11-03 磯野君は光速の約99.735664……% まあ、ほぼ光速で移動していることがわかった
特異点Ⅱから過去と未来両方に向けて広がっていく波紋円。その波紋円の内側が世界の変質化範囲だとわかり、
「よし、つぎはお待ちかねの二つの世界の関係についてだ」
三馬さんは、ホワイトボードの図を消し、横線をそれぞれあいだを空けて二つ引いた。
「これも解りやすくするためにXY平面で扱おう。下の横軸Xとなる直線が我々のいる入れ替わり元の世界、上が入れ替わり先の世界だ。ただし、向こうの世界――オカ研世界から入れ替わる際は、オカ研世界がX軸を取ることになる。みんなにとっては、タイムラインとか世界線と言ったほうがしっくりくるかな。この二つの世界線に、入れ替わり時間となる縦線を一つ引く」
三馬さんは、二つの世界の横線を貫く縦線を引いた。
X軸である映研世界線との交点に「入れ替わり時間」と書く。そして、ゼロ点を中心とする「入れ替わり時間」点までを半径とした、二つの横線を通る円を一つ描いた。
「先ほども描いた、異質な世界の影響範囲である、波紋円だ」
三馬さんは、映研世界の横線であるX軸と「入れ替わり時間」点と交わる円周を、X軸の上に平行して引いてある、オカ研世界の横線の交点までなぞった。
「「入れ替わり時間」点からオカ研世界の横線の交点までの円周、つまり弧だな、これを見て磯野君どう思う?」
「もしかして、俺が入れ替わりのときに見た、たくさんの夏の景色が見えた、あの空間……ですか?」
三馬さんはうなずいた。
「我々の世界の波紋円の交点から波紋円の弧を滑るように進み、オカ研世界へと移動したのだろう。これが昨日、磯野君が1秒45という短い時間のあいだに通った、二つの並行世界をつなぐワームホールのようなものだ。磯野君の体感時間は20秒だったらしいが。実際どんなものか解らないが、五次元バルク空間のようなものなのだろうか」
「五次元バルク空間?」
「膜宇宙論の中に出てくるものだ。その理論では、この宇宙は薄い膜のように存在する。その膜宇宙とほかの膜宇宙とのあいだにある、隙間のような空間のことを、バルクと呼んでいる」
柳井さんの解説に、三馬さんはうなずいて話をつづける。
「この弧は、入れ替わり時間から少し過去に戻っているだろう?」
三馬さんは、オカ研世界の横線と波紋円の弧の交点と、その交点から入れ替わり時間の縦線の交点のあいだにできた、隙間を指差した。
この隙間……そうか、この時間が――
「色の薄い世界の滞在時間になるのか」
「その通り。オカ研世界へたどり着いたときに出来る移動前との時間の差、これを埋めるために「色の薄い世界の滞在時間」が得られている、そう考えた」
「三馬、ひとつ気になるんだが、オカ研世界側では第二特異点、八月七日の一八時二七分二七秒には、磯野は色の薄い世界に行ってないそうなんだ。それならオカ研世界側からは、波紋円は発生しないんじゃないか?」
あ、そういえば。
映研側のこの俺が色の薄い世界に迷い込んだことで、「もう一人の俺」とオカ研世界を巻き込んだ、と。
「ああ、そのことか」
三馬さんは、それは「当然の疑問だな」とつぶやく。
「礒野君の入れ替わり元となる世界線はかならずX軸をとるんだ。だから、もう片方の世界線を相対的に離れたものとして扱うことになる」
「……それって」
「磯野がいる世界が映研世界なら、この図は映研世界をX軸とするが、オカ研世界にいるなら、X軸はオカ研世界となるってことだ。相対的っていうのはそういうことだよな? 三馬」
「ああ、その通りだよ、柳井。ゼロ点から広がる波紋円も映研世界とオカ研世界で二つあると思いがちだが、実際は一つしかない。つまり、とても奇妙なことなのだが、
――映研世界とオカ研世界は、世界に差異があれ、重なり合っている状態であり、
――波紋円も、二つの世界からそれぞれ発生しているにも関わらず、一つしかない
ということだ。オカ研側の色の薄い世界に訪れたかどうかは関係なく、オカ研世界側でも同じ時間に波紋円が発生していることになる」
「なんとも……量子力学の世界の不思議な現象を説明されている気分になってしまうな」
柳井さんはそう言って、かぶりを振った。
「あの三馬さん、俺が体感した20秒とストップウォッチの1秒45という時間差はいったいなんなんですか?」
「磯野君は、二つの世界を有り得ないくらいの高速で移動したのだと思う。その五次元バルク空間のようなものが、我々と同じような物理定数に基づく世界だとして、相対性理論を用いて計算すると――」
三馬さんは、ポケットに入れていたコピー用紙を広げる。
「磯野君は光速の約99.735664……% まあ、ほぼ光速で移動していることが解った」
「ええと……それってどれくらいの――」
「そこが空気中だとしたら、磯野君が分子と衝突して核融合が起こるな」
これ、笑うとこなの?
「まあ、生身で移動しているわけでもなさそうだし、そもそもその異空間は真空なのだろう。その空間での磯野君はホログラムにでもなっているのだろうか。それを世間では魂と言うのかもしれんがね。ともかく仮に光速で1.5秒とすれば約45万km進むわけだから、38kmである地球から月までの距離は軽く越えているだろうな。ただ天文学的にみればとても短い距離だが」
……なんだよ、俺は二秒足らずでアポロ計画の三分の二をこなしたのかよ。いやちょっと足りないか。ちょっとどころじゃないが。
ん? けどそれって――
「だとしたら、俺が現実世界から消える理由って――」
「それは見当もつかないな。ただ、生身のまま光速を移動しているとは考えづらい。ひとつ考えられるとすれば、その五次元バルク空間での磯野君は、なにかに変換されているのかもしれない。情報体と言えばよいのだろうか。色の薄い世界も、その世界のものはすべて止まっていることを考えると、礒野君自身も実体化しているかも疑わしくなるのだが。いや――」
三馬さんは、そこでうつむいた。
「どうだろう……有り得るのだろうか。……もしかしたらだが、生身でも影響を受けない特殊な空間、である可能性も……うーん、言っといてなんだが、その五次元バルク空間自体が特殊どころではないのだが」
三馬さんはそこまで言うと「解らないことを深く考えることはよそう」と手を振った。
「話を戻そう。先ほども言った通り、波紋円の弧をたどると少し過去に移動しているだろう。そう、磯野君は入れ替わり時に波紋の弧を通って、
――過去へタイムトラベルをしていることになる」





