#10
「あが……が。げぇ?」
呆気に取られて後退り、テオドールが椅子にもたれ掛かる。
首の横一文字に切り裂かれた傷口からは夥しく血が流れ出している。自分の手でそれを押さえようとするも、無理だと悟ったテオドールは、頚を斬られた時の驚愕と恐怖の顔を保ったまま、ペンダント――――ガンダルヴァに手を伸ばす。
アルは既に弱り始めていたテオドールの手からガンダルヴァを奪い取った。
「ずっと待っていた。あんたがオレにかけた『支配の轡』を解く瞬間を」
「支配の轡」。
ガンダルヴァが相手を支配する方法は視覚じゃなくて聴覚を介したものだったけど、それでもまだ足りない。
ガンダルヴァの発する微振動を聞くことだけが条件じゃない。そのことはテオドールが自ら語っている。「これだけの人数の獣人を、同時に操ることはできない」――――つまり、ガンダルヴァで支配する相手は何らかの方法で指定でき、その人数には上限があるってこと。
グレースの首から、鎖模様の痣が消えた。あれが「支配の轡」だったのに違いない。思い出してみれば、アルは他の獣人とは違う首輪をしている。きっと、痣を隠すためのものだ。
ファルがテオドールに従わされていたことと、アルが今の今まで反撃しなかったことから考えて、おそらくガンダルヴァで支配できる人数は二人まで。テオドールはグレースを支配するために、アルにかけていた支配を外したのだ。
手にもったナイフでテオドールの心臓を突こうとするアル。だけど、一閃がアルとテオドールの間を走り、アルのナイフを弾き飛ばした。
ユズリハだった。
ミストルティンを突き付け、アルを退けたユズリハは、アルと睨みあったままグレースにテオドールの傷を治すよう命じている。
支配を解かれたグレースはすぐさまテオドールにかけより、治癒魔法をかけて首の傷を塞いだ。
「グレース、どう?」
「出血多量ですし、どうなるか……。でも、一命は取り留めました」
「よかった」
「おいアンタ、何故邪魔をする?」
アルがユズリハを睨み付けている。
「そいつはオレたちを散々利用してきた。オレはずっと……ずっとそいつから、仲間を救う時を夢に見てきたんだ。邪魔しないでくれ」
「北国文字のメモ……」
思い出した。獣人解放戦線とテオドール・トゥルニル。その名が書かれたメモは、北国文字で書かれていた。
そしてアルはその北国出身。あのメモは、アルが残したものだったんだ。アルは獣人解放戦線の内情を知り、テオドールを抹殺するために潜入したけれど、逆にテオドールに洗脳され手駒にされてしまった。そんなところか。
「あなたはこの人を殺すべきじゃない」
「黙れよ。どうしてもそいつを庇うっていうなら、あんたもオレの敵だ」
「世の中はそんな、敵味方で分けられるほど単純じゃありません」
ユズリハは穏やかに語る。
それでも、出で立ちには隙がない。だれも、ユズリハの話を遮る者はなかった。
「わたしは平和を守る七聖剣の第一席として、人間も亜人種も、みんなが平和に暮らせる世の中を作りたいんです。その『みんな』には、みなさん獣人族も含まれていますよ。
みなさんのお気持ちはよく分かります。偽りの夢を眼前にぶら下げられて、いつまでもこの人に搾取され続けてきた。殺したいほど憎いというのも、ただの衝動的な感情ではないのでしょう。
でもそれとこれとは別です。この人の犯した罪は許されないかもしれませんが、許されないということをあなたが自分の判断で下してしまっては、それは殺人と同じです。わたしは殺人を犯したあなたをどこまでも追わなければならなくなる」
「知ったことか。これまでオレは、命じられるままにたくさんの命を奪ってきた……何を殺して何を殺さないか、なぜお前に決める権利がある? それをお前が決めてオレが従っていたら、今までと何も変わらないじゃないか。
これは何者にも支配されない、オレの意思だ。オレの意思がそいつを殺せと言っている」
「ダメです。この人には法の裁きを与えなければ」
「何が『法の裁き』だよ。獣人には裁判を受ける権利すらない。だからオレたちはお前たちニンゲンの考えたルールには縛られない」
「でも……っ!」
「……こういうのはどうです?」
ユズリハとアルの問答に、覆面を被り直したグレースが割って入った。
「ここから東南、山脈を越え海峡を越えたところに新大陸があります。魔王城が海に沈んだ反動で現れた、まだ入植者も少ない土地です。刑罰の代わりに、アキラさんが頂いたその土地を獣人の皆さんに開墾していただくというのは。
無事入植が軌道に乗った暁には、その地を獣人の国として独立することを認めましょう」
グレースの言葉に、アルの放っていた殺気が一瞬揺らいだ。
「馬鹿な。さっき言ってたじゃないか。獣人の国なんて作らせないと」
「それはこの人が首魁だったときの話でしょう。あくまで獣人族のみなさんが自発的に、そして平和的に独立したいというのなら、七聖剣はそれを妨げる理由はありませんよ。
そうですよね、ユズリハさん?」
「え、まあ……うん」ユズリハが生返事を返す。
「とはいえ、みなさんが盗賊団としてリュシーユの村に恐怖を与えた事実も見過ごせません。みなさんはこの地を離れ、新たな土地で禊をするのです。
それが済めば、みなさんは自由です。新たな土地で、真の『獣人の国』をお作りになればいい」
「……オレたちを騙そうとしてないか?」
「私の目を見てください。どうです、これがみなさんを騙そうとする人間の目に見えますか?」
「……」
「…………」
「……」
「……いや、その変な面でお前の目なんて見えないが」
「あら、そうでしたね。うふふ」
何笑ってんだこの女。
「どうしますか。この抵抗もできない奴隷商人を殺してお尋ね者になるか、それとも彼を見逃してこの土地を離れ、新たな世界で平穏に暮らすか」
私の位置からアルの表情は見えない。けれど、背中を見ているだけでも分かる。
迷っている。逡巡している。
アルはテオドールを手にかける日を心待ちにしていたはずだ。獣人たちに「自由」という夢を見せて搾取していた男。今すぐ殺したいほど憎んでいる。
それでも手が止まってしまうのは、もし本当のことを言っているなら、グレースの提案はかなり魅力的だからだ。
ユズリハとアル、両者睨みあっている。抜き身の武器を構え、今にも斬り合いをしそうな緊張感。
先に沈黙を破ったのは、アルのほうだった。
「……わかった、手を引こう」
ナイフを収めるアル。ユズリハもほっと安堵の溜め息をし、ミストルティンを鞘に収めた。
「テオドールは私たちが責任を持って法で裁きます。奴隷売買は法に触れずとも、獣人を扇動して盗賊行為を働いた罪は裁かれるべきです」
「ああ、あんたの言うことを信じてやる。今日だけな。
みんなもそれでいいか?」
雄たけびが上がる。
解放戦線の獣人たちは、みなアルに従っているらしい。テオドールの言葉もあながちウソじゃないのかもしれない。彼らのほとんどは自分の意思でテオドールの命令に従っていた――――おそらく、テオドールではなく彼の傀儡にされていた、アルに従うという形で。
私はファルにかけより、首輪に繋がった鎖を引きちぎった。痣は残っていない。ファルは私に抱きついてきた。
「ファルシア」
近づいてきたアルが、手を伸ばしてきた。
「一応聞いておきたいんだが、オレたちと一緒に来るつもりはないか?」
「アル……」
「お前も獣人だ。獣人の国に入る資格はある」
「でも……」
「ファル、貴女が自分で決めるのよ」
私はファルを立たせ、アルの前に押し出した。
ファルは足元を見ながら、着せられたスカートの裾を掴みながら。言葉を探すように、床の上に目線を泳がせている。
「オレは……お前にも獣人の国に参加して欲しいと思っている。お前も志を同じにする、同志だからだ」
「アル……ごめんなさい」
ファルは大きく頭を下げた。
「ファルは……ファルはやらなきゃいけないことがあるんです。獣人の国とか、アルのことがキライになったわけじゃありません。もっと大事な、大事なことがあるんです。
アルを見ていて思い知らされました。叶えたい夢なら、願いなら、誰かに託すだけじゃダメなんだって……。だからファルはリズさまと行きます。アルたちとは一緒に行けません。ごめんなさい」
「そうか……じゃあ、これは返す」
アルは自分の手首からドラウプニルを外すと、ファルに向かって差し出してきた。
「テオドールを殺すまで借りる約束だったが。お前にはきっと、これが必要なはずだ。お前の叶えたい願いを掴むために」
「はい、ありがとうございます。アル、どうか元気で。アルの作る国が、平和で穏やかなものでありますように」
「ああ、お前も。『家族』と仲良くな」
ファルはドラウプニルを受け取り、アルと抱擁を交わした。
身長差のせいか、アルとファルはなんだか、兄と妹のようにも見える。
☆ ☆ ☆
ファルは自分の意思で、アルにドラウプニルを預けていた。
アルはずっとガンダルヴァの支配を受けていて、テオドールが起きているうちは自由に言葉を発することもできなかった。
テオドールが眠りについた深夜、ファルにあてがわれた寝室(寝室といっても、十数人の獣人で一部屋を使っていたので極めて劣悪な環境だったという)に現れたアルは、ファルにテオドール暗殺の計画を明かし協力を求めた。
「その時、ファルが正体を明かしてしまったのがいけませんでした。ガンダルヴァは支配した相手が知りえたことを、すべて聖剣使いに知らせてしまうのです」
荷馬車の中で、ファルは経緯をいろいろと話してくれた。アルは獣人たちに深く慕われていたこと。ガンダルヴァを使えばアルに自害させることも容易に可能で、彼らはそれを防ぐために仕方なく命令を聞いていたこと。アルは獣人たちにとって、群れのリーダーであると同時に人質でもあった。
獣人解放戦線が実質解散になって、グレースは構成員を引き連れて新大陸へ向かった。彼らを導いた後、またグレースとはスルヴェート城――――天路アキラの居城で再会する約束をして。私たちはリュシーユを発ち、一足先にスルヴェート城へ向かっている。テオドールを繋いだ移動式の簡易牢は、道中の街で裁審官に引き渡す予定だ。
「……ちょっと待って。じゃあテオドールはもしかして、アルが自分を暗殺しようとしていることも知ってたんじゃないの?」
「分かりません。ですが、『支配の轡』がある限り、アルは暗殺を成功させることはできなかったでしょう。その余裕があったのかもしれませんね。
テオドールはガンダルヴァを使って、アルにたびたび、脱走を試みた獣人へ罰を与えさせていました。アルにとって『戦線』の仲間は家族そのもの。それを傷つけるのはさぞ辛かっただろうと思います。
アルはテオドールを極度に恐れていました。いかなる理不尽な命令も、ガンダルヴァがあれば意思に反して実行させることができるのですから」
アルのしていた首輪は、きっと「支配の轡」がまだあるかどうか――――自分がガンダルヴァの支配下にあるかどうかを、見て分からないようにするためのものだ。
テオドールはガンダルヴァで操れる人数が少ないことを知っていた。いつか、アルをガンダルヴァなしで制御する必要が出てくる。そのために彼は神代遺物の呪詛よりももっと強固な、「絶対的恐怖」という鎖で彼を縛ろうとした。
「アルは上手くやれるでしょうか、ユズリハさま」
「さあね。でも、あの村で盗賊をやるよりは、きっといい生活が出来ると思うよ」
ユズリハはテオドールから取り上げ、アルに返されたガンダルヴァを揺らして遊んでいる。
「ちょっと。それ、こっちに向けないでくれる?」
「んー。やっぱりこれ、危ないですよねぇ。いちおう神代遺物なんで、スルヴェートまで持ち帰ろうかなと思ったんですけど。やっぱいいや」
ユズリハはネックレスになっている紐を丸め、ガンダルヴァを空中へ放り投げた。
ミストルティンを抜き、素早く呪文を唱えるユズリハ。空中をただようガンダルヴァを、ミストルティンの放つ風の刃が粉々に破壊した。
「壊すなんて、勿体ないことするのね」
「人を支配する遺物なんて、トラブルの元です。わたしは七聖剣の第一席。アキラさんが望む平穏な世界を作るのが、わたしの今の夢ですから」
私を見て微笑むユズリハ。
言ってやりたかった。
平穏に生きたかったのは、シンディも同じだって。
その夢を、命を奪ったのは、その勇者アキラだよって。
侵害してこない相手には不干渉――――それが守られていたら、シンディは死ぬ必要なんかなかった。綺麗事には反吐が出る。
やっぱり私は、ユズリハとは相容れない関係のようだ。




