#3
小屋の壁には穴が開いていて、外の音が染み入ってくる。
スルヴェート城に着いて初めての夜、私は外から聞こえる微かな声、いや、歌で目が覚めてしまった。
どんな歌なのか判別はつかない。人の声……何やら、とても穏やかな声であることまでは分かるけれど、誰の声かも分からない。ちゃぷちゃぷと、水音に混じって聞こえる――――
外に出て、歌の出どころに向かって歩いていく。今夜は月も新月で、スルヴェート城の窓から漏れるぽつぽつとした橙色の灯りだけが湖のほとりを照らしていた。
しばらく湖岸を歩くと、湖にせり出すように桟橋が浮いていた。そこには二艘の小さな手漕ぎボートが係留されている。桟橋は使われているらしく整備されているけれど、ボートのほうは放置されているのかボロボロだ。
「~♪」
桟橋に腰を下ろし、水面に足を突っ込んで遊ばせていたのはユズリハだった。
近づいてようやく気付く。穏やかなメロディ、優しく語り掛けるような声。子守歌だった。
とすん。
跳び渡ると、桟橋が揺れた。ちゃぷちゃぷの音がもう一つ加わって、ユズリハは歌を止めてしまった。
「誰ですか」
「私よ」
溶けるように淡い月光の下では、かなり近づかないと顔が分からない。桟橋を渡って近づくと、ユズリハも手が届くほど近くまで来てようやく私に気が付いたようだった。
ユズリハの隣に腰を下ろす。ユズリハに倣って靴を脱いで湖に入れてみると、ひんやりして気持ちがよかった。
「……今日は取り乱したりして、すみませんでした」
「謝ることないじゃない。誰だって気が動転することくらいあるわよ」
「いえ、でも……ううん、やっぱり、話しておかないといけないんだと思うんです」
「何を?」
「わたしがエリーさんを七聖剣に入れたい理由。それから、どうしてアイリスを怖がってるのか」
ユズリハは遊ばせていた足を止めた。
「アイリスとは、アキラさんの魔王討伐の旅の最中で出会いました。雪深い山奥のルシアード魔法学院で、アキラさんが臨時講師をしていた時です。
ルシアードは『魔法学院』と名乗っていますが、実際にはエルフ族のみ、その中でも特に素質のある子しか入学が認められません。何故だと思いますか?」
「エルフはみんな魔法の素養が高いから、とか?」
「違います。ルシアード魔法学院の主な目的は魔法の研究や教育なんかじゃない……エルフ族の、技術の継承にあるからです」
エルフたちは閉鎖的なコミュニティを作って暮らしている。山奥や離島にエルフ族だけの村を作り、そこで生まれた子は一生をその村の中で過ごすことも多いと聞く。故に、冒険者なんてやっているエルフはまだまだ希少な存在だ。
「エルフ族が自らの命よりも大事にしているもの。それは『純粋』、『不変』、そして『明確』。この3つです。エルフの一族に生まれた者は、一族の血を絶やさず、変えず、永遠に護り続ける――――それがエルフという種族なんです。
ルシアードの存在意義も、単にエルフ族が蓄積してきた魔法知識を、将来有望なエルフに伝えるだけのものだったんです。だから他種族は入学を許されない。エルフの知識を、次世代につなげる。これだけが、ルシアード魔法学院がすべきこと」
「……それ、さっきの話と違わない?
天路アキラはそのルシアードで『臨時講師』をしていたんでしょう? エルフの知識を伝える役目を、なんで人間の、それも転移者がやるのよ」
「『転移者』はこっちの世界に来るときに、強大な能力……彼らの言葉を借りるなら『ちいと』とやらを授かるのは知ってますか。だからどの種族も、転移者を自分の陣営に引き込もうと躍起になっているんです。自分の娘を差し出して、血族に加えようとする人までいるくらいですから」
そういえば、ヒューマン族と魔王軍との戦いも主戦力はどちらも転移者だった、なんて話をしていたっけ。
「アキラさんも例外ではありませんでした。ルシアードのエルフ長老たちは、アキラさんを自分たち北方エルフの勢力に引き込もうとしていました。そこで教え子という体で側付きになったのが、アイリスです。
アイリスは魔法の才能にも武術の才能にも優れた純血のエルフでした。もう本当に、わたしなんかまるで歯が立たないくらい……。それまではフレンドリーに接してくれていたアイリスの態度が一変したのは、わたしの出自を彼女が知ってからでした」
「出自?」
「わたしの母は娼婦でした。森に住んでいたところを焼き討ちに遭い、囚われて売られた。なので、わたしは父親がどんな人なのかを知りません。名前も、素性すら。どこかの富豪だったかもしれないし、転移者だったかもしれない。あるいは、ただの浮浪者だったのかも……。分かっていることは、父はヒューマン族だったってことだけ。
最近よくいるハーフエルフの子は、ほとんどが転移者と純血エルフの間に生まれた子たちです。何よりも『純粋』と『不変』を信条にしていたエルフたちは、転移者の血を取り入れることで、種族全体が強くなるという『明確』なメリットのために存在が許されています。
でもわたしは違う。わたしはエルフとヒューマンのハーフだってことが分かっているだけで、何もかもが『不明』な存在――――だから疎まれているんです。もう、殺されそうになるほど」
そう言って、ユズリハは笑った。
新月をバックにしても分かるほど、頬に涙の傷跡を残した顔で。
「わたしは母からも嫌われていましたから。女の子だったから、いつか『商品』になるってことで生かされてただけで。実際、商品としてアキラさんに売られちゃったんですけどね」
「辛かったのね」
「アイリスは最初、わたしの出自を知るなりわたしを殺そうとしました。わたしみたいなハーフエルフは、エルフ族全体の品位を落とす存在だって。アキラさんの前ではずっと猫を被っているので、ルシアードに滞在している間は事なきを得たんですけど」
「……そのアイリスが戻ってきた。しかも、聖剣を握って」
「はい。アイリスはわたしを殺すつもりだって言ってました。そのために七聖剣に入ったんだと。わたしに近づき、抹殺するために」
ユズリハの声が震えている。
「いつかはこうなるって分かってました……アイリスはいつか、アキラさんが預けた『グラムの雫』を聖剣にして現れると。そして、わたしはアイリスには絶対に勝てない。わたしはアイリスに負けて、殺されてしまうだろうって。
だからわたしはずっと、何もできませんでした……誰もが平等で、生まれの差別を受けない世界。そんなものを作りたくても、どうせできない。そんな夢は、叶う前に潰されてしまう。だったら、何も望まないほうがいい。ミストルティンだって、わたしなんかよりもっと、叶えたい願いを叶えられる力を持った人に使ってほしいって」
ユズリハはイフェルスでノネット三姉妹にミストルティンを奪われたとき、「譲ってもいい」と言っていた。ノネット姉妹がそれに値する力を持つなら、と。
聖剣使いが聖剣を手放すことを、あんなにあっさり認めるなんておかしいと思っていた。ユズリハは天路アキラに心酔しているし、そのアキラから貰った聖剣をそう簡単に捨てられるわけがない。
ユズリハが聖剣に執着していない理由――――それは、聖剣を使って自分が何をしたいのか、それを持っていなかったからだ。本当は持っていたけれど、自分にはそんな夢想は叶えられない、叶う前に潰えるに決まっていると考えていたからだ。聖剣を使ってしたいことが何もなければ、それを持つことに意味もないし手放すことも厭わなくなる。
「明日の決闘、負けたくない……でも、もし負けちゃったら。きっとアイリスは不慮の事故を装ってわたしを殺すつもりです。わたしが死ねば、七聖剣にももう一つ空席ができる。エリーさんは、そこへ座ることができる」
「決闘? 明日に?」
「はい。アイリスとわたしで、明日の正午、七聖剣の第一席の座を賭けて決闘することになったんですよ。でもきっと、その後わたしはもういないと思うので、今のうちにエリーさんにお話ししておこうかと」
水面から足を抜いたユズリハが立ち上がる。
「わたし、誰もが差別されることのない、平等な世界を作りたかったんです。でもわたしにはそんなの無理だったから……。それを、エリーさんに託したいんです。
短い間でしたけど、一緒に旅をしてきてエリーさんはわたしの夢を託せる人だと思いました。獣人のファルちゃんにも、ハーフエルフのわたしにも、生まれや血筋に関係なく接してくれますし。
アイリスが七聖剣に残ったら、きっと今の七聖剣とは全然違う組織になってしまう……わたしの次は、きっとグレースを追い出そうとするでしょう。平民出身で目が見えない子なんて、アイリスやセリアは絶対認めないでしょうから。
だからわたしがいなくなった後の七聖剣を、エリーさんに託したいんです」
手を差し出し、握手を求めるユズリハ。私はそれを、右手で打ち払った。
前腕だけを竜化させた、右手で。
「……お断りよ。誰がそんなことするもんですか」
「エリーさん……?」
「この腕に見覚えがあるでしょ」
「赤い……竜の腕ですか? 変身魔法を使ったんですよね」
「あれは嘘よ。これは変身魔法じゃない。変身魔法を解いているの。私はね、ユズリハ。人間じゃないのよ」
しばらく呆然としていたユズリハだけど、何か思い出したのか、半歩私から後ずさった。
「私の名前はエリザベス・イラウンス。ウェラニウス山に棲んでいた、赤竜一族の末裔」
「ウェラニウス……っ!」
「聞き覚えがあるでしょう。勇者天路アキラが討伐した赤竜の一家。その最後の生き残りが私よ。
そして私が貴女に近づいたのは、アキラの妻になるためじゃない。アイツをこの手で、抹殺するためなのよ」