12-02 むこうの世界でさ、会ってきたよ。榛名のお父さんに
このままいけば世界は元通りに戻ると知り安堵した磯野は、眠りへと落ちる。ソファで目覚めると、目のまえに榛名がいて――
俺は二時間近く寝ていたのか。
あの半覚醒状態の浅い眠りで、無理やり金縛りから抜け出そうとしていたんだ。疲れが取れてないのも無理はない。入れ替わった直後よりは余程ましなのだろうが。
ノーリアクションのまま放ったらかしにしていた霧島榛名。
彼女は、絵に描いたような、なんとも味のあるしょんぼり顔をしていた。
俺はお詫びまじりに、ひとつ伸びをしてからこう言った。
「なあ、俺が寝てるあいだに、イタズラ書きなんぞしとらんだろうな」
俺の台詞に、榛名は水を得た魚のように顔をほころばせて、
「隙だらけだったからな。してもよかったんだけどな」
なんだろう。かわいいやつだなこいつは。
思ったとおりのリアクションに、なんだかこっちの顔までゆるみだしそうになる。
テーブルの上に置かれたコカ・コーラのペットボトルボトルをあけて、ひと口飲んだ。ぬるい。
「榛名は相変わらず元気そうだな」
「それはこっちのセリフだ。さっきは本当に顔色ひどかったぞ?」
さっき、ということは、いまの俺の顔はすこしはマシになっているってことか。
「ほかのみんなは?」
「竹内は今日は早めに帰ったぞ。会長と千代田なら、いま九月祭実行委員会に行ってるぞ。ほれ」
そう言って指差すホワイトボードを見ると、焼きそばに丸がつけられて、その下に、八尺様やグレイ型宇宙人(サイン)、座敷わらしなどの都市伝説系妖怪? の名前が書かれていた。
「……おい、今年も焼きそば屋台かよ」
「今年も、とは言うが、わたしと千葉ははじめてだぞ」
榛名はそう言ってふふっと笑う。
「わたしの八尺様姿が見られるぞ。それに学祭の時間が合えば千葉も座敷わらしをするぞ」
……なんだよそれは。
ただの白いワンピース姿の榛名と、ちゃんちゃんこを着たちばちゃんしか思い浮かばんじゃないか。うむ、それはそれで見てみたい気もする。
「てことは、怜がグレイ型宇宙人か?」
ぷっと榛名は吹き出した。
まあ、ちがうわな。
「千代田は絶対やらないだろ。竹内だよ竹内。すごいやりたそうだったからな、あいつ。けど、それはわたしたちが許さんけどな」
「許さんって、どうするんだよ」
「いやあ、竹内はやっぱり女装させてなんぼだろ」
それな! と言いかけた俺だったが、なんとか口に出すのをとどめた。
……すまん千尋。止める言葉でも持ち合わせていればよかったんだが。
「まあ、千代田がやるとするなら猫娘とかでいいんじゃないか?」
うん、もうそれって都市伝説とか関係ないよな。
榛名とちばちゃん、二人のことを意識したところで思い出す。
そう、俺はむこうの世界で「言づて」を言い付かっていたんだ。けど、どう伝えたものだろうか――
「なあ、榛名」
「ん?」
「ひさしぶりに、キャッチボールしようか」
午後五時をまわった空はすっかりオレンジ色に染まり、校舎とグラウンドを照らしていた。そんな中、貸し切り状態のグラウンドで二人、キャッチボールをしている。
榛名とのキャッチボールの思い出は、入れ替わりに最初に気づいた八月八日。あの日を境に突然浮かび上がった、もう一人の俺の記憶。
俺にとっては後付けの記憶である。それでも霧島榛名と共有しているこの空間と時間は、一年間の二人の思い出、というノスタルジーに浸らせてくれた。こっちの世界の俺が社会人となり年老いたとき、この光景は、いま浸っている懐かしさの何倍にもなって、心に響くものになっているのだろう。
そう考えてみると、この世界の俺がすこし羨ましくなった。
榛名は相変わらずいい球を投げてくる。
榛名の球をグローブで受け、それなりに勢いのある球を投げ返してやると、これまた器用にキャッチする。小さいころから、あの父親とこうやってキャッチボールをしていたんだろう。
彼女との時間を共有するなか、ふと思う。
霧島榛名は、人前では平気な顔をする。
けど、本当は――それを周囲に、とくに妹のちばちゃんに悟らせないためにやせ我慢する、そういうやつだ。そんな榛名のことを――
と、考えごとをしているのが悪かったのか、俺の投げた球は榛名の左へとすっぽ抜けた。それでも榛名は、腕を伸ばして上手にキャッチした。
「下手くそー」
「わりい」
榛名は笑ってため息をつく。
「磯野さあ、さっきから考えごとしてるだろ。なんか悩みごとでも……、いまの磯野は悩みごとだらけだったな」
おまえのことを考えてるんだよ。
……とは、口には出せなかった。
「ちょっと休憩」
榛名はそう言うと、グラウンドはしのベンチへと歩きはじめた。
俺もそのあとを追う。
グラウンドに差し込んでいた夕焼けは、そろそろ遠くに見えるビルの陰に隠れそうだった。
「なあ、磯野」
「ん?」
榛名は、足を止めて沈んでいく夕陽を見る。
「あんま無理するなよ。ここ最近、落ち着くことなかっただろう?」
俺のことばかり気を遣いやがってと思ったが、さっきのドッペルゲンガーで、相当に消耗しているらしい。誰が見ても「無理をするな」と言いたくなるような顔を、いま俺はしているのかもしれない。
「たぶんだけど、あともう少ししたらなにも無かったように、本当になにも無かったかのように、普通の、日常に戻ると思うんだ」
え?
突然の榛名の言葉に、俺は動揺してしまう。
「榛名、おまえなにか知っているのか?」
榛名は振り返り笑顔を見せる。
「ううん、ただの勘だよ」
横顔をむけたまま、榛名はそう言う。
「わたしはね、この世界が好きだし、この世界にいるみんなのことも好きだし。だからさ、
――もとに戻ると思うんだ」
その言葉がなにを意味しているのか、俺にはわからない。けれど――
彼女の顔は、とても穏やかで、けど、どこか儚げな、いつか消え去ってしまうかのような、そんな空気を纏っていた。
「榛名」
「ん?」
「むこうの世界でさ、会ってきたよ。榛名のお父さんに」
榛名は俺の言葉に振り向いたあと、うつむく。
「……そう、か」
俺もまた、榛名の足もとに目を落とす。
いまから話すこと。彼女に伝えなければならないこと。それが、彼女を見つめていることを俺に躊躇わせるのだろう。
彼女のサンダルから見える榛名の指と、土の地面に視線を行き来させながら、俺はふたたび、もう一度、口をひらいた。
「それで、お父さんが榛名にって――」
****
八月一七日の午後四時過ぎ。
木々の揺れる霧島家の玄関で、榛名のお父さんは俺を呼び止め、こう伝えてきた。
「もう一つの世界があって、そこに僕の知らない、もう一人の娘がいることがとても不思議でね。けど、その子の話を聞くと、やっぱり、僕の娘なんだなって、そう思ったんだ。
まわりの目を気にするわりに、人に頼るのが下手で、それでいて、僕みたいに、頑固で、一人で抱え込んで。
とてもよくわかるんだ。うん。わかるんだよ。
頑張ってきたんだなって、
二年間。ずっと。
とても、とても悩んで、それでも、そんな素振りも見せないで、いままで僕の代わりをやってくれて。けどね千葉も、お母さんも、榛名のこと、ちゃんと見ていてくれているから。
それもまた、わかるから。
だからね――
ありがとう、榛名。
もう、大丈夫だから」
****
濃い夕陽に照らされたグラウンドに、
しずくが数滴、染み込んでいく。
顔を上げると、
消え入る夕陽の中で、榛名は、
泣いた。
泣いた。
声を上げて。
いままでの、父が亡くなってからの、すべてを。
ずっと、責めつづけていた自分自身から、
やっと、許されたように。
八月の余韻は俺たち二人を包み込み、ゆっくりと暮れていった。
泣くだけ泣いたのか、榛名は、俺に顔をむけてきた。
榛名にどんな顔をしてやればいいのかわからなかった。
けれど、おそらく、俺は、微笑んでいたにちがいない。
ああそうだ。
こいつはやっと、無理をしていないその顔を、俺にむけてくれたのだから。
「情けないすがたをみせた」
鼻をすすり、手の甲で涙をぬぐいながら、どっかの侍のような、おぼつかない口調で榛名はそう言う。
まったくおまえってやつは。
俺は数歩近づき、背中に腕をまわし、胸を貸してやる。
榛名はそのまま俺の胸に顔をうずめた。
榛名の頭を撫でながら、もうすっかり沈んだ夕陽の残光に、俺は目をむけた。
「礒野って、いいやつだな」
榛名は顔をうずめたまま言った。
いまさらなに言いだすんだよ。
「当然だろうが」
榛名は、ゆっくり顔をあげて、真っ赤になった目で俺を見た。そして、もう一度、俺の胸に顔をうずめたあと――
び――――――っ
「おい! シャツで鼻かむんじゃねえよ! きたねえだろ!」
こうして、八月二二日は終わった。





