレースの言葉をふん、と鼻で笑い、アスカは歩いて去って行った。
復讐は終わらない。
天路アキラがエリザベスの家族を殺し、次はエリザベスがアキラを殺害した。次はきっと――――
いたずら好きの女神は、終わらない復讐の連鎖を、あのニヤついた笑顔で、どこかから見ているのに違いない。
お疲れ様でした。
本作は本エピソードをもって完結となります。
途中公募原稿の難航等でペースが遅れてしまい、なかなか手を付けられない期間もありましたが、なんとか最後まで書きたいものを書ききることができました。
続けて読んでいただいた読者様や、ふらっと読みに来られた読者様に感謝を申し上げます。
次の作品に活かすためにも、本作へご意見やご感想を頂けると幸いです。
ではまたいつか、どこかの小説世界で。お会いしましょう。