10-05 世界の変質化が起こってしまった場合、この世界で決着をつけるデッドラインは――
現実世界に戻ってきた磯野は、一三日以降、霧島千葉の大学ノートへの進展がないことを聞きいら立つ
ちばちゃんの大学ノートが問題の焦点なのに、十三日以降なんの進展が無いだと? こっちの俺はなにやってたんだよ!
「ちばちゃんからなにか連絡はないんですか?」
柳井さんは首を横に振る。
「青葉には連絡がきているようだ。磯野の方にもSNSに青葉からの報告が届いているはずだが」
俺はスマホを取り出しSNSを確認する。
たしかに青葉綾乃からちばちゃんに関する報告が入っているが、内容を読むにどうやら煮え切らないらしい。
大学ノートの内容は、ちばちゃんだけでなく、霧島家の家庭問題になっているようだ。それがどんな問題かも気になる。それでも家庭問題に対してこちらから催促するのは御門違いなのだろう。けれど、
「ドッペルゲンガーだって発生してるのに!」
「磯野、焦る気持ちはわかるが、こっちの世界でドッペルゲンガーの発生を確認したのはついさっきなんだ」
「柳井さん、さらに問題があるんです。タイムリミットが発生する可能性があります」
「タイムリミット?」
「向こうの三馬さんが言うには、ドッペルゲンガーとの通信を含めた接触は、世界を変質させてしまうらしいんです。映研世界とオカ研世界の二つの世界の距離が大きく離れてしまうと。下手をしたら、次にオカ研世界に切り替わったらこの世界に帰ってこれなくなる可能性があるらしいんです」
俺の言葉に、柳井さんと千尋に緊張が走った。
「さっきのSNSでの、映研グループへの磯野の所在連絡は悪手になっているってことか」
そうか。こっちでも同じ対応はしていたのか。
「三馬さんによれば、ドッペルゲンガーがその通知を見る前に消えていれば大丈夫らしいんですが」
「……祈るしかないってことか。そうなるとドッペルゲンガーとの遭遇回避を対策するにもできることはないぞ」
柳井さんは「三馬に相談してみる」と言ってスマホを取り出してタップした。
「……ああ、三馬か? いきなり電話してすまんな。磯野の入れ替わりは無事時間通りに行われた。ああ。竹内のほうから報告がいくからそれを読んでほしい。それとは別の話なんだが――」
しばらくの電話のあと、柳井さんは難しい顔をしながら説明した。
「誰かといっしょにいる状況に常に身を置くこと、それと、なるべくふだん通りの行動パターンで一日を過ごすこと、この二点を守るようにとのことだ」
「誰かといっしょに、ですか?」
「ああ。磯野が誰かに見られ続けることで、この世界における磯野の存在位置の確率が上がり、その位置への収束をうながすことになる。もう一つは、磯野が確率の高い位置に居つづけることで、相対的にほかの確率の低い位置にいる磯野のドッペルゲンガーの現出を減衰させる、ということらしい。ただし、この二つも仮説にもとづく対策に過ぎないものだから過信はできない、ということだ」
過信はできない、か。だけど、
「対策できるだけ安心ですよ。明日も昼あたりに部室に来ればいいってことですよね」
「そうだな。こっちの三馬も言っていたが、明日にでも新たに大学ノートの用意をしておいたほうがいいだろう」
もう一冊の大学ノートを手に入れて、文字の浮かび上がり現象を発生させて世界の分岐を作ることで、俺と世界の集約状態を分離させる。
向こうの三馬さんがさっき言っていた対策とおなじだった。
「こっちでは、大学ノートはどうなってます?」
「一三日に三馬に渡したままになっている」
「実はですね――」
俺はオカ研世界での一筆書き状態であるという解析結果と、その後の、文字の浮かび上がり現象が、塗り潰し状態であったことを伝えた。
「そこまでわかっているのか。さすがに二日分のアドバンテージはでかいな」
柳井さんは苦笑いを浮かべた。
「次の入れ替わり日時であるタイムリミットについて確認しておこう。もし万が一、世界の変質化が起こってしまった場合、この世界で決着をつけるデッドラインは――」
「出せます。次の入れ替わりは、ええと……」
千尋は、マウスを操作しパソコン画面をのぞき込んだ。
「八月二二日一四時四四分〇七秒ですね」
「あと六日後か。そのあいだに、ちばちゃんをなんとかしないとな……」
なんともならないなら、青葉綾乃から自宅の住所を聞き出して、霧島家へ乗り込む算段を立てておかないといけない。
「柳井さん、話はかわりますが、入れ替わり前の俺は、なんでギリギリの夜九時になるまで部室に来なかったんですか?」
「ああ。磯野の家の墓参りが今日だったらしい。そこから大学へ来る途中、夜の八時ごろに大学でドッペルゲンガーの発生もあって、遭遇しないように連絡を取り合いながら近くで待機してもらっていた」
そうだったのか。
世界がちがうと、おなじ出来事でも時間的なズレもでてくるんだな。
「明日は青葉が部室にくるから、そこでちばちゃん対策を考えることにしよう」
そういえば、
「怜はどうしたんです?」
「ああ。あいつは撮影旅行からずっと疲れが溜まっていたらしく、ここ数日、寝込んでいるらしい」
「あいつらしいですね」
「そうそう、千代田といえばもう一人の磯野が「すごく懐いてくるがなにがあった?」とぼやいていたが」
「……柳井さん、にやけないでくださいよ。なにもなかったんですよ。本当に、いやマジで」
翌日八月十七日 十二時二一分。
部室に到着すると、千代田怜が一人ソファに座っていた。
「よう。ほかには?」
「あ、おはよう。柳井さんと千尋は学食に行ってるよ」
――違和感。
……いや、空気感と言ったほうがいいか。
千代田怜のまとう空気がとても穏やかに感じる。オカ研側の怜が友好度マイナス50だとしたら、こっちはプラス30って感じだ。
……まあ、気にせず気にせず。
俺はソファに腰を下ろし、コーラのペットボトルをひと口つけた。
無言。
いつもなら、ふだんどおりなら、この無言は気にもならないのだ。
……のだが、ちらっと怜のほうを……って、なに顔をあからめてるのこの子! 目はそらされたのだが、なんだこのむずがゆい空気は。
冷静に言語化すれば、これはおたがい「意識してる」ってやつだ。
あ、これってラブコメ特有の、これからエンディングをはさんでバッド・コミュニケーションが発生しそうな感じのやつだろ。うわあ、すっげえ気まずい
「ねえ」
「……ん?」
「その……また入れ替わったんだってね」
「ああ」
「おかえり」
怜はニコッと笑った。
「あ、ああ……ただいま」
うわあ、どうしようこれ……。
いままで千代田怜が笑顔を見せるとしたら、スマイル五桁円をほのめかす打算的なものだったはずだ。
しかしいまのはなんだ? 万券なんかぶっ飛ぶくらいのいじらしいこの笑顔に、俺はどう応えるべきなのだろうか。
否、応えては駄目だ!
……たのむ! 誰か、誰か来てくれ! 俺たち二人のこの甘酸っぱい空気をどうにかしてくれ! いや、なんだ、ここまで言ってなんだが、この千代田怜は可愛いんですよ? とはいえ、いまはそれどころじゃないし、そもそも俺はもう榛名のことが……そうだよ。榛名なんだから、変に思わせぶりな態度なんてダメだ。男として。そうだここはビシッと、いや、まずは落ち着くために、コーラをひと口……、
「おっつかれさまでーす!」
ぶほあ!





