10-08 私と遭遇した。たくさんの私。だから、もう消えてしまう
実在しない長女のノート。それは世界を入れ替わる二人の榛名によるものだった。榛名の父は磯野に向こうの世界の姉妹へ言伝をたのむ。
「それにしても、なんとも不思議なものだなあ」
柳井さんはボソリと言う。
「ちばちゃんの名前、あのチハから取っていたのか」
その言葉で、がんじがらめになっていた思考が、ふっと抜けていくのを感じた。
あの姉妹は、父親からメッセージを送ってくることくらいわかっていたのかもしれない。
榛名もちばちゃんも、本当は最初から、そう、俺が二つの世界を行き来するようになってから、父親の彼女たちへの言葉を期待していたのかもしれない。
「ええ。ちばちゃんの名前の件は、オカ研世界で知りました。あのときは俺も呆れていましたが、榛名が、亡くなったお父さんの生前の趣味を追っていたとわかると、いろいろと納得がいきました」
「名前の付け方はともかく、いいお父さんだったな」
俺は、柳井さんのネーミングセンスを思い出しながら「たぶん、柳井さんと趣味も気も合うと思います」と、答えた。
部室に戻ったのは、午後五時。
パソコンに向かい、映画の編集作業を進めていた竹内千尋が出迎えた。
「おかえりなさーい」
「怜はバイトか」
「うん。さっき帰ったよー。磯野、どう? なにか手掛かりはつかめた?」
「無事、ちばちゃんの大学ノートを借りられたぞ」
おお、と竹内千尋は喜びのリアクションで返したが、気持ちはやはり映画にむいているらしく、パソコン机へと戻っていった。
俺と柳井さんは、それぞれベンチソファに腰掛けた。
鞄の中からちばちゃんの大学ノートを取り出して、ページをめくる。
「こいつを読んで、少しでも手掛かりになりそうな箇所を探してみます」
「それじゃあ俺は三馬に報告しとく」
霧島宅では、落ち着いて読むことのできなかったちばちゃんの大学ノート。
――やっと、調べられるんだ。
ノートの書き出しは、俺の場合と同じく身に起こったことの箇条書きだった。が、表紙に近いこともあって、そのほとんどが滲んでしまって読めない。ただ、最初に書き込まれた月が、七月の二桁の日付であることだけはわかった。
つまり、霧島榛名にとっての超常現象は、八月七日から二、三週間ほどまえに起こったということ。
そこから数ページ進むと、表紙から遠ざかるにしたがって、次第に読める箇所が増えていった。
書かれている内容は、映研世界とオカ研世界の入れ替わりについて。
入れ替わりや、そのほかの超常現象にたいする戸惑い。
映研世界の榛名は、リハビリセンターからの帰りに、大学へ訪れ映画研究会に探りを入れようとしていたみたいだ。
一方、オカ研世界では、二つの記憶に対する困惑と、オカ研榛名としての振る舞い、父親が亡くなっていることなど、さまざまな感情に振り回されて、かなり参っているようだった。
そして、文字の浮かび上がり現象。
――私の中にあるもう一人の記憶が、余計に私を混乱させる。もしもう一人の私が、お父さんを失っている私が、いまこの瞬間、この世界でお父さんに会っているとしたら――
なんとも言葉にできない。
オカ研側の榛名からしてみれば、映研世界での入れ替わりで、父との再会を果たすことになる。いや、もうすでに果たしているのか。
「色の薄い世界」に関する記述は、いまのところ見当たらない。もしかしたら、滲んで読むことのできない、最初の数ページに書かれていたのかもしれない。
読み進めていくと、立て続けに起こる超常現象と、重なり合うほかの榛名と情報共有するために、冷静さを保ちながら、いままで起こったことを書き記している箇所を見つけた。
――会長さんはヨモツヘグイと言っていたけれど、やっぱりそれが原因なんだろうか――
ヨモツヘグイ? 黄泉竈食ひか。日本神話において、あの世――黄泉の国に迷い込んでその世界のものを口にすると、この世には二度と戻って来れなくなる、という話だったはずだ。
文字の滲みがひどくなっていく。
しかし、これ以降は水に濡れた感じの滲み方ではない。俺の場合とおなじように、重なり合った無数の榛名が書き込んだことによって起こった、なぞられた文字の滲みだ。
ページの後半にかかると、また水に濡れた箇所が多くなり、ほぼ読める箇所が無くなってしまった。最後の方は、オカ研世界で目の当たりにしたのと同じく、ページ全体が真っ黒になっている。昨日目撃したとはいえ、見ていて気分のいいものではない。
ただ、最後のページだけ、書き殴ったような書き込みがあった。
――私と遭遇した。たくさんの私。だから、もう消えてしまう。だから、■■くんを遠ざけなきゃ、じゃないと、巻き込んでしまう――
名前の部分が潰れてしまっている。
ただ、この文字の潰れ方は、おそらく俺だ。
――たくさんの私。もう消えてしまう――
これはドッペルゲンガーについてのことだろう。
最後のページの書き込みは、いつ書かれたものなんだ?
手前の数ページは真っ黒に塗り潰されている。けれど、最後のページはちがう。向こうの世界で三馬さんが示唆したとおり、無数の書き込みで塗り潰されるのを怖れて、最後のページでブレーキをかけたのだろう。
三馬さん?
――この時点で三馬さんは介在していた?
最後のページが比較的読める箇所が多いのは、三馬さんが関わっていたのか……。となると、この最後のページへの書き込みは、何者かの意思ということになるのだろうか。けれど、内容自体は、霧島榛名が書いたもののように見える。
わずかに判別できそうな日付は八月。そこまでは読めた。だが、肝心の何日かは滲んでいてよくわからない。いや、これは――
「七日か?」
柳井さんが驚きながら、最後のページをのぞき込む。
「……ですね。そのしたに、……漢字の十」
そうか、この時間は――
――八月七日、午前十時二一分。
フラッシュバックが起こる。
その日の、G-SHOCKがさすデジタル表示が、脳裏をかすめた。
換気扇の回転音。
窓から差し込む夏の日差し。
湯気の、白で満たされたバスルーム。
そのとき、俺が、なにをしていたかを、いまさらながら思い起こさせた。
そう。俺はシャワーを浴びていた。
あのとき、妙な感覚に襲われたんだ。あれは、とてもわずかな時間の、そう、一瞬の違和感。
まるで、何年もまえの夢の記憶を、いまさら思い出す感覚。
そのきっかけが、この最後のページに書かれた日時だった。
――なぜ泣いているんだろう
あの過呼吸に陥ったような感覚。
一瞬前まで雨だったかのような、その雨の中を全力で走っていたような――
追っていた?
霧島榛名を?
このノートの濡れたような滲みは、
――八月七日の雨?
実際は、晴天だった八月七日。
けれど、このノートと俺の束の間の記憶から描かれるのは、雨の中の八月七日。
消えてしまった霧島榛名が知っているであろう八月七日は、
――雨の世界。
だとしたら、雨の八月七日は、榛名と共に消えてしまった世界なのかもしれない。
そうか。
いままで避けてきたが……ちがうんだ。
霧島榛名を見つけ出すには、
――ドッペルゲンガーと遭遇しなきゃいけないんだ。
「磯野!」
柳井さんが、俺の肩を揺らしていた。
「大丈夫か? 三馬からおまえに電話だ」
俺は柳井さんのスマートフォンを受け取り、耳もとに添える。
「もしもし。磯野君か。おつかれだったね。実はこのあとそちらで解ったことを話しに行きたい。そう――
――この世界についての話をしよう」
三馬さんのその言葉に、俺は電話越しにうなずいてしまう。
「ありがとうございます」
そのあとひと息おいてから、
「俺からも一つお知恵をお借りしたいんです」
「いいとも。言ってみたまえ」
「ドッペルゲンガーとの、接触方法についてです」
10.ドッペルゲンガー END





