１１－０２ 我われが認識も干渉することも出来ない並行世界にまでわたって波紋円を描く
現実世界も世界規模で大災害規模の電磁気ノイズが観測されていた。三馬は世界五分前仮説を挙げ現状を解説する。
三馬さんはペンを拾い上げ、ホワイトボードに横線を引いた。その横線の右端にｔと書く。
「この横軸ｔはタイム、つまり我われの時間をあらわしている。時間の矢というやつだ。右にいけば未来、左にいけば過去だ」
三馬さんは横軸ｔの中心からやや左に縦線を引き、横軸ｔとの交点に、
特異点Ⅰ ８月７日 １０時２１分３７秒 と書いた。
「この特異点Ⅰから、磯野君が霧島榛名さんの大学ノートに接触するまでは、新たな世界は正常に機能していた。ところが――」
三馬さんは特異点Ⅰのすぐ右に、８月７日 １４時２４分３２秒と書いた。
「この時点で、磯野君は眩暈とともに色の薄い世界へと誘われた。消失した霧島榛名さんが巻き込まれたのと同種の、世界を歪ませる分岐に入り込んでしまったわけだな。そしていま現在、すでに分岐した世界にいるので、霧島榛名さんの大学ノートを手にしても磯野君に眩暈は起こらなかった。
――磯野君の感じた眩暈は、八月七日に歪んだ世界へ入り込んだ際に生じたものだろう」
そうか、あの眩暈は……十二日の、霧島榛名との接触で起こったのと同じように眩暈などではなく、世界が文字通り、歪んだ、のか。
「さらにもう一つの特異点が登場する。我々にとってはすでに身近となった、フィボナッチ数列の起点となった時間
――特異点Ⅱ ８月７日 １８時２７分２７秒。
磯野君が色の薄い世界からはじめて帰還した時間点だ。存在しないはずの霧島榛名さんの大学ノートという異物の影響で、これ以降、映研世界とオカ研世界は、互いに絡み合うことになる」
三馬さんは横軸ｔのちょうど真ん中に縦線を引き、上端にＩｍと書く。
「君らにとって馴染み深いＹ軸となるはずの縦軸Ｉｍは、複素平面における虚軸。まさにイマジナリー、空想上の領域をあらわす。この場合は、本来、我われが訪れることのできない虚数世界、並行世界にあたる」
縦軸Ｉｍと、横軸ｔとの交点に、
０と、特異点Ⅱ ８月７日 １８時２７分２７秒 と書いた。
「この時間次元は、本来はＺ軸も存在する複素三次元空間だ。Ｚ軸に相当するのは、我々にとってお馴染みの、磯野君の大学ノートによるインフレーションによって無数に増え続ける映研側の並行世界。そう、Ｚ軸に離散的に並べられたそれぞれの磯野君の世界が、お互いを干渉していた」
「離散的？」
「あー……とびとびになっているってことだ。１、２、３みたいに整数として並んで、そのあいだを０．1などの小数で埋められない、みたいな状態だな」
と、柳井さんが補足した。
三馬さんは、二つ並んだ大学ノートうち俺のノートを指差す。
「このＺ軸の世界のインフレーションは、ドッペルゲンガーの現出という、観測による一人の磯野君への収束となるはずの状態を逸脱してまで増え続けている――」
三馬さんは手を止めて振り返り、
「……のだが、いまは解りやすくするためこのＺ軸は省略する。まずはこの横軸と縦軸のみの複素平面を「時間平面」と呼ぼう。なんだかＳＦじみてきただろう？」
そう言って笑った。
「このゼロ点は、特異点Ⅱ――八月七日 １８時２７分２７秒。磯野君がはじめて色の薄い世界から戻ってきた時間、すなわち二つの世界の交差の起点となる特異点だ。このゼロ点から４時間０２分５５秒を単位としたフィボナッチ数列が展開され、数列の値ごとに二つの世界は交差する」
三馬さんは横軸ｔの右側に次第に間隔をあけながら点を打ち込んでいく。
「ここからが肝心でね。物理学における時間というのは、現実世界とは違って、過去から未来へ流れるのと同様に、未来から過去へ流れたとしてもなんの問題もなく成立してしまうんだよ。だからね――」
ゼロ点を中心にした円を、フィボナッチ数列の時間点に交差するようにいくつも描いていく。
「まるで水滴が落ちたあとの波紋みたいですね」
千尋がそう言うと、三馬さんは「そのとおり」と言って、竹内千尋を指差した。
「この円はゼロ点から広がる波紋としてイメージしてほしい。それが、実軸である時間ｔのプラスとマイナス――未来にも過去にも向かい、Ｙ軸である虚軸Ｉｍ、我われが認識も干渉することも出来ない並行世界にまでわたって波紋円を描く。広がっていく波紋円の範囲に連続的に影響を与えていくんだ。まるで時空を越えていく重力のようにね」
未来が過去に影響を与えている……。
いままで色々な不思議な話を聞いてきたが、それにしたってあまりにも直感から離れすぎてよくわからない。
「先ほども言った通り、物理学における時間は、未来から過去に向かっても進む。従ってゼロ点以前、八月七日１０時２１分３７秒以前の世界にも影響が与えられているとすればきれいな波紋円を描くことになり、この水滴が落ちて広がるような波紋円もまた、フィボナッチ数列で描かれる典型的な例の一つとなる。未来が過去に影響を与えるこの話を、量子論だと逆因果というが、まあいい。時が未来に進めば進むほど、過去に対しても影響範囲を広げていく。特異点、八月七日の１８時から現在一七日の１９時だな。ここまでの時間……ちょうど十日か。つまり、過去へ向けても同様に十日間、八月七日から十日前の七月二八日の２３時までが、今現在、この世界の歪みに巻き込まれていると推測できる」
「あの、その波紋円の範囲外はまだ正常な時間軸……というか歴史になっている、ってことですか？」
「その通り。歴史という言葉が出てきたからつけ加えるが、世界五分前仮説をもとに乱暴な言い方をすると、波紋の内と外で人類が持つ歴史と記憶が違う、とも言い換えられる」
時間が進めば進むほど、未来も過去も、この変質した世界に塗り替えられてしまうっていうのか。
