#6
ファルが左手をかざすと、空中に静止した水滴は一斉に細く長い針へと姿を変えた。
その先端をグレースに向け、ファルの号令を静かに待つ水の針たち。前後左右に上下、あらゆる方向からグレースを取り囲んだ水の針には、抜け出る隙がない。普通の敵なら、必ず命を奪える攻撃だ。
相手が、普通の敵なら。
「やはりそう来ましたか」
余裕の声色を崩さないグレースがイシュメイルを振るうと。水の針は指揮棒のようなその細剣に惑わされるように、くるりと回ってみな私とファルの方を向いた。
ファルの操る水の針、それをグレースは無理やり自分の支配下に置き直している。
「それほどまでに神代遺物を使いこなす腕前……。
ここで命を奪うには惜しいのですが。味方になって下さらないというのなら、やはりファルさんにはここで死んで頂くしかありません」
天井に向けてイシュメイルを掲げるグレース。一呼吸の間を置いてそれが振り下ろされると、周囲の水の針が一斉にファルと私に向かって飛んできた。
「ファルっ!」
レーヴァテインを抜く。
盾にして水の針を防ぎながら突撃する私の後ろに、ファルは隠れた。赤熱するレーヴァテインに水の針が当たると、たちまち白い蒸気になって私を覆い隠した。
「煙幕など、私には意味がない!」
「……そうね」
翼を広げ、さらに加速する。
グレースは私の意図に予想より早く気が付いた。でも、私の突撃は防げない。
グレースの強みはイシュメイルによる視覚に頼らない攻撃探知と、彼女自身の推察による攻撃予測。その二つを打ち破るものは、予測できようが関係ない、ただの正面からの力押しによる強行突破。私の一番の得意分野だ。
激しくぶつかり合う二つの聖剣の刀身。私はレーヴァテインを振りぬき、イシュメイルごとグレースを弾き飛ばした。
ふっ飛ばされたグレースは、聖女像の台座に背を打ち付けた。「がっ」と肺が潰れる声を漏らし、グレースは床に崩れ落ちる。
「げほっ、げっ……、へっ?」
床に四つん這いになったグレースは、イシュメイルを固く握りしめたまま離さない。私は彼女にゆっくり近づき、苦しさの余りに転がった彼女の右腕に、自分の足を乗せた。
「エリーさん……。加勢は、しないんじゃ……?」
「この船はもう直に沈むわ。遊びの時間はもう終わりよ」
そのまま足に力を込める。ギャァと絶叫するグレースの悲鳴を無視して、私は彼女の右腕の骨を折り砕いた。
取り落されるイシュメイル。私は床に転がるそれにレーヴァテインを突き立て、【響】の聖剣を粉々に打ち砕く。
「あ、ああ、あああ……! 私の、私の聖剣が! アキラさんから頂いた、私の、私の……!」
「……行くわよ、ファル。早く脱出しましょう」
きりきりと泣き叫ぶグレースを置いて、聖女像の側を離れる。
「待てッ!」見えていないはずのグレースが、私の背を向いて叫ぶ。「なぜトドメをささない! なぜ殺さない!」
「貴女に恨みがあるわけじゃないから」
「だったらどうして、聖剣だけ砕いた! あれが、あれがないと私は……!」
「貴女に恨みはないけれど、苦しみながら死んでもらおうと思ってね」
「ひっ」
踵を返して近づく。
聖剣を失い、視界を完全に失ったグレースでも聴覚はまだ残っている。私がどこにいるのか分からなくても、足音だけで十分すぎるほど恐怖を与えられた。
修道服の帽子ごと頭を掴んで持ち上げる。
まるで屠殺を待つ豚のように縮こまって震えるグレースは、がたがた歯を震わせていたけれど涙は流していない。
彼女はもう、涙腺も焼けただれて失われているのかもしれない。
「あれがないと何も見えないんでしょう? 聖剣は、勇者アキラは貴女にとって光だった。希望だった。そうよね?
それを奪われた今、貴女はどんな気持ち?」
「ひっ、へっ、へはっ……」
「そうよね。もうこんな世界で生きていくのはイヤだ。いっそ殺してくれ――――そう思っているでしょう。
あの時の私がそうだった。シンディは私の希望だった。光だった。未来だった……それを奪われたの。私がどれだけ苦しんだか、今の貴女ならもっとよく分かるでしょう?
貴女は簡単に死を選ぶのかしら。死んで楽になる道を選ぶのかしら。それとも、私に恨みを果たすために、光も希望も、未来さえない暗闇の世界で生きることを選ぶのかしら」
「エリー……さん……!」
「ま、貴女に生きる道なんてないけどね。心配しなくても、もうすぐ死神が貴女を迎えに来る。この木偶の坊の棺桶とともに、深い海の底で眠りなさい。グレース・ガレン」
手を離すと、グレースは大理石の床にべたんと顔を打ち付けた。
背を向けてその場を離れる。不安そうな顔でファルが入口で待っていた。「待って」と小さな声で呼び止められたのは、ファルと一緒に礼拝堂を出ようとした瞬間だった。
「エリーさん……もう一つの理由、まだお話していません」
「は?」
「私がこの船にエリーさんをお招きした理由……二つあるって言いましたよね。一つはユズリハさんの最期を聞きたかったから。そしてもう一つはエリーさん、貴女を獣人の国ヨータルの王として迎える交渉がしたかったからなのです」
「興味ないわね」
「……ふふ、そう仰るだろうと思ってました。だから、勝負を挑んだんです。私が勝てば言うことを聞いて下さるかと」
ぐぐぐ、と礼拝堂が傾く。グレースの真横に、崩れた聖女像が倒れ込んだ。
まるで、床に這いつくばったグレースに添い寝するかのように。石で出来た聖女の顔が、グレースを覗き込む。
「ユズリハさぁん……ごめんなさい……」
石像の顔を左手で撫でるグレース。私はそれきり彼女を無視し、その場を離れた。
☆ ★ ☆
甲板に出ると、すでに船員たちは逃げ出した後なのか、すでに人気が完全に無くなっていた。
傾きもより酷くなっている。早く脱出したほうがよさそうだ。私は変身を解いてドラゴンの姿になり、ファルに背に乗るよう促した。
ファルは背に乗る前に、私の前で立ち止まる。眉間を撫でられると、くすぐったかった。
「大丈夫でしょうか」
「何が?」
「あのグレースさまのことです。我々の侵入を拒む方法を、他にも講じているのではないでしょうか」
「その時はその時よ。それに大丈夫。ファル、貴女のことは私が絶対に守ってみせるわ」
「ふふ、ありがとうございます」
ファルは柔らかく笑った。
「しかし、ファルだって守られているばかりではありませんよ?」
「もちろん知っているわ。今までだってたくさん助けてくれたものね」
巨大になった顔をファルに押し付けると、ファルは両腕を広げて私を受け入れてくれた。
竜の鋭敏な感覚質は、ファルの変化を見逃さない。
弱っている。
獣人らしく、大抵のヒューマン族より力も俊敏さも高いままだけど。以前に比べて、ファルの筋肉は衰えている。一体どうして――――頭の中に沸いてきた疑問を、ただ飲み込む。
理由は分かっている。私がファルに無理をさせているから。
いつ追手に命を取られるかも分からない旅。気を張り詰めなければいけない生活がファルを苦しめているのは明確だ。本人に聞けば「大丈夫です」と答えるに決まっているけれど……。
「ファル」
「はい、リズさま」
「新大陸に渡れば、勇者と対峙することになる。そこが私たちの旅の終着点。
勇者との戦いは、お父様お母さま、そしてシンディの仇討ちは一対一で挑むわ。ファルには私の戦いを見守っていて欲しいの」
「……仰せのままに。リズさま」
「すべての戦いが終わったら、獣人の国で暮らしましょう」
「はい」
「誰もいない土地に家を建てて、穏やかに暮らすの」
「はい」
「時々冒険もしたりして」
「その時は、ファルも連れて行ってくださいね」
「……ええ、そうね」
私が顔を離そうとすると、ファルは私の顎に手を回してぐいと顔を近づけた。
「やくそく、です。リズさま。
ファルをいつまでも、リズさまのお側に置いてください」
「ファル。私はいつでも貴女の側にいるわ」
ファルは私の大きな顔を抱き寄せて、その鼻先にキスをする。
私もそれに応じて、ファルの唇が離れるのをただじっと待った。変身を解いていなかったら――――。今ここが沈みかけた船の甲板の上であることを忘れてしまいそうなほど、甘くとろけるキスだった。