11-05 磯野君、君は二つの世界の螺旋カノンを、今も渡り歩いているのだろう
磯野たちは、大学ノートに文字が勝手に書きこまれる超常現象を目撃する。そこには、クラトゥ・バラダ・ニクトと書かれ、
世界が静止する?
次から次へとわけのわからない物騒な単語が、三馬さんの口から飛び出してくる。
「まず、世界の危機について話すとしよう。という私も、このメッセージが送られてくるまで、いまから話すこの仮説が時間の矢の概念にそぐわないため、現実的ではないと考えていたんだがね。しかし、このメッセージがいまのタイミングで送られてくるってことは、未来の我われや科学者たちが、これまで私が述べてきたものも含めて、いまから話す仮説が正しいと言っているのだろう」
「三馬、世界の危機の前に、いまこの最後のページに未来からメッセージを書き込まれたとしたら、それこそ親殺しのパラドックスになってしまうだろう。すでに大学ノートの最後のページが埋められたとして、その未来まで時間が経ったら、そのときはもうなにも書き込めなくなってしまう。明らかに矛盾だ」
「ああ、そうだとも。私にもさっぱり解らんのだよ。だが、おそらく未来の我われ、主に世界の学者たちが、何らかの形で過去にこのメッセージを送る方法を見つけ出したとしたら、我われのいまの疑問に対する答えも、彼らは見つけ出しているのかもしれない」
三馬さんはそこまで言うと一人唸った。
「……もしくは、だが、八月一二日に初めて大学ノートに文字を書き込んだ時点で、Z軸にある無数の並行世界のどれかひとつが、とてつもない効率でこの世界の謎を解き明かし、世界中の学者たちを味方につけて、未来ではなく一七日のいま現在からこのメッセージを送ってきているという可能性もあるだろうが」
「三馬、つまりそれは八月一二日夜から一七日までの五日間に、いわゆるタイムアタックのようなTAS並の最短時間で、世界の危機と世界の学者たちを味方につけた並行世界があるってことか?」
「可能性はあるが……、現実的には未来からのメッセージの方がしっくりくるだろうね」
三馬さんはもう一度俺たちを見回す。
「では、世界の危機について少し解説をしたあと、我々が取るべき行動について話すとしよう」
八月一八日 一四時三四分。
映画研究会の部室には、二学期の始業式が終わって訪れた制服姿のちばちゃんと青葉綾乃を含めた映画研究会メンバー全員と、なぜか女子高生の匂いを嗅ぎつけてきた、となりの演劇研究会部員の今川が、ホワイトボード前にいる三馬さんのこれまでの解説を聞いていた。
「八月七日一〇時二一分の異常観測――我々の言うところの特異点Ⅰの件で、大学と関連機関はてんやわんやでね。本当はその報告者であり当事者の私が大学にいなければいけないし、異常観測をもとに世界の危機を伝えていかなければならないのだが……。まずその前に、君たちに話をしておかねばならないことがあっていまここにいる。緊急事態だからね、しょうがないね。まあ、西田君という優秀な院生にすべてを押しつけてきたから、多分大丈夫だろう」
三馬さんはそこまで言うと、ひたすら通知音の鳴りつづけるスマートフォンをポケットから取り出して、電源を切った。
なにも言えねえ……。
三馬さんと竹内千尋をのぞいた、俺たち全員がその行為に唖然とするなか、そんなことなどお構いなしに三馬さんはつづける。
「さて、磯野君に柳井、竹内君にとっては昨日のおさらいとなるが、世界の危機について解説しよう」
三馬さんはホワイトボードにXY軸を書き、X軸の上に、右へ進むたびに上へとカーブしていく曲線を描いた。
「このように、世界の変質化によって、この映研世界とオカ研世界は本来の直線の時間軸から離れて、曲線を描いていると思われる。そして、カーブが次第に急になっていくことで実際の時間の進みをさらに遅くさせていくのが分かるだろう」
三馬さんは俺にペンをむける。
「磯野君、君はこれまでの入れ替わりの中で、何度も二つの世界を渡り歩いてきた。君の歩む二つの世界は、往来を繰り返すたびに、もといた世界とは少しずつずれた並行世界へと移動して行ったんだ。君の八月七日は、我々にとっての八月七日とは違う世界なのだろう」
「あの、つまり、前の映研世界とは別の、並行世界の映研世界に俺はいるっていうことですか?」
「ああ。だが、心配しなくて大丈夫だ。我々もまた日々の生活の中、無数にある選択肢を選び、その先の並行世界を渡り歩いているのだから。磯野君の歩みは、ゆっくりと調を変化させていきながら、まるで二つの世界を無限に上昇して行く――螺旋カノンのようにね。そう、磯野君、君は二つの世界の螺旋カノンを、今も渡り歩いているのだろう」
三馬さんはそう満足げに言うと笑顔を見せた。
「まあ、バッハのあの曲は、短調がひたすら変化していく暗ーい曲だけどね」
三馬さんのその言葉に、青葉彩乃が苦笑いを浮かべた。
ちばちゃんもその曲を知っているのだろう、珍しくゆっくりとうなずく。そして、今川もまた腕を組んで静かにうなずいた。
ああ、こいつはわかってなさそうだな。まあ、俺もだが。
「だが、磯野君が渡り歩いていたはずのこの世界の時間までもがカーブを描きはじめてしまった。つまりこのまま世界の変質化が進んで、この図のように上へとカーブし続ければ――」
そうか。二つの世界の時間がまっすぐに進まず、上にカーブしていけば、そのうち時間は――
「……止まるのか」
「その通り」
三馬さんの描く変質化した世界の曲線の先が、まっすぐと上へ延びていく。
「指数関数的に時間の矢から逸れ、上へとカーブして行った先に、この世界とオカ研世界の時間は止まる。ほぼ止まっている、が正しい表現になるな。ただし、時間が遡行する――過去に戻る――ことは無いがね。ブラックホールに落ち込むようなもの、と言えばしっくりくるだろうか。我われにとっては自覚が無いままに、世界の静止をむかえることになるから、恐怖は感じなくて済むだろう」
先ほどうなずいていたちばちゃんと青葉綾乃と今川は、ポカンとした表情を浮かべた。
千代田怜は難しい顔をしながら、ホワイトボードを見つめている。
竹内千尋が目を輝かせて手をあげた。
「はい、竹内君」
「あの、昨日はピンと来なかったんですが、世界が止まった状態って……もしかして「色の薄い世界」になるってことですか?」
「ご名答! まさにその通りだ。君は本当に勘がいいな」
色の薄い世界に、この世界が?
ちばちゃんと青葉綾乃は竹内千尋に拍手した。
それにつられて拍手に加わる今川。
頭をかいて照れる千尋。
「おそらく、色の薄い世界――静止した世界は、世界の墓場と見て良いのだろう。なぜなら、未来の我々と科学者たちはそれを阻止したいからだ。そうなると『時空のおっさん』というのは、いわゆる墓守のようなものだろうか」





