12-03 磯野、お前が「色の薄い世界」に迷い込んだのと同じ現象が起きたんだと思う
もう一つの世界で健在だった父の、榛名への言伝。陽の沈むオレンジの世界のなかで、彼女は――
……わけではなかった。
八月二二日 二二時一八分。
その日の夜は、家族から顔色の悪さを心配されたこともあって、晩飯を食ったあとさっさと横になった。その後、一時間半が過ぎた二二時を少し過ぎたころに目が覚めてしまうと、起きてしまっては仕方がないというわけで、俺とジョンは散歩に出たのだった。
ここ何日かの名犬ジョンの散歩をサボっていたしな。
とは言っても、ジョンの散歩をサボっていた数日間というのは映画研究会の世界でのことだ。もしもう一人の俺がそのあいだ欠かさずにこのジョンと散歩に行っていたのであれば、コイツにとっては変わらぬ散歩の時間が、今日もまた訪れただけのことだろう。
もしそうだとしても、俺にとってみれば八月七日から前回の入れ替わりまでの慌ただしさからやっと解放されたんだ。これから三一日までの九日間をこのオカ研世界で平和に過ごしていくにつけ、その手始めとしてのジョンとののどかな散歩は、平凡な生活に戻っていくであろう一歩目としてちょうどよかった。
規定の散歩コースをジョンとともに歩いていく。
札幌の夏の終わりの夜、一枚着込みたくなるくらいに涼しい心地の中で、ふと思い出す。
そういえば、八月七日の夜の散歩での違和感。
いまにして思えば、あれもまた世界の入れ替わりだったのだ。たしか、こっちでも、三馬さんの話のあとにメモしていたんじゃなかったか?
俺はスマートフォンからメモ帳ををひらく。
そうそう、八月七日二二時三〇分二二秒。
ジョンとの散歩中のこの時間が、いちばん最初の世界の入れ替わりだったんだ。そして、つぎが翌日八日の深夜の二時三三分一七秒。
と、スマートフォンが着信画面へと切り替わる。
ちばちゃんからだ。
「磯野さん! お姉ちゃんが!」
俺は全力で家にむかって駆ける。
散歩の新規ルート開拓だと勘違いしたジョンは、はしゃぎながら俺といっしょに走り込んだ。だが、それが自宅へのショートカットだと気づくと、途端に駄々をこねた。結局、必死の抵抗をするジョンを無理やり家族に押しつけてから、地下鉄真駒内駅へと向かった。
二三時四七分。
地下鉄円山公園駅を降りる。
円山公園内を走っていくと、外灯に照らされた四人が見えた。
ベンチでうずくまる制服姿のちばちゃんと腕を組む柳井さんに千尋、そして、ちばちゃんのとなりに寄り添う怜。
千尋が俺に気がついて手を振る。
ベンチの近くまでたどり着くと、涙で目を腫らしたちばちゃんが顔を上げた。
「……磯野さん」
「遅れてごめん」
ちばちゃんは無言のまま首を振った。
「榛名が消えたっていうのは――」
「ああ、それは俺から説明する。午後十時十分過ぎに、塾帰りのちばちゃんを榛名が迎えに行ったその帰りに、二人でこの円山公園を歩いていたんだが、ちょうど、その辺り――」
柳井さんはベンチから一〇歩程度の歩道を指差した。
「そこで榛名が消えたんだ。俺が思うに、映研世界で磯野、お前が「色の薄い世界」に迷い込んだのと同じ現象が起きたんだと思う」
この世界の榛名も、俺と同じように色の薄い世界に迷い込んだ?
……いや、あり得ることではあるんだ。
そもそも八月七日からの一連の出来事は、映研世界の霧島榛名の消失からはじまっているんだ。榛名の消失が原因となって、彼女の大学ノートによって俺が巻き込まれたってことになる。
だから、もう一つの世界のこの世界のこの榛名だって、なにかしら影響があったはずなんだ。けど、それなら――
「俺のときと同じように、待っていれば――」
「ああ、俺もそう思った。だが、十二日の夜、映研世界で霧島榛名と遭遇したときに磯野が消えていた時間は、たしか――」
……三〇分。
ところが今回は、ちばちゃんから電話がきてから、すでに一時間半が過ぎている。
「あの、俺が最初に色の薄い世界に訪れた八月七日のときの滞在時間、フィボナッチ数列の……四時間二分五五秒後に戻ってくるってことはありませんか?」
「もし戻ってくる可能性があるとしたら、その時間か」
柳井さんはスマートフォンを見て、
「あと二時間半後だろう」
ちばちゃんの横にいる怜が、彼女の手を握って体を引き寄せた。
「ちばちゃん、心配だろうけど一度家に帰ろう? あとはわたしたちがなんとかするから、親御さんも心配しているだろうから、ね?」
怜の言葉に、ちばちゃんは返事を躊躇い、目を伏せた。
「大丈夫だ。俺にとっちゃ世界から消えるなんて、ここ最近の日常茶飯事だったんだ。榛名もすぐに戻ってくるよ」
「……そうですね。磯野さん、お姉ちゃんをよろしくお願いします」
「それじゃあ、わたしはちばちゃんを送ってくるのであとは頼みますね」
「ああ、千代田、ちばちゃんをよろしく」
俺たちは、ちばちゃんと怜に手を振って見送った。
「ねえ、磯野、柳井さん。さっきの話の続きなんですけど、やっぱりマズいと思います」
千尋のその言葉に、俺と柳井さんは同時にうなずいた。
そりゃそうだ。
八月七日に俺の身に起こった色の薄い世界への接触と同じことが起こっているんだとしたら、四時間二分五五秒どころじゃない。
入れ替わり先――映研世界の霧島榛名は、すでに現実世界にはいないんだ。その状態のままこの世界の榛名が並行世界に飛ばされるとしたら、その世界はどこになるというんだ?
柳井さんは地面を見つめながら言う。
「四時間二分五五秒、あと残り二時間半後にちゃんと戻ってくるか、まずは待つとしよう。もし戻ってこなければ、いや、悪いほうに考えすぎるのは良くない……な。三馬には俺から連絡しておく」
柳井さんはスマートフォンを取り出して、しばらく耳に当てた。
「……留守電か。三馬も、例の異常観測があってから、ずっと北大でがんじがらめになっているからな。SNSにいまの状態を送っておく」
二時間半後の、二三日 午前二時二〇分過ぎ。
結局、霧島榛名は帰ってこなかった。
それは、八月七日や十二日のような一時的なものではない、ということだ。
俺と柳井さんと千尋は、その結論に押し黙ってしまう。
柳井さんは、ふと俺を見て顔をしかめた。
「磯野、お前は俺と一緒に駐車場に行こう」
「いえ、俺は大丈夫です」
「ダメだよ磯野。その顔はダメだと思う」
竹内千尋が、俺の目をじっと見て言った。
「竹内、そのあいだまかせた。俺も一時間程度仮眠する。三時あたりに交代しよう」
「了解です。いってらっしゃい」
「磯野、行くぞ」
その言葉に抗えないくらいに体が重いのがわかってしまう。
それがとても悔しかった。
俺自身が巻き込まれてるぶんには、もがくだけもがいていればいい。
だが、ただ待ち続けることが、こんなにも堪えることだとは思ってもみなかった。なにもできずにただ待ち続けることが。
公園を出てから一〇分ほど歩くと、有料駐車場へとたどり着く。
そこに柳井さんの車が駐車してあった。
俺と柳井さんは車に乗り込み、座席を倒した。
「磯野、榛名については明日考えよう。映研世界で起こったことも含めてな。当たり前だが、この状況にはおまえが必要になる。この事態を解決する手掛かりを、三馬も交えてなんとしても突き止める。そのコンディションを整えるために、今夜は気にせずに、覚悟して寝ろ」
柳井さん、そんなこと言われても、気になって眠れやしませんよ。
それに、
「……覚悟しといて気にするなって、なかなか難しいですよ」
「そりゃそうだな」
二人して笑った。
……まったく、はげまされて、助けられてばっかりだ。
車内には俺一人。
昨日の疲れはとてもひどかったらしい。
目が覚めたころには陽はすでに登り、車はいつの間にか霧島宅前まで移動していた。座席もいつの間にか起こされている。
スマートフォンを見ると、八月二三日、午前九時五七分。
柳井さんからSNSが入っていた。
どうやら霧島宅にお邪魔しているらしい。
俺は車を降りて、霧島宅の玄関にむかい呼び鈴を鳴らした。
インターフォンから女性が返事をする。
「あの、柳井がそちらにいると思うんですが……、同じ大学の磯野です」
ドアがひらいて、ちばちゃんが迎えてくれた。
「磯野さん。どうぞ、あがってください」
ちばちゃんの俺を見るその目は、いまだ腫れていた。
霧島家は映研で見たのと同じ家の間取りだった。
ただ、むこうの世界とちがうのは、玄関に水槽が置いてあり、クサガメが二匹、元気に泳いでいる姿が見えたことだ。
廊下を通って居間の前まで来ると、年配の美しい女性が腰を上げた。
「榛名と千葉の母です」
「お邪魔します。磯野です」
「ありがとうございます。……あの子どこに行ってしまったものやら」
この感じだと、親御さんにはどこかに行ったとだけ伝えているらしい。
「大丈夫です。娘さんとは親しくさせてもらってるんで、彼女の行くところはだいたい目星はつきますから」
俺はちばちゃんに案内されて二階へと上がる。
そして突き当たりに「榛名の部屋」と書かれたドアが見えた。
ドアをあけると一〇畳ほどの広い部屋に、柳井さん、千尋、そして怜がいた。
「おはよう」
「あ、おはよう」
「起きたか」
三人それぞれ声をかけてきた。
「すみません。ちょっと寝すぎました」
柳井さんは部屋の勉強机からなにかを拾い上げ、俺に手渡してきた。
それは、大学ノート。
それも雨に濡れて汚れているものではなく、真っさらな表紙だった。
「このノートに目を通したが、いろいろなことがわかった」





