11-01 世界五分前仮説が、現実に起こってしまうという皮肉だよ
磯野は、持ち帰った霧島榛名のノートに目を通す。そこには、磯野と同様、二つの世界を行き来する榛名の記録が綴られていた。
八月十七日 十八時三七分。
「それにしても思いきったことを考えるね。ドッペルゲンガーとの接触方法か」
三馬さんが部室に着くなり、ひと言。
ただ、なぜか満足したような笑みを浮かべた。それがなにを意味するのか気にはなったが、まずは俺の意図を伝えなければならない。
「これがちばちゃんの大学ノート……いや、いまとなっては霧島榛名の大学ノートですね。目を通してみてください」
三馬さんは、鞄を床に置きパイプ椅子を出して座りながら、俺からノートを受け取った。三馬さんは、部室にいる柳井さんと竹内千尋のそれぞれの顔を見たあと、霧島榛名の大学ノートに目を通しはじめた。
「これは水の滲みだね」
三馬さんは大学ノートをゆっくりとめくっていく。
途中、ノートの何か所かを目を凝らして見つめた。最後のページにたどり着くと、三馬さんはボソリと言った。
「これは……八月七日の一〇時か。なるほどな」
「ええ。一〇時二一分。昨日報告したとおり、むこうの三馬さんが特異点とおっしゃっていた日時です」
三馬さんは納得したようにうなずいた。
「ああ。こちらでも確認した。いま現在、世界一九カ国の地磁気観測所で大災害規模の電磁気の乱れを同時刻に観測していたことが明らかになった。こちらの世界でも同様、計器に一瞬あらわれただけで、実際には電磁気の乱れはまったく見つからなかったんだ。ところが、この世界同時観測は私の問い合わせが発端となって現在大騒ぎになっている。これが外に漏れれば、ポールシフトなどで騒いでいたオカルト方面の連中が、アセンションなどと言って食いついてくるだろうね」
三馬さんはそう言って舌を出してみせた。
「この特異点――特異点Ⅰとしよう――の正確な時間は、八月七日一〇時二一分三七秒。
――この時間以前と以後で、我々の世界が変化した。
同時刻にこの現実世界――映研世界から霧島榛名さんの存在が消失した、とみるのが妥当だと思う。特異点をはさんで世界が切り替わった瞬間、降っていたはずの雨が、晴天へと変化した。いや、こちらも切り替わったと言った方が正しいだろう。切り替わる前と後で、それぞれの世界の天候が違ったんだろうな」
三馬さんは榛名の大学ノートの雨に濡れて滲んだのであろうページを開いてかかげた。
「世界五分前仮説が、現実に起こってしまうという皮肉だよ。懐疑主義の哲学的命題が、そのまま現実に起こったなどと知ったら、バートランド・ラッセルはあの世でどんな顔をするんだろうな」
「世界五分前仮説ってなんです? なんとなく聞いたことはあるんですが」
柳井さんが口をひらく。
「人々が過去について語ろうとしたとき、記憶の中でしか語れない。つまり、我々の言う過去とは記憶の中にしかなく、現実に過去があると誰も証明することはできない。たとえば五分前に世界が造られたと誰かが言ったとしても、皆が記憶違いをしているのなら、それを否定することは誰も出来ないんだ。ならば人類の持つ記憶、知識とはいったいなんなのか? という問いに行き着くという話だ。しかしこの世界が、八月七日の午前十時二一分に創られたとしたら、まったく意味が変わってくるがな」
三馬さんはうなずく。
「話を戻そう。なぜ世界が切り替わってしまったのか? 磯野君の見たという未来人? はたまた宇宙人なのか。いや、
――この世界そのものが、霧島榛名さんの入れ替わりやドッペルゲンガーによる世界の歪み、変質化を正すために、彼女のいない世界に創り替えた。
いわゆる自然界における世界規模の自浄作用がはたらいた、というのが有力だと私は思う」
「それってつまり、ドッペルゲンガーによる世界の変質化を止めるために、世界が、その原因となる霧島榛名の存在を消した?」
「そういうことだろうね」
「てことは、いま起こっている俺のドッペルゲンガーの発生も、世界による正常な世界に造り替えようという力がはたらいて、
――世界が、俺を消しにかかる?」
三馬さんはうなずいた。
「三馬、それなら八月七日の時点で、その霧島榛名のいない世界として正常化されたわけだから、それで終わりだったんじゃないのか?」
柳井さんの指摘に、三馬さんは大きくうなずきながら答える。
「そうだとも。世界は正常化されたんだ。少なくとももう一つの世界――オカルト研究会の世界は、まったく問題無い世界として創り替えられただろう。ところが、この現実世界――映研世界では一つ問題を残してしまった」
ああ、そうか。
「……霧島榛名の大学ノート」
「そのとおり。この世界には、霧島榛名さんの大学ノートが存在したままになってしまった。この大学ノートが消えてしまわなかったために、ふたたび世界の変質化が起こってしまったのだろう」
大学ノートの接触から、俺の身に起こったさまざまな出来事。
そう、最初からあの大学ノートが原因だと何度も疑ったじゃないか。それなら――
「八月七日に、霧島千葉の鞄にあった、その大学ノートを見たことで俺が眩暈を起こしたのは――」
三馬さんは、答える。
「その接触が、正常化された世界に新たな歪みを生み、映研世界とオカ研世界――二つの世界を結ぶ二つ目の特異点となった」
「部室でちばちゃんの大学ノートを見たときの眩暈、あれが……二つの世界を結ぶ二つ目の特異点」
三馬さんは、鞄から俺の大学ノートを取り出してパラパラとめくり「やはりなにも書かれていないか」と、わざと気を落とす仕草をして笑った。
そのまま大学ノートをテーブルに置いて俺たちに見せたが、開いていた最後のページは白紙のままだった。霧島榛名の大学ノートも最後のページを開いて、二つのノートを並べた。
「こうすることで、そのうち二つのノートが互いに影響し合ったりすればよいのだが」
三馬さんは、ホワイトボードまで移動した。
パソコン席の竹内千尋は、回転椅子の背もたれはそのままに、身体だけをホワイトボードに向けなおし、柳井さんもまた窓際からベンチソファへと移った。
「さて、ここからの話はいままで起こったことをもとに私が立てた仮説となる。解りやすく説明するために単純なガウス平面――いわゆるXY平面を扱うが、すべて解らなくとも問題はないので安心してくれ」





