01-07 だからなに寝ぼけてるの、馬鹿なの
無人・無音の色の薄い世界。磯野が着いた大学南門の先は真っ黒に覆われていた。その先に見知らぬグラウンドが突然現れ――
俺はおそるおそる改札口を通ってみるが、反応は無かった。
その先には、左右それぞれにエスカレーターと階段があった。ためしに手近なエスカレーターに足を踏み入れてみたが動かなかった。
仕方なく階段を上るとプラットホームになっていて、左右それぞれに列車が入ってくる線路のようなスペースがあった。
奇妙なことに、プラットホームと線路のような空間の境界を、筒状の透明なガラスのようなもので遮断していて、降車口となるそれぞれの箇所に列車のドアとフィットするような扉が備えつけられていた。モノレールかと思ったが、この筒状のガラスで覆われた空間は明らかに別物だ。
列車は来るんだろうか。
チューブのガラス越しに線路をのぞき込みながら途方に暮れていると、微かに空気が動いたような気がした。
――うしろ?
振りかえるともう一方のホームに、新幹線だろうか、白く靴べらのような曲面状の車両がそこにあった。車両のドアはすでにひらいている。
この世界へ来てはじめて自立して動いているものとの遭遇。
誰かいるのか?
だが、その人物が俺に害意を抱いていないとも限らない。
それでも――
俺は車両まで近づいたが、窓の中に乗客は見当たらない。
ホームを走りひとつひとつ窓をのぞき込んでいく。
先頭の車両までたどり着いたとき、閉まる扉の向こうに人影が見えたような気がした。
――髪が長い。あれは、
「女?」
「磯野!」
目の前に、千代田怜の顔があった。
「え?」
「え? じゃないよ。なに寝てるの」
呆れ顔の千代田怜のうしろに、柳井さんと竹内千尋の姿を見とめた。
「ほら鞄だよ」
竹内千尋が俺の鞄を差し出してきた。
なんでおまえらこんなところにいるんだ?
いや、ちがう。俺が、
「……帰ってこれたのか?」
「だからなに寝ぼけてるの、馬鹿なの」
俺はいま、見慣れた木製のベンチに腰かけていることに気づいた。
映研の面子が取り囲みながら俺を見ている。
次第に頭がハッキリしてきた。
俺はこのベンチで寝ていたのか?
あれからずっと?
だがそれより重要なことに気づいた。
映研メンバーたちの後ろからオレンジの光が差し込んでいる。
そう、色がある。真横にある自販機のゴオンという稼動音も。
「ここは……現実なのか!」
俺は立ち上がりガッツポーズをした。
「は?」
「え、どうしたの……磯野」
「寝ぼけてるのか? たしかに具合が悪そうだったが」
三人は、それぞれ気の毒そうな目で俺を見た。
「あ、いや、話せば長くなるんですが」
なにか弁明をしようと頭を巡らせてみたのだが、さっきまでのとんでもない出来事をどう言葉にすればいいのかわからない。どう考えてみても、たった一言しか浮かばなかった。
そして、その言葉を千代田怜がさきに口にする。
「だから寝ぼけてただけじゃないの?」
ああ、そうだよ。そうだよな。寝ぼけてただけだよ。だがな、滅茶苦茶怖かったんだぞ。なんの因果であんな悪夢を見せられたんだか。
あれ? そういえば、
「女子高生たちはどうしたんですか?」
「とりあえず、体験入部ってことで今日のところはお帰りいただいた」
「え? 入部させちゃうんですか?」
「まあな。長居するようなら考えるが夏休みが終わるころには飽きてこなくなるだろ」
「そんなもんですかね」
「とりあえず俺らは帰るぞ」
「あ、はい」
なんというか安堵はしたけれども、目覚めてみれば、結局、ただの夢だったという事実。
まったくの拍子抜けだ。
いわゆる夢オチなわけだが、実際体験してみるとホント萎えるなこれ。いや、さっさと目覚めて欲しかったくらいの長い夢だったのだから、目覚めてよかったといえばよかったのだが。
ただ、いまだにこの夢の一部始終を、ハッキリと覚えているのはなんとも気持ちが悪い。
ところで長い夢といえば、俺はどれくらい寝てたんだ?
……ってあれ? 一四時? こんな夕方でそれはないだろう。G-SHOCKが止まってや――いや、動いてる。この時計、ズレてるのか? スマホはどうだ? こっちもだ。ズレてやがる。
「なあ怜、いま何時だ?」
「え? 一八時半になるけど」
「なんか時計もスマホも四時間くらいズレてるみたいだ」
「磯野の頭もズレてるもんね」
「あ?」
「けどそんなことあるの?」
そう言いながら、千代田怜は手もとのスマホの待受画面をのぞき込んできた。
近い近い。こいつはもう少し可愛げがあれば、いまの仕草にこっちも少しはドキリとさせられたんだろうが、あいにく俺の本能は無反応のままだった。いや、どうだろう。
そんなことより、もうすぐ一四時三〇分を指すこの時間は、たしかベンチに座ったときの時間だよな。てことは、四時間もここで寝てたってことか。
やっぱり、先週の疲れが残っていたんだろうか。
こうして四〇分の時間をかけて自転車を漕ぎ、一九時半には帰宅した。
夜になっても暑さが引かないにもかかわらず、食卓のテーブルには雑菌が元気に繁殖をはじめているであろう作り置きのカレー鍋があった。
親はどこにいるのかって? プロ野球の観戦。
我が家の名犬ジョンを散歩に連れて行くのは朝と晩の二回だったが、晩の当番はこの十年間俺の役目だった。
もともとこの雑種をせがったのは俺だし、俺がすべての世話をするべきなのだが、義務教育及び高等教育に晒された環境の中では、朝の散歩の実行は非常に困難な任務であったため、夜に限ってその責務を全うしていたのであった。高校時代は塾通いなどで夜も九時を過ぎなければ自由が利かない状況に陥ったため、散歩に連れていくのは自然と夜の十時過ぎとなりいまに至る。
今夜も俺とジョンは規定のコースを三十分ほどかけて歩いていたのであるが、ちょうど散歩コースも半ばを過ぎたあたりで妙な違和感。
「この道、さっき通らなかったか?」
問いかけてみるも、ジョンは俺の顔を見て首をかしげたあと、なにごともなかったように歩きだした。うーむ、単なる気のせいなのかもしれない。夕方の変な夢に比べれば、違和感の一つや二つどうってことないんだが。
まさか、さっきの夢の影響で、タイムスリップみたいに時間が巻き戻された、なんてことは無いよな?
ためしにG-SHOCKを見てみる。八月七日二二時三一分。
なんの異常も無いな。
いや、異常なことが、起こった。
俺は散歩のあと、午前一時ごろに布団に入り、幸い夢も見ずに深い眠りについていた。
あの時間は布団の中にいる、そういう時間の、
……はずだった。
「は?」
――なんで俺は、コンビニ袋をさげたまま、横断歩道にいるんだ?