#5
竜哮砲の軌跡が消えた瞬間に、私はガーバイスに向かって飛び出した。
進路にベラナの姿はない。死体の確認をしなきゃいけないところだけど、今はまずファルを探しに行くほうが大事だ。
ファルはあんなことで死ぬような子じゃない。
気配はまだある。聖剣が二つ、極めて近い所にある気配。ファルはまだグレースと戦っている。
黒焦げになったガーバイスの横腹に降り立つ。
竜哮砲で開いた穴は私の背丈の五倍か六倍ほどもあり、穴の側には乗員らしき獣人たちが右往左往、ある者は入り込んでくる水を搔き出そうとし、またある者はそれを制止している。前に見た時より衣服は上等なものに変わっていたけれど、相変わらず皆、鉄製の頑丈な首輪だけは変わっていなかった。
「ひッ……!」
私を見つけた獣人のひとりが、顔を引きつらせる。
警備兵だろうか、腰には貧相な刀が差さっている。それを抜き放った数人が私に切っ先を向け、負傷した仲間を背にして守った。
「……『聖女さま』は、アンタは敵じゃないって言ってたのに! ウソじゃないか!」
「『聖女さま』?」
聖女とは。もしかしてグレースのことだろうか。
「そうね、私は敵じゃない。貴方たちがそうして刀を抜いてくるから、私も抜いた。ただそれだけよ」
向けられた刀の切っ先は、ぷるぷる震えていた。
元はただの獣人奴隷だったのに違いない。腕力が他種族よりあるから、技術がなくてもそれなりに戦えるんだろうけど。あの様子じゃ戦場に立つにはあまりに未熟。
強敵を前に手が震えるほど動揺しているようでは、敵の首は取れない。
「道を空けて頂戴。私は怪我人にトドメを刺しにきたわけじゃないの。
もうじき沈むこの船から、私の大切なものを救いに来ただけよ」
「沈……む。この船、が?」
獣人たちも私の言葉を反芻して、お互いに視線を交わし、状況を理解したらしい。
今は目の前の赤竜を討ち取ろうと刀を抜いている場合じゃない。怪我人を連れて、沈み行くガーバイスから脱出することが最優先だと。
にじり、にじりと下がった獣人たちは道を空け、私はその間を通り抜けた。
背中を向けても飛びかかってくる者はいない。今は、仲間を助けるので精一杯のようだ。
聖剣の気配を頼りにガーバイス船内を彷徨いた私がファルの元にたどり着いたころには、すでに船は無視できないくらいに傾いていた。
歩くのには支障がない。けれど、ただの揺れではない傾きに、誰でも船が沈む未来は避けられないように思われたはずだ。
ファルとグレースはまだ礼拝堂にいた。
私が扉を蹴破ると、二人とも私の出現に眉ひとつ動かさず、方やレイピア、方や流水の剣を握って睨みあっている。
「ファル。加勢はいるかしら」
「いいえ。リズさまがご覧になっている、それだけでファルにとっては百人力です」
ファルが仕掛ける。
突き出す流水の剣、その剣捌きはユズリハの直伝だ。彼女ほどの速度や華麗さはないけれど、獣人らしい力強さがある。
さらに、ドラウプニルの能力で作られた流水の剣は、その刀身の長さも自由自在だ。つまり、体三つ分ほど離れた、グレースのイシュメイルの届かない位置からファルは一方的にグレースを攻撃している。
しかし、対するグレースも負けてはいない。
レイピアを自在に振るい、ファルの攻撃を的確にいなしている。心を読めるのかと錯覚してしまうほど、その太刀筋は正確無比だ。接近することをせず、ただ防御に徹している――――それが今の状況の原因だ。
グレースはイシュメイルを振るっているが、ファルに攻撃する様子が全くない。だから、二人とも最初の位置からほとんど動いていない。
「エリーさんが先にここに来た、ということは。負けたのですね、ベラナは」
「ええ。私の竜哮砲から船を守ろうとして、ね」
「そうですか」
ベラナはグレースのことを「ママ」と呼んでいた。きっとグレースは彼女なりの愛情をベラナに注いでいたのに違いない。それなら、ベラナが負けたとでも言えば動揺して守りが崩れるかと思っていたけど。
私の話にも、グレースは眉一つ動かさなかった。
それどころか、いつもつけている覆面――――【響】の聖剣「イシュメイル」を外していることで露になっている、火傷痕で醜く歪んだ表情は、口角がつり上がってむしろ笑っているかのようにも見える。
「私はベラナに強く言い聞かせていました。きっとエリーさんは私を人質にしてくると。だからそのときは――――そのときは『絶対に逃げなさい』と。
獣人の聖剣使い。ベラナはヨータルを守る要なんです。それを、私なんかを守るために命を懸けてはいけない子なんです。
そのベラナが……そうですか。自分の意思で、私を守るために。あの子は、聖剣使いにしては少々優しすぎたようですね」
ファルの流水の剣が、その刀身をくにゃりと曲げる。鎌首をもたげた蛇のように素早く空中を這い、グレースの首筋に食らいつこうと迫る。
しかしグレースは、それを軽く護拳部分で弾いた。
「すみません。こんな時、私の目が開いていればよかったのですが……。そうしたら、ベラナの優しさを、勇気を、悼む涙も流れたのでしょうけど」
いまだ壇上にいるグレースは頭上の女神像を見上げて表情を緩ませた。
いや、グレースは目が見えないはずだ。彼女に女神像を見ることは出来ないから、顔を向けただけだ。それにグレースの顔はひどい焼け爛れと縫い痕でぐちゃぐちゃになっている。彼女が本当に笑っているのか、それとも何らかの別の表情をしているのが笑顔に見えるだけなのか。私には分からない。
「ファルシアさん。私は貴女に同情しているんです」
「同情?」
「はい。私はかつてウェラニウスの麓の村にいました。イラウンス家は代々、一族の子に人間の子を『玩具』として与える習わしがあった。
私はそれに選ばれ、そして私をイラウンス家に渡したくない父からこんな顔にされました。私を連れていくのを諦めたイラウンス家がどうしたのか……。何となく想像がつきます。
イラウンス家は人間の代わりに、すぐに手に入る獣人奴隷の子を『玩具』にすることにした。それが貴女です、ファルシアさん」
「……だったら何です」
「貴女と私は似ているんです、ファルシアさん。少しでも運命の歯車が噛み合わせを変えたら……。貴女の位置には、私がいたかもしれません。
そんな私たちが戦う道理がどこにありますか? 貴女と私はオモテとウラ、違った運命を辿った姉妹のようなものです。
どうです、ファルシアさん。私と一緒にヨータルへ来ませんか?」
「お断りします」
ファルはきっぱりと答えた。
「グレースさまとファルは姉妹ではございません。ファルの家族はリズさまただ一人、他の皆さまは、勇者が殺してしまいました。
お館さま、奥さま……お二人は、ファルに大変良くしてくださいました。そのお二人を、勇者はあの聖剣で斬り殺したのです。ファルの目の前で。
今のファルの願いはリズさまと共にあります。あの聖剣の勇者、その首を討ち取る。グレースさま、あなたに恨みはございませんが、もしリズさまの行く手を阻むというのなら――――
この不肖ファルシア・ファーヴニル、貴女の御命、頂戴いたします」
跳び上がるファルシア。空中で流水の剣を振るうと、その軌跡が細く長い軌跡になってファルの周囲を漂い始めた。
水を自在に操るファルの聖剣、ドラウプニル。しなる鞭のように伸びた流水の剣は、それを操るファルの意のままに動く。空中に描かれた流水の軌跡、そのすべてが刀身だ。竜の目を持つ私にも、その太刀筋は完全には読めない。
しかしそれでもまだグレースには届かない。
正確に攻撃を察知するグレースは、最小限の動きで流水の剣の一撃を避け、切っ先を弾いて反らす。
ファルが着地したのはグレースの間合いの中だった。
素早く、大きく流水の剣を振るうファル。それを弾きながら、グレースも突きを繰り出しファルを攻撃している。流水の剣がイシュメイルに弾かれるたびに、纏っていた水滴が散らばって、無数の水滴がファルとグレースの周りを取り囲み始めた。
「ファルシアさん。あなたの考えていることは分かりますよ。
水を操る聖剣、その力を使ってこの周囲の水で全方位から私を攻撃するおつもりなのでしょう?」
グレースの発言に、ファルの動きが一瞬止まった。
その隙を見逃さず突き出されるイシュメイル。喉を狙ったその一閃をファルは寸でのところで避けられたけれど、首筋には真赤い傷が入った。
後ろ跳びに、グレースから距離をとるファル。耳をぱたぱたさせて、目論見を読まれて動揺しているのが分かる。
「こうお考えなのでしょう。『いくらあの修道女がこっちの太刀筋が読めても、防げるのは剣一本で守れる範囲だけ。全方位からの同時攻撃なら防げるはずがない』と」
グレースの周囲を覆う水滴。空中に固定された大小さまざまなそれは、まるでグレースを取り囲う水の牢獄だ。
ファルはもう檻の外へ逃れている。ファルの合図一つで、あの水滴たちは無数の針へと姿を変えて、グレースを突き刺すだろう。それが分かっていながら、グレースはなぜ余裕を崩さないのか。
「さっきのは冗談です。ファルシアさん、あなたを説得することなど不可能だと私は知っていました。
あなたとの戦闘をわざと長引かせていた理由は、とても単純な理由です。エリーさんと1対1で戦えば、ベラナは絶対に負ける。ベラナに勝ったエリーさんは必ずここに来る――――そう読んでいたからです。
ご主人様に褒められたいファルシアさんは、必ず私と1対1で決着を付けることを望み、現れたエリーさんの前で大技を決めて私を殺そうとするはず。つまり、ここまですべて、私の計算通りです。ありがとうございます、ファルシアさん」
ファルがにじりと後ずさる。
グレースは底が知れない不気味な女だ。こっちの意図を読み抜いてくるのに、こっちはグレースが何を考えているのか分からない。笑顔以外の表情が分からないというのもあるけれど、何より口にする言葉もどこまで本心でどこからが偽りなのか分からないんだ。
周囲の状況を正確に使用者に伝える【響】の力、それを持つ覆面状の聖剣――――他人の心をむき出しにし、なおかつ自分の心は覆い隠す。そういう彼女の気質が現れたのが、あのイシュメイルであるということか。
「さあ、どうしますかファルシアさん。
策が読まれていると分かっていても危険に飛び込むか、それとも一旦仕切り直して、私を出し抜ける別の策が降って湧くのに賭けてみますか?」
顔の前に刀身を立て、指でそれをなぞるグレース。イシュメイルがキィンと震えると、グレースを囲っていた水滴の檻が一瞬、きらりと瞬いた。
ファルが迷っているのが後ろ姿からでも手に取るようにわかった。
グレースは何かを企んでいる。このまま手筈通りの攻撃を仕掛ければ、彼女の手のひらの上で踊らされるようなものだ。せめて、何をしようとしているのかが分かれば――――そんなところだろう。
「ファル」
ファルが私に振り向いた。
「やりなさい、ファル。あなたの思う通りに」
「でも、リズさま」
「あの時のお返しを、今日は私がやってあげるから」
「あの時……。わかりました!」
ファルの握った拳に、決意が漲るのが分かる。
私も組んでいた腕を解いて、レーヴァテインに手をかけた。