#4
ファルシアが空中に手をかざすと、溢れ始めた水が彼女の手にするすると集まって細剣を成した。ファルシアが振るう水の剣は、鉄格子をあっさりと切り裂く。
「アスカ、聖剣を取り返さないと」
「うん」
「逃がしません」
鉄格子からぬっと体を出したファルシアは、水位がどんどん上がる半地下から脱出を図るフィエルとアスカに剣を向けた。その号令に従うように、水がフィエルとアスカの前にそそり立つ壁になって、地上へ進む階段を塞ぐ。
既に牢番の獣人たちはいなくなっている。半地下の空間には、ファルシアとフィエル、そしてアスカだけになっていた。
「ヨータルの住民は傷つけないって約束じゃないの?」
「はい。ですが取引をしたのはリズさまです。ファルは何の取引もしていません。
それに、獣人たちは聖剣を持ったファルに敵わないことを知っていますからね。もうみんな逃げ出しているでしょう」
フィエルとアスカは知る由もないが、ファルシアの言葉通りに、すでにほとんどの獣人たちは砦の近くから姿を消していた。
獣人は他種族よりもかなり動物に近い。言葉を話し、社会に入り込んではいるが、他種族のように自己より他者、社会全体のために命を懸けるような無謀な戦いに身を投じるほど愚かではないのだ。
「……アスカ」アスカに近づき、フィエルがファルシアに聞こえないように囁く。「転移魔法で、アスカを飛ばす。聖剣を回収、してきて」
「フィエルは?」
「あの子、野放しにはできない。ここで時間、稼ぐ」
聖剣がなくとも、フィエルには豊富な魔法知識と、それらをほぼ無制限に行使可能な潤沢な魔力がある。この場に残るなら、アスカより自分が適任。それがフィエルの下した判断である。
「《ARS semita lucis》」
フィエルが転移魔法を唱えると、目の前の水の壁に魔方陣が描かれた。アスカは躊躇なく、その中へと飛び込んでいく。
「待て!」
「《ARS aqua murus》」
ファルシアはアスカの背に流水を放つが、フィエルがすかさず唱えた防御魔法で防ぐ。
「……ファルシア、ちゃん。どうして貴女が、そこまでするの。
貴女はただの、奴隷。イラウンス家に、買われてた。それだけ。どうして貴女が、復讐に加担、するの」
「イラウンス家のみなさまは、ファルの家族になって下さいました。ファルが卑しい獣人の身であっても、お館さまと奥さまはファルにとってはお父さんとお母さんで、リズさまとシンディお嬢さまは、ファルにとっては姉妹のようでした。
それをあんな風に奪われて、恨むなというのですか。獣人には、家族を頂く権利もないというのですか!
家族を喪って悲しむ権利すら、ないとでもいうのですか!」
ファルシアが流水の剣を構えてフィエルに迫る。フィエルの作る水の防御壁は容易く切り裂かれ、次は氷の盾を生み出して切先を躱すが。それも次々砕かれてしまう。
「フィエルさまこそ、なぜ復讐をしないんです!
勇者は仇なのでしょう、親の! だったら、リズさまの嘆きと悲しみが、貴女にも分かるでしょうに!」
「復讐は、何も生まない。ただ悲しみが、広がるだけ。
あなたたちが、復讐を始めたせいで。もう何人も、不幸になってる」
「では、あなたはリズさまに不幸であれと! 家族を殺された恨みを晴らす、ささやかな希望を捨てろというのですか!」
ファルシアの振るう流水の剣の切先が、フィエルの胸を捉える。
あわや心臓を貫くか、と思われた水の刃だったが、咄嗟にフィエルは火魔法をぶつけて水蒸気爆発させ、刃を破壊して防いだ。
広がった蒸気が地下牢の廊下に充満し、視界を塞いだ。
深い霧――――伸ばした自分の手の先すら霞む濃い蒸気の霧の向こうから、フィエルはファルシアの声を聞いた。
「ファルは決めました。少し前までは、ファルがリズさまの心の支えになれればいいと思っておりましたが。今は違います。
ファルはリズさまの剣になります。リズさまの行く手を阻むものは、ファルがこの手で打ち砕く」
ざざざ、とフィエルの膝あたりまで上がっていた水が騒いだ。
溢れていた水が、一点――――ファルシアの声がした方向へと、集まっていく。同時に、すさまじく大きな魔力が集中していくのをフィエルは感じて、思わず冷や汗が出た。
侮っていた。
いくら神代遺物といっても、使うのは獣人。魔法の素養は低く、自然界に溢れる不可視の力を知覚できない獣人が聖剣を通して使える魔法なんて、せいぜい初級の水魔法程度だと。
全く違った。
理由は不明だが、ファルシアは熟練した魔族の魔法使い以上に、水魔法を自在に使いこなしている。それも聖剣の力に頼りきりではない。獣人らしい身体能力の高さを生かした、豪快な太刀筋と変幻自在な水魔法の特性を高度に組み合わせている。
ここまで至るのに、どれだけの研鑽を重ねたのだろうか。フィエルはファルシアの決意が、言葉だけではないと感じた。上辺だけの決意で、獣人の子がここまで至ることはできない。
「……でもね」
しかし。
所詮、ファルシアは獣人である。水魔法を高度に使いこなせるといっても、使えるのは聖剣の力が及ぶ水魔法だけだ。フィエルのように、いくつもの属性を使い分けることはできない。
「《風よ火よ 土よ水よ 世界の理よ》」
フィエルの唱え始めた呪文に、ファルシアは驚いて固まった。
体系化された魔法とは異なる――――それは、ファルシアの主人、赤竜のエリザベスが唱える「竜の詞」に酷似している。
「《整を歪へ、低きを高きへ 散らばりを集まりへ》」
フィエルの周囲に、無数の魔法陣が浮かぶ。霧が吹き飛ばされ、巨大な水球を浮かべたファルシアとフィエルはお互いの策を手にして対峙した。
呪文と図形、すべてが黄金色の特別なものだ。魔法知識に乏しい獣人のファルシアにも分かる。あれは普通じゃない――――ファルシアの尻尾の毛が逆立った。
「《現を夢へ 真を幻想へ 理は我にあり》」
フィエルの魔法陣から放つ波動が、周囲の水に伝わっていく。
水位が下がっていき、水球は砕けた。ファルシアの手から流水の剣が崩れ落ちる。ドラウプニルの制御を外れた水たちが、フィエルの周りを水の壁となって守った。
「世界を、捻じ曲げる魔法。すべては、わたしの思いのまま」
ファルシアは腕を振っている。流水の剣を再び作ろうと聖剣に呼びかけているが、フィエルの魔法が効力を維持している間は、それは不可能だ。諦めたファルシアは己の爪を出してフィエルに向かって構える。
「聖剣の力なんか、なくたって……ッ!」
ファルシアがフィエルに飛び掛かる。フィエルはそれを、後ろへ跳んで避けた。
自身の爪でフィエルに襲い掛かるファルシアを、フィエルはするりするりと避けていく。
普通の魔族なら、強靭な皮膚により獣人の爪程度で傷をつけられることはない。だが、フィエルの皮膚は人間とそう大差なく、ファルシアの爪をまともに受ければ致命傷は避けられない。
「どうして、そこまで……」
「ファルは、リズさまに笑っていて欲しいんです! 勇者に家族を殺されてから、リズさまはずっと、笑って下さいませんでした……あんな日々は、もうイヤです!」
「勇者を殺せばっ!」
咄嗟に頭をガードしたフィエルの左腕に、振り下ろされたファルシアの爪が食い込んだ。フィエルは痛みに一瞬顔を歪め、すぐに歯を食いしばってファルシアの両腕を、両手で捕まえる。
「勇者を殺せば、悲しむ人がいる。あなたたちは、同じことをしようとしてる」
「だったら何ですか! 家族の仇に同じ苦しみを味わわせることの、何がいけないんです!」
「そんなの、どこまでも悲しみが広がる、だけだよ……」
フィエルがエリザベスを追っているのは、七聖剣としての義務でも勇者のことが好きだからでも、まして聖剣を授けられた恩のためでもない。
アスカのためだ。
勇者天路アキラの実妹。兄を敬愛するアスカは、彼が死んでしまえばきっと悲しむ。フィエルはそれを防ぐために、エリザベスを追っているのだ。
フィエルは、ファルシアは自分と同じだと感じた。
フィエルがアスカのために戦うように、ファルシアもまた、エリザベスのために戦っている。それは忠義のためでも、義務でもない。
大好きな人が、大切な人が悲しむ姿が見たくない。ただ、それだけ。
だからこそ、お互いに譲れない。
勇者を殺せば、アスカが悲しむ。
勇者を生かせば、エリザベスは苦しむ。
生かすか殺すか、この物語は全員が幸せに終わることはできない。椅子取りゲームの椅子は1つしかないのに、そこに2人が座ろうとしているのだから。




