11-08 こっちだってね、必死になって探してんだよ? それなのに……それなのに!
八月二二日。世界の入れ替わりの当日までドッペルゲンガーを発見出来なかった磯野たちは、あと残り二〇分を切ったところで――
旭山記念公園の第一駐車場に到着した。
G-SHOCKは、すでに一四時三二分を指している。
あと、十二分……!
「磯野、さきに行って!」
「ああ」
俺は助手席のドアを開けたまま、全力で駆け出した。
スマートフォンを耳に添えて、公園入口にある案内看板を見る。
札幌市内を見渡せる展望広場に、そこから下には噴水とそこへいたる途中に、段状テラスと呼ばれる階段状の石椅子が並んでいる。
「千尋! いまどこだ?」
その周囲には森林へ入る遊歩道などがあるが、もしそこまで行かなければならないなら、今の時間じゃ間に合わない。
「高台のすぐ下にある噴水のところ!」
高台ってことは……展望広場で、その下か!
展望広場のほうへ走っていく。
いきなりの全力疾走に俺の呼吸が追いつかない。
高台側の第一駐車場からでも、それなりに距離があるっていうのに。なにペース配分間違ってるんだ、俺は。
俺を取り巻く音が、次第に、おのれの呼吸のみになる。
南中を越えた夏の日差しが俺の体にのしかかる。
肩で息をしながら、坂道を登る。
呼吸が、息が苦しくて、どうしても顎が上がってしまう。
そうして、やっと角を曲がり切った。
展望広場が、視界に入った。
俺は札幌市を一望しながら、握りしめていたスマートフォンを耳にあてた。
「高台についた! 下でいいんだな?」
「うん! 階段を降った噴水のところ! 目の前にいるけど、いるんだけど、ドッペルゲンガーは、もう一人の磯野は、ベンチで頭を抱えたまま動かない」
頭を抱えてる?
なんだよ。そこにいる俺はなにやってんだよ!
もうすぐ世界が切り替わるってのに!
なに心折れてベンチなんかに座ってんだよ!
俺はスマートフォンをつかんだまま階段を走り出す。
わき腹の痛みが増していく。
「……すまん。いま時間は?」
「えっと……あと四分、入れ替わりまで四分!」
階段を降り、噴水のある広場へとたどりついた。
「見えた!」
千尋と、
――俺が、いた。
もう一人の俺は、ベンチで頭を抱えたまま、うつむいていた。
あとは接触すればいいんだよな?
にしたって、なに悠長にしてやがんだ。目の前で腑抜けている俺に一発見舞ってやりたくなった。
「磯野!」
「サンキュー千尋!」
ベンチの真ん前。
俺は、千尋といっしょにドッペルゲンガーを見下ろす。
俺の声に反応したのか、
――ドッペルゲンガーは顔をあげた。
もう一人の俺。
けれど、世界の入れ替わりのときの、あのワームホール空間ですれ違った俺――もう一人のオカ研の俺とは、まるで別人のようだった。
目の前にいる俺は、
ただ、ひたすらに
泣いていた。
その双眸は、ただただ嘆きという感情のみを、俺に向けてくる。
……おい、そんな顔するな。
……なんなんだ。
……なんだって言うんだ。
突然、尋常じゃない寒気が俺を襲った。
俺とドッペルゲンガーを除いた周囲が、ぐにゃりと歪んだ。
いや、不安定なその空間に取り囲まれてしまった、と言ったほうが正しい。逃げ場が無い中、その空間は俺たちに向かってゆっくりと迫ってくる。いやちがう、
――侵食していく。
ドッペルゲンガーの俺も、溶け合うように。
まずい。
まずい、これはまずい。
まずいまずいまずいまずいまずいまずい駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だお願いだやめてくれお願いだ俺を見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな――
――は?
それは瞬く間で、俺は、
――涙を流している。
ベンチにいる俺と対面していたはずの俺は、
ベンチに腰掛けていた。
目の前には、竹内千尋が。
千尋のすぐうしろには、千代田怜が。
つぎの瞬間、大量の感情が俺の中を駆け巡った。
……マズい。俺の頭の、おや、心の……全身すべてが、この感情の濁流に押し流され、許容を超えた感情に、俺の脳は、心は押し潰され――
俺は、いま、
――死にたがっている
俺は頭を抱えてうずくまってしまう。
なんだこの感情は。死を望むその感情が、ひたすらに、ただひたすらに。
つらいつらいつらいつらい……つらい、つらい。つらい。……つらい。
……そうか。ドッペルゲンガー……と接触……するって、
こういうことなのか。
膨大な感情の流入に、身体が追いつかない。
それは、頭を抱えていた俺が
ベンチでうなだれていた俺が
取り込んでしまった
――無限に近い俺の人生の記憶。
心のすべてが、その情報の洪水に、濁流に翻弄されてしまう。
その圧倒的な力に、俺の気力は、生きる力は、押し流されてしまう。
まるでからっぽになってしまったかのように、俺の、すべてを、消しさ去ってしまったかのように、恐ろしいほどの無気力感が、己を支配していく。
次第にそれが、心が渇き、崩れ去ってしまうかのような。だ、めだ。お、、れは、お れ は
頬を衝撃が襲った。
一瞬おくれて聞こえてきた、その破裂音は、
スローモーションのように響いて、
瞬く間に、消えていく。
その衝撃に、俺は、目が覚める。
まるで、一瞬の中の、長い長い夢を見ていたかのように。
囁くような力強さで、彼女の声が、俺の耳もとに届いた。
「……甘ったれないでよ! こっちだってね、必死になって探してんだよ? それなのに……それなのに!」
千代田怜は俺を抱きしめて、強く抱きしめて、涙を俺の首筋に落としていく。
「……それなのに」
俺は、抱きしめ……かえした。
そう、抱きしめ返すことができた。
その力を、彼女が取り戻してくれた。
目のまえで泣き崩れる、
怜のおかげで。
「……ありがとう。本当に、本当に……ありがとう」
止まらぬ涙が、彼女の肩を濡らす。
これはすべてドッペルゲンガーなんだ。
ドッペルゲンガーと遭遇するとは、こういうことなんだ。
いま目の前に千代田怜がいなければ、怜が、いなければ、俺はどうなっていたかわからない。
俺は怜を抱いたまま、気づく。
そうか。このベンチに座るこの俺は、
――ドッペルゲンガー側の世界に、収束されたのか。
泣き顔の、俺の世界に。
収束されたってことは、負の感情に支配された俺は、無数の並行世界にいる俺のなかでも大多数だったってことか。
――無数に重なり合う俺の中でも、一番確率の高い状態の俺、最大公約数の俺に、収束していく。
ドッペルゲンガーとの接触で、こんなことになってしまうのか。
ただただ、怖ろしい。
その恐怖が、二つ目の波となって俺を襲った。
けれど、目の前には、その状況を救ってくれたひとがいる。
いつもそばにいてくれた、彼女に――
「ありがとう。怜。俺は、もう大丈夫だ」
「……磯野」
ずっと抱かれっぱなしだった怜は、目と顔を真っ赤にしながら、俺を見て、
「……なんなの。なんなの本当に。……よくわかんないんだけど」
そう言って、目をそらした。
「ああ、俺にもまったくわからん」
思わず、笑ってしまった。
俺の笑いに怜と千尋はポカンとしていたが、俺の笑いにつられたのか、次第に二人もいっしょに笑い出した。
……まったく、わけがわからねえよ。
そこへ、着信音が響く。
「磯野! いまどこだ! 霧島榛名が!」
――霧島榛名……!
「柳井さん! いま、俺は――」
世界が歪む。
怜や千尋を残して、世界が……。
駄目だ、待て!
待ってくれ!
浮遊感とともに、周囲の景色がパラパラと切り替わり、過ぎ去っていく。けれど、以前よりも遅い。
二つの世界をつなぐワームホール。
間に合わなかった……のか。
ぽっかりと穴が空いたような、そんな感覚を抱えたまま、八月の世界の扉を、俺はいくつもやり過ごしていく。そして、
もう一人の磯野が、
すれ違った。
振り返ると、もう一人のあいつは、
――笑顔で俺に親指を立てて、そう、サムズアップしてやがる。
「……はっはは」
脳天気なその光景に思わず声が出ちまう。
なんなんだよあの幸せそうな笑顔は。まるで馬鹿みたいじゃねえか。
――任せたぞ。もう一人の俺。
そしてプラットホーム。色の薄い世界。
以前と同じく、窓へ向かっての数歩。
「よし」
何度となくきたこの世界に、わざと声を出して俺の声を響かせてやる。そのまま窓に駆け寄り、外の景色を見る。灰色のその世界は――
「旭山公園では、ないのか」
わからない。
どこだここは。いや、札幌とはやはり関係がないのか。
近未来的なビルが建ち並び、景色の横を例の高架が、ゆっくりと下方にカーブを描いて遠方へと消えていく。まるで、この前三馬さんが解説のために描いた、変質していく世界を逆戻りさせていくかのように。その景色の中で、不自然に黒い箇所があることに気づいた。あれは――
「あれは、完全黒体?」
そう、八月七日に見た、あの黒い空間。
――あの場所にいけば、瞬間移動できるんだよな。
そう頭でつぶやいたが、実際のところはわからない。
それでも、あの瞬間移動で、霧島榛名のいる海岸へ行けるんじゃないかと思いつく。
三馬さんの言ったとおり、確実にこの世界の滞在時間が増えているんだ。それなら――
俺は階段に向かって歩きはじめる。そのとき――
目の前に竹内千尋と柳井さんがあらわれた。
――そうか。
「あれ? 磯野、入れ替わったかい?」
ストップウォッチを持つ千尋が俺を見つめる。
「あ、変わってるな」
カチッという音が二つ鳴った。
「入れ替わったと思うんだが。磯野、大丈夫か?」
柳井さんが心配そうな顔をむけてくる。
一四時四四分。俺は、時間どおりにオカ研世界に戻ってきた、らしい。
11.二つの世界の螺旋カノン END





