おいしい食卓
ここはとある田舎の街。海沿いに下る長い坂の途中に、石ブロックの塀で囲まれた青瓦の屋根の家があった。年季の入ったその台所には最近結婚した夫婦がおり、女の方はカウンター前で俯いていて何かを切っている様子である。男の方はテーブルに伏せって嫁の後姿をじっと見つめながら、結婚するまでの苦労を懐かしく思っていた。
『ジャアアアア』
と音が立つ。女がカレーを作るような深めの鍋で熱した油へと角切りにした野菜を飛び込ませたのだ。その横のコンロにも小さい鍋が置かれ、おいしそうな出汁の香りが湯気とともに緩やかに立っている。
女は瑞々しいトマトの写真が印刷された青い缶詰のプルを慎重に引っ張ったが、その缶の蓋は彼女が思ったよりも簡単に、まるでシールをめくるように外れたのだった。
「見て、あっちゃん。」
そう声を弾ませて女は赤い実のついたその缶詰の蓋を男に見せた。
「指を切らないように、縁が丸く加工されてる。」
女にそう言われると男は、確かにその缶詰の蓋の縁は丸く膨らんでいてつい指を引っ込めたくなるような鋭さがないことに気付いた。
「へえ、今そんなになってるんだ。」
「ね。簡単に取れたし、このアイディアは良いなぁ。」
女は満足して身を翻し、油と共に音を立てる野菜たちを、その鍋の底をしゃもじでこするようにして混ぜた。
『ジャ、ジャ』
やや鼻を刺すような刺激臭のある玉ねぎや、独特の香草のような風味を持つニンジン、そしてほのかに土臭いじゃがいもたちの、野菜らしく控えめで甘い香りが台所に漂った。しかしその香りは食欲をそそるには決め手に欠けていたので、男は廊下へと続くガラス引き戸の方へと顔を向け、早くそれが口へ掻き込みたくなるような香りに変わって嫁と一緒にテーブルに座り自分の空っぽのお腹を満たせる時間が来た時のようすを心に思い描いた。
「あっちゃん、出来たよ。お待たせ。」
体を揺すられて、男は自分がすっかり寝入っていたことにハッと気付いた。まどろみから抜け出そうとあがきながら、男はテーブルに並べられるお皿を見ていた。
名前の分からないおしゃれな葉っぱが深皿からはみ出るサラダには、今日帰る時に立ち寄った専門店で買ったイタリア産の身のしっかりとした生ハムが乗っている。スープの皿には野菜と豚の旨味が絡まり合う濃厚で真っ赤なミネストローネが、大きな平皿にはバターの香り立つヒラメのムニエルにほうれん草が添えられていた。すると
『カシュッ』
という爽快な音共に麦芽の香りが広がり、
『トットットッ』
という音を立てながら、女の手の中で結露を垂らすグラスに沸き立つ黄色い液体が注がれ、こんもりと白い泡の帽子を作っていた。
「おつかれ!」
向かいに座った嫁の、まるで夏の日差しが乱反射しているように輝く笑顔を見ながら男は、結婚をして良かったという思いがつくづく身に染みるのを感じるのであった。